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いつでも君のこと好きだったよ

山城歌会 槐忌

2017-10-06 22:03:00 | 日記

 きょうは山城歌会。参加者は10名でした。

 

 いつもおとなしい人が司会をしてくださり、さりげなくみなさんがフォローされたりして、いい感じだなぁと思いました。作者に了承を得て、いいなあと思った歌をご紹介。

 

 ・大木となりし槐が黄の花を零して長き先生不在  黒住光

 

 批評のあたったひとが、「先生というのはお医者さんかどなたかか、旅行でもしておられるのでしょうか。主はいなくても槐の木が花を零しているという景がいい」と言われ、二番目にあたったひとが、「この先生というのは高安先生のことで、先生がなくなってから細かった槐が大木になるくらいの長い時間が経ったことがしみじみと詠われている」と批評されました。

 

 ほかにも、「真ん中の”長き”は、花を零している期間の長さと先生の不在の長さと両方にかけてゆるくつなげている」「長き先生不在という最後のおさめ方がぷつと切れた感じがする」「先生不在の長し、にしてはどうか」ということも言われました。

 

 亡くなったといわないで、「長き不在」という捉え方が、なんとなくおられないのはいまだけで、ふっと槐の木のむこうからあらわれるような、また戻ってこられるような気持ちでおられるんじゃないかなというようなことと、ここの歌会の場で「先生」は高安先生ということをくみ取れるひとがいるけれど、普通に読めば、お医者さんの読みのようにとられるかもということを私は言い添えました。

 

 山城歌会では1首が終わるごとに作者名が発表され、作者が短くコメントする、というスタイルです。

 

 光さんが、「先生は高安先生のことで、先生のお家の近くのバス通りが槐の並木道になっているんです。槐は咲いているときはうすい緑っぽい白い花なんですけど、道にこぼれるころにはクリーム色っぽい黄色になるんです。高安先生が亡くなったのが7月30日で、槐の花がこぼれていて、私は「槐忌」と勝手に名前をつけて呼んでいます。うちの近くにも槐の木があって、花が零れると先生を思い出します。細くてひょろっとしていた木が、40年経ってこんなに(両手でかかえるしぐさ)大きくなって。時間が経ったんだなあと思いました。」とおっしゃいました。

 

 光さんのお話をきいて、なんだかじいんとしました。槐の木はまるで「塔」みたいですね。塔が創刊されたころからずうっとご夫妻で高安先生を支え、先生が亡くなったあとも引き続き支え続け、いまもずっと一緒に歩んでおられる。高安先生が亡くなったとき、僕はレニングラードにいたんだよ、朝の4時に光さんから電話がかかってきて、「気をしっかりもってきいて」といってその死を告げられたんだよ、というお話も槐忌の話につけくわえるように黒住さんが話されました。師事してきた先生が亡くなって、どれほど心細かっただろう、と思いまた、そういう心細さも乗り越えてみなさんが塔を盛り立ててこられたんだなぁと思いました。

 

 山城歌会に行くと、塔の原点というか、歌への向き合い方を含めて、ぶれない人たちの強さに接する事ができて、いつも力をもらいます。

 

 きょうの歌会のあと、黒住さんはお月見会で和歌の解説をされたそうです。

 

 

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