ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

夜のお菓子の里~その2(静岡県浜松市)

2015年10月28日 | 古い建物
 夜のお菓子の里~その1の続きです。一日目、浜名湖を後にして、名古屋の友達と浜松の居酒屋で飲み、宿泊したのは東海道沿いにあるビジネスホテルです。東海道宿場町の忘れ形見みたいなボロい商店跡が貼り付いてました。ちなみにこのホテル、卵かけご飯が絶品。東海道沿いには大きなお地蔵さんがありました。江戸時代、文字や立て看板はみだりに立てることが禁止されていたので、道標の代わりはお地蔵さんや、大きな一本松などの樹木でした。
 

 徒歩で、浜松市街地にある徳川家康の城跡を訪ねます。徳川家康は27歳から45歳までを遠州で過ごしました。1568年、引馬城を攻め、2年間過ごした後、引馬城が手狭なために新しい城を築城し、引馬の地名を浜松と改め、45歳まで留まります。役目を終えた引馬城は穀物倉として活用されたという事です。現在、引馬城跡は1886年、「東照宮」(家康公を神として祀る神社)となりました。
 東照宮周辺は不思議な空気。こじんまりとした場所ですが、ここが浜松城、駿河城、江戸城へと、天下取りを目指していったスタートラインなのです。
  

 社殿の脇、滝に打たれる獅子。鷹が龍神へと变化する様子が描かれた手水舎。鷹は家康が最も好んだ生き物で、江戸の近郊の山林ではしばしば優雅な鷹狩が催されました。
  

 西側の丘陵地の上に建つ「浜松城」へ。征夷大将軍となった家康を始め、多くの幕府の要職になった侍を輩出したために、通称、出世城と呼ばれています。現在、浜松城公園として整備され、市役所、美術館なども敷地の中にあります。天守閣は鉄筋の再現された建物ですが、野面積みの石垣は戦国時代の遺構そのままです。天守閣から望む、浜松城から西へ伸びていく浜松の三方ヶ原台地。
   

 台地の上に建つ諏訪神社。浜松城内にあった、二代目将軍秀忠の産土神を祀る神社が、三代将軍家光の命で、この地に遷座されました。七五三で有名です。近くにあった素敵な洋館。昭和3年に建てられた静岡県の浜松警察署庁舎で、現在はアートセンターとして活用されています。お硬い建物なので室内装飾は控えめでした。向かいはやはり洋館の木下恵介記念館。
  

 地図なしの勘だのみで、地名も知らないまま、赤線地帯だった双葉遊郭を目指して歩いていたのですが、なんとなく美容院やバーバーの数が多くなっていきます。
  

 近い・・・そう実感させてくれる粋な作りの商店やブロック塀の意匠に期待は膨らみます。
 

 たじま・・・

 夜の菓子の里~その3に続く。

夜のお菓子の里~その1(静岡県浜松市)

2015年10月27日 | 寺社仏閣
 過ぎ去った夏の面影を残しつつ、詩情を含んだ秋の日差しに、琥珀色に輝く湖を汽笛を鳴らして進む遊覧船。浜名湖は忘れえぬひとときを訪れた旅人に約束します・・・。
  


浜名湖に行ってまいりました。お目当ては浜名湖畔にある遊園地「浜名湖パルパル」で土日に催されるニンニンジャーショーでした。 淡水と海水が交わる汽水湖の浜名湖に付き出した庄内半島。その付け根に広がる、岸が入り組んだ奇景に広がる遊園地施設は、1959年堀江城の城跡に遠鉄によって建てられ、その名も「遠鉄舘山寺遊園地」。周辺の舘山寺温泉が1958年に出来たので、それに合わせたレジャー開発だったのでしょう。
   

 折り悪くその日は雨。JR浜松駅前からバスで起伏に飛んだ道を45分、やっとこさ浜名湖パルパルに着きましたが、雨に煙り、全ての遊具も停止していて、ショーは中止!?の不安がよぎります。そうこうしている内に晴れ間が広がり、期待のショーが開催。ところが悪役の漫談みたいなやり取りが、のんびりとしたローカル色溢れる雰囲気で、目をパチクリ。でもスーツアクターのアクションはカッコいいし、半円形の舞台は、古代ローマの剣闘士の戦いを見ているみたいな気分にさせてくれました。撮ったアクターの写真はブログに投稿不可なのが悔やまれます。


 パルパルを後にして、日が暮れないうちに観山寺温泉街を散歩。温泉街の寂れっぷりは全国共通。しかし秋の連休中にこれでは・・・。
  

 湖畔に新旧の旅館が立ち並んでいましたが、廃屋旅館も沢山あって・・・うなぎパイの看板だけがつやつや。
  
 連れ込み旅館やスナックはわずかに痕跡を残すのみ。
  

 湖に突き出た小島のような館山に佇むお寺は「曹洞宗秋葉山舘山寺」です。遠州秋葉山の僧侶が修験道の修行の末に神格化され、秋葉大権現という火伏せの神様となった秋葉信仰のお寺です。この館山寺の歴史は古く、平安時代に弘法大師が開山したという由緒正しきお寺です。山の中には遊歩道があって、湖水を眺めながら散策を楽しめます。これまた古い社殿の愛宕神社もありました。
  

 館山の中腹にある穴大師です。横穴式古墳を基礎とした岩窟です。古墳の横穴でお大師様が修行!?
  

 

 雨でジトジト、もう帰りたい~。アクセスも楽な江ノ島のほうが数千倍楽しいでしゅ。  

 お大師様の霊場を軽んじると刻んでうなぎの餌にしてよ。(館山の慈悲深い大観音様)

 うなぎの骨のお土産もありました。うなぎに捨てる場所なし。夜のお菓子の里~その2へ続く。

戦隊ヒーローを訪ねて(東京都練馬区東大泉)

2015年10月26日 | 古い建物
 最近、東映の戦隊ヒーローシリーズ「手裏剣戦隊ニンニンジャー」に年甲斐もなくはまってしまいました。日曜日は朝早くTV番組を見て、都内各所で行われる住宅展示場や公園で催される戦隊ヒーローショーの活躍に、2~3歳児に混じって奇声を発し、夜は関連雑誌などを読みふけりながら、ニンジャたちに思いを馳せる日々なのですが・・・。

 
西東京市や埼玉県志木の住宅展示場。積◯ハウスの担当さんが♪セキ◯イ~ハウス~♪と歌う歌謡ショー付き。

  
江東区のステージでは千人以上の親子連れがおしかけました・・・。


誰からも顧みられない男の心の隙間を埋めるのは、いつだってヒーローよ。


ニンニンジャーに会いたいよ~。


この前、住宅展示場に来てたでしょ?遊園地にも来てたでしょ?何度も会ったでしょ?


お外でやるヒーローショーは代替商品だと気がついたのでしゅ。


んまあ!代替とか難しい事ぬかして!中の人に失礼よ!皆我こそは本物だと思って日々戦ってるんだから!


TVの本物の戦隊ヒーローに会いたいから、東映の撮影所に行くでしゅ。


やだ!松竹撮影所があった大船の飲み屋で粘っても、寅さんがひょっこり飲みに来たりしないように、ニンニンジャーには会えないわよ!


でも2歳児には物の理屈が分からないから来ちゃったでしゅ。

 西武池袋線、大泉学園駅からほど遠くない所に、「東映東京撮影所」があります。戦前は「振興キネマ東京撮影所」という名前でした。主に時代劇などは、京都の太秦の撮影所で制作されるでしょうから、もっぱら東京の撮影所では任侠映画や不良番長シリーズ、そして子どもたちに夢を与える戦隊シリーズなどが作り出されて来たのでは無いでしょうか。映画が娯楽の中心だった時代には、銀座の街並みを再現したオープンセットなどもありましたが、現在は跡地に大型ショッピングモールが入っていて、当時の面影は微塵も感じられません。
  
 
 正面入り口は当然警戒が強く、背後から回ってみたり・・・途中、馬頭観音を見つけました。周辺は坂道が多く、交通の難所であった事が伺えます。塀の中を覗こうといくら背伸びしてもニンニンジャーは見当たりませんでした。 
  

 唯一、映画が盛んであった時代を感じるとしたら周辺にやたら美容院が多いことでしょうか?美容師も華やかな映画産業を支える仕事です。レトロ調のガラスブロックで埋め尽くされた美容院も住宅地にありました。
 
 
 大泉学園駅周辺は広範囲に開発がなされていて、古い商店の街並みは乏しいです。大きな木立が印象的な北野神社がありました。
  

 撮影所東側の風景。東映橋を渡った所にある銭湯のある通りも寂れていました。
  

 撮影所すぐ脇の通りにある飲み屋の建物。
   

 大泉学園駅名の由来はそこそこ面白く、ご紹介いたします。古くから奥多摩から運ばれた湧き水の流れる白子川などがある事から大泉という地名になり、関東大震災後、箱根土地という業者が一橋学園を大泉の地に誘致しようと周辺域を開拓しましたが、叶わず大泉学園という名前だけが残ったと言うことです。また北側の埼玉県朝霞市の自衛隊駐屯地に、昭和16年、前身となる陸軍士官学校が出来ました。それに合わせて教官の住宅地が、大泉学園駅の北の高台に築かれました。整然と区画整理された場所で、通称「将校住宅」と言われています。
 これだけあれこれ栄えていた場所ですから、怪しいスナック通りぐらいありそうなものですが、これが一掃されて居て見当たらないのです。正義の味方がぶっ飛ばしちゃったんでしょうか?(さよならをするのは戦隊ヒーローの源流ゴレンジャーレッド)
 

 




 
 

天下無類の高尾山(東京都八王子市)

2015年05月25日 | 寺社仏閣
 最近、何処の観光地に行っても人人人・・・特に若い世代の娯楽の多様化が一段落して、目線が国内にシフトした結果、寺院巡りや名所見物の日本国内観光ブームが到来しているのでしょうか。忘れ去られた歴史的建造物や、寂れた観光地に、再び脚光が当たるのは喜ばしいことですが、そうとも言えない事例も多々有ります。
 「いにしえの街並みに心休まる一時」と謳った場所に行くと、まるで渋谷か原宿かといった様相の若者や外国人観光客が押し合いへし合い・・・。そしてよく見ると手には悪魔の教典ならぬ「ミシュラ◯・ガイドブック」・・・。
 東京都八王子市の標高599mの「高尾山」がミシュランの格付けでフィーバーして大変な事になっている、と噂される以前に登った時は、とても静かな山でした。しかし現在、平日でも縁日のような人混み。ケーブルカーさえ使えば、足腰に自信がない人でも山の尾根を散歩でき、都内から簡単にアクセスできる手軽さに加えて、昨今の山ブームでその賑わいは天下無類です。勿論、山登りのマナーなんてものは殆ど無視されてますから、横に広がって道を塞ぐお年を召したご婦人方のために、先に進むのも大変です。

 京王高尾線の高尾山口駅から少々歩くと、ケーブルカーの清滝駅の表参道。
  

 駅前周辺の古いみやげ店。もちろん、可愛いグッズショップなどもあります。


 

  

 清滝駅の右側、表参道一号路を登山。悪天候の次の日だったので、山が冷えていて休憩無しで山上まで登れました。浄心門を潜るあたりでは、ケーブルカー利用の参拝客も合流し、人々の列にもまれて大変。1200年より守護された薬王院の山門と、入り口を守護する四天王のうちのお一人。
  

 薬王院の御本堂。中では護摩祈祷が行われていました。 
 

 薬王院は真言密教ですが、天狗信仰もあって、片刃の鉄下駄などが奉納されています。
  

 1729年建立の御本社、飯縄権現堂(都有形文化財)。お寺なのに、御本社をお参りするには鳥居を潜るので、神仏習合のお寺です。奉納された鐘楼堂には沢山の寄進した寿司屋の店名が掘られていました。御札の販売所の周辺、ちょうど傾いた杉の木の周辺に神聖な物を感じるのは気のせいでしょうか?
   

 楽しい茶店の看板。下山はスリル満点のリフトで。
 

 高尾山口駅からひと駅のJR高尾駅は木造の駅舎。高尾は大正~昭和の天皇が眠る武蔵野陵墓地がある関係で、駅舎は新宿御苑から移設された由緒正しい建物です。駅前の広い通りは、甲州街道で、高尾駅の近くで町田街道と交わります。
 

 通りに河原宿という地名がありました。本来は、高尾駅から離れた場所に駒木野宿、小仏宿という宿場町があるのですが、簡易的な宿場街が後から出来たのでしょうか?
  

 戸口の設いといい、お稲荷さんといい、色街の跡のようにも見えますが、資料が無いので何とも言えません。駅前にはビジネスホテルもありました。
  

 

 

消えた新宿の景勝地(新宿区)

2015年05月25日 | 芸者町・三業地跡
 江戸時代、新宿中央公園の西(西新宿四丁目)を通る十二社通りは、もともと大小の湧き水による池がある「十二社池」という景勝地でした。随所に滝があり、涼を求める人々が乗り込んだ屋形船を、十二社池の一つの弁天池に浮かべた周辺には、茶屋が並び、三味線の音が絶えず聞こえ、浮世を忘れさせる光景であったと思われます。
 池のあった場所は、十二社通りの周辺で、1934年に十二社通りが出来て池は縮小し、水質の悪化などが原因で、1968年完全に埋め立てられました。現在都庁を中心とした高層ビル街の西新宿一丁目に、かつてあった淀橋浄水場が廃止されたのが1960~1965年ですから、60年代が一つの時代の終焉であると思われます。
 
  

 現在、西新宿は再開発で、どこもかしこも高層ビルだらけですが、池を望んでいた東側には今在も熊野神社があり、西側の高台のあたりには今も三業地(芸者置屋、料理屋、待合)の名残が僅かにあって、唯一落ち着きを感じさせる場所となっています。
  
 
 また以前は、「十二社天然温泉」というマンションの地下にある昭和カラーな温泉施設がありましたが、2009年に閉館。創業された当時は、堂々たる4階建ての遊興施設で、漆塗りの中国式様式の内装、各階に100畳敷の大宴会場があったというから驚きです。しかしそんな竜宮城のような芸者館は一切消え失せました。

 温泉施設も現在は貸しロッカーに。池の畔にあったのか、イチョウの大木が残っています。
 

唯一近年まで営業していた料亭、「一松」の風情はどうでしょう。

   

 赤線風の沢山ドアのある建物。電信柱には三業の文字。木造モルタル造りの貸座敷は殆ど民家と見分けがつきません。

  

 コンクリートの坂道に佇む連れ込み旅館「一直」。以前は待合で、柵の部分の意匠など凝っています。

  
  



 コンクリートの狭い階段。花崗岩の石畳ではありませんが、それなりの時代を感じさせます。
 

 花街のお稲荷さんや、周辺の居酒屋。
   

 品川亭は三業地時代からの料理店。まだまだ使えそうな待合の跡もあります。
  

 大谷石と砂利の洗出しの塀がモダンな家屋。
 

 都内には、四谷荒木町や、溜池山王のようにかつて池であった場所が沢山あります。高台から、中央公園、都庁を望むこの光景から十二社池を連想する人がどれだけ居るでしょうか?

変わるもの変わらないもの(新宿区)

2015年03月04日 | 古い建物
 悪徳の巣、新宿の百人町が近頃、どんどん綺麗になっていくので、撮影してまいりました。
新宿区百人町はもともと、徳川家の護衛のために百人同心が住んでいた場所で、のちに高級住宅街になるも、戦火にさらされた後は、コリアンタウンとなって、街娼のメッカとなりました。一頃などは、山手線と中央線に挟まれた三角州のような暗黒地帯に、世界各国の売春婦が様々なお国訛りで「オアソビ~」「シャチョサーン」と呼びかけるさまは、大人の国のイッツアスモールワールドのようであったと、伺います。しかし、石原都知事在任時に、売春婦が一掃されると、ビジネスホテルや連れ込み宿の類は退去する他なく、韓流グッズやチヂミを販売する店舗に変わって、至って健康な町並みへと変化しつつあります。

 悪徳が栄え、風雅な連れ込み旅館から、ビジネスホテルまで新旧の宿泊施設が垣間見れる三角州地帯です。
  

 かつてのビジネスホテル天国も、風前の灯火。
 

 職安通りからの眺め、この愛すべきボロボロな光景も、少しずつ建て替えなどが進んでいます。
 

 おそらく進駐軍時代からの連れ込み宿の跡でしょうか。こうなると文化財です。
 

 皆中稲荷神社は、百人同心の守り神。鉄砲がみなあたる事を祈願しているので皆中と言います。現在は、スピリチャルな書籍などで、宝くじが当たるなどと紹介されたために、次から次へと人々が訪れ、ボロボロだった境内が綺麗になってしまいました。
 

 結婚式場の看板などに時代を感じます。 
   

 こちらは歌舞伎町、2015年、建て壊しになる映画館、ミラノ座を見てきました。以前は新宿コマ劇場があったり、歌声喫茶の洋館があった事で、大衆娯楽を支える街の雰囲気を留めていた歌舞伎町も、騒々しいだけの街に様変わりしてしまいました。歌舞伎町でおそらく一番ディープな場所に、大正時代に建てられた弁天堂までいつのまにか無くなっていました。

 レビュウや演歌歌手のショーを催していたコマ劇場は、現在東宝シネマの施設に。ボーリング場があったピンクのミラノ座は果たして何に変わるのでしょうか?
 

 

 かつて淀橋浄水場があった西新宿の、都庁を始めたとした場所は、高層建築にあふれていますが、税務署通りを挟んだ西新宿と北新宿は、古びた家屋や商店がひしめく町でした。ところが、税務署通りの拡張工事が完了すると共に、また大開発が入ってしまったのです。
 そんな中、時の流れを止めたかのように永久不変の姿で高層ビル群に対峙している建物があります。その名も「ときわ荘」。ちなみに漫画の神様達のかつてのお座所はトキワ荘ですので、関係ありません。


 吸い込まれそうな入り口。永久不滅のときわの文字・・・。
  

 数々の消えていったオンボロ物件たちの無念の叫びがここに集結して、街を無機質なビル群に豹変させる開発屋さんに呪詛電波を発していると思います。正直、住みたくはないけれど、いつまでもそこに有らんことを、と願わずにはいられません。
 

 

スナックゆの花(長野県上田市)

2015年03月03日 | 赤線・青線のある町
先日、信州は大停電と情報があるにも関わらず、新幹線でかろうじて電気の通っている雪の軽井沢まで行き、そこから各駅のしなの鉄道に乗り換え、上田駅から別所線に乗り換え・・・都内から4時間かけて行ってきた「別所温泉」。そこは箱根と信州の鎌倉と異名をとるぐらい、仏教寺院が多く、印象としては箱根と鎌倉を足して小さくしたような場所でした。

 終着駅別所温泉駅へ。時代を感じさせる近代建築でした。
 

 温泉街まで、勇壮な夫神山を望みながら坂道をひたすらあるくと、「北向観音」の石造りの門が見えてきます。
  

 厄除けで名高い「北向観音」は平安時代、比叡山延暦寺の慈覚大師によって開創されたそうです。南向きの善光寺と合わせてお参りするとはじめてご利益があると言われています。善光寺に似た破風の形や年月ですすけた材木に貼られた千社札が印象的でした。


境内にある「温泉薬師瑠璃殿」。こちらは境内の前に流れる湯川が氾濫した時に流されて、水を避けるように崖の下に再建されたものだとか。縁の下の木組みが綺麗です。奉納されたおカイコの繭で書かれた北向山の絵馬。上田市では上田紬が作られ、養蚕が主な産業でした。


寺院の前を流れる湯川沿いに土地が大きく凹んでいて、そこだけ別世界のミニ参道になっていました。現在はは小さな川ですが、昔は大きな流れだった跡でしょうか。 
  

 別所温泉は、日本武尊が見出したと言われる古からの湯です。湯川沿いには「大師湯」というお堂を模した共同浴場もあります。家族風呂のような小さな浴室なので、地元の方と楽しくお喋りをしながら入浴しました。硫黄の匂いが強烈でしたが、それゆえに皮膚疾患などには効果がありそうです。周辺には至る所に温泉が引いてあって、お湯の洗い場までありました。
 

 「常楽寺」は、北向観音の本坊です。現在も茅葺きのスタイル。


 別所神社には、農村歌舞伎を上演していたのでしょうか?大きな舞台があって、そこから独鈷山という尾根が鋸型の尾根が見渡せます。
 

 「安楽寺」の国宝三重塔は八角の屋根の梁が幾何学模様を描いて連なる様子が優れています。北条氏の加護を受けて鎌倉時代に建てられたものが、現存しているのは大変貴重だと言う事です。複雑な図形を描く梁の様子、眺めるだけで瞑想を十分誘います。
 

 赤線は、上田の市街地にあるのですが、こちらの温泉街にも遊郭跡と思しき建物がありました。長野県は表向きは廃娼県なので、遊郭ではなく料理屋と呼びます。一見、料理屋なので、小料理屋や定食屋と見分けがつかないのが特徴です。ですので、弱気に撮影しました。

 大通りと違ってなんだか、怪しさあふれる通り。
 
 
 レトロな用品店に、軒や柱のデザインがモダンな家。
  

 一見、素泊まりの旅館風なのから、スナックまで様々。
  

 火山岩に見せかけたセメント加工、粋ですね。
 

 スナックゆの花、そしてスナックちゃこ!!
 

 もちろん民家かもしれませんし、想像するだけですが・・・。
 

 目を奪うタイル物件。
 

上田の市街地に戻り、上田遊郭(新地)に向かいました。真田氏の居城上田城の北側で、駅から徒歩で40分以上。1972年まで鉄道が通っていたのですが、廃線で、現在駅も更地になっています。かつて養蚕業が盛んだった上田市では、多くの絹糸業者が訪れた事でしょう。蚕糸業の繁栄と共に、夜の街も賑わいます。市を上げて遊郭を盛り立てる為に、明治の廃藩置県で老朽化するのみの上田城の櫓を、料理屋(遊郭)の店舗にするために売却した事もありました。しかし華やかな時代は去り、現在はスナック一軒すら見当たらないただの住宅地となってしまいました。

 廃線となった花園駅跡地は物悲しい砂利道に。新地の入り口は立ち食い寿司か、うなぎ屋と相場が決まっているので、入り口はすぐ分かりました。
 

 他の住宅地と違って、道が不自然に整然としてくると、そこは新地です。吉原に習って、大通りを挟んで、左右に店舗が区画に沿って建てられたようです。
  

 お堂が、大通りを見据える形。出梁造りの旧遊郭時代の建物も。格子などが昔はあったのかもしれません。
 

 凝ったただの民家なのか、それとも料理屋なのか・・・かろうじて、塀の意匠で分かる程度でした。
 

 駅の近くの繁華街には面白い通りがありました。花やしき通りです。古き良き浅草のお笑い界を舞台にした映画撮影ために、上田劇場という古い映画館が雷門ホールとして使われて、看板がそのまま残っていました。
 
 

ミステリーゾーン筑波山(茨城県)

2014年06月06日 | 旅行
 梅雨入り前に、いそいそと筑波山に登山に行ってまいりました。終始、モヤがかかっていて、山の全景や、頂上からの風景を収めることはできませんでしたが、古代から祭礼の場所として崇拝されてきた筑波山の神秘をそこかしこに感じる事ができました。
 

 標高270メートル、筑波山神社です。神社の境内は拝殿のみで、本殿は二つの峰、男体山(伊弉諾の尊)、女体山(伊邪那美の尊)の頂上にあります。いわば山全てが神社の境内、神域です。
  

 神社の左側の登山道は、男体山登山道です。ケーブルカーの脇道を行く相当急な山道で、初心者向けの山という謳い文句を信じて、緩い坂道を期待していた私には、壮絶の一言でした。途中めかし込んだ山ガールが、出産せんばかりにヒーハー言っていました。スズメバチに襲われたりのトラブルに見舞われたりしつつ、なんとか二つの峰の股に当たるケーブルカー山頂駅へ。そこは新旧の山小屋や、お土産物売り場があって面白い場所でした。休憩を挟んで、男体山山頂(871m)を目指すと、小さな祠がありました。岩盤が剥き出しになった手狭な場所です。
  

 歴史を感じさせる廃墟も沢山ありました。
 

 お目当てのガマ石を見つつ、険しい道を行くと、女体山山頂(877m)です。モヤはいっこうに晴れてくれませんが、高所恐怖症なので、下界が見えなくて好都合・・・。そして下山路には、古代の巨石信仰、「磐座」を沢山見る事ができました。「弁慶の七戻り」という石は、弁慶も行きつ戻りつしたと伝えられる、落ちてきそうな石です。
  

 こちらの「高天原」という石。少し大きめの祠があって、天照の神々を始めとした神様のお座所を示しています。木漏れ日が陰陽の雲の中から頭を出す龍に見えて、それはそれは神聖な感じがしました。 
  

 苦しく楽しい下山も、中腹のつつじが丘で、終わり・・・の筈が、あたりを埋め尽くす異様なオブジェの数々。
  

 水の枯れた人工の滝や、密林と化して散歩できない散歩道、ここはB級スポット「ガマランド」のようです。
  

 誰も居ないレトロ食堂の「いらっしやいませ」の文字。


 立川談志を彷彿とさせる、ふてぶてしい造形。
   
 
 ガマ洞窟の別名「からくり迷路」・・・ほとんど江戸川乱歩か横溝正史の世界。
 



 ¥500払っていざ入場。ひょっとこの下のジャンボマックス・・・精神を病んだ猟奇的殺人鬼の家にありそうなぬいぐるみの数々。
  

 恐怖が早速入り口でクライマックスに。
 

 中は真っ暗。センサーで叫ぶ人形、かび臭く朽ちていく人形、奇怪なオブジェ・・・阿鼻叫喚の世界。
   

 決して見てはいけないと言われた青髭公のお部屋・・・でも見たいのが人間心理というものです。  
   

 出口は昭和な雰囲気。科学万博の懐かしいマークを発見。
  

 さようならガマランド。また逢う日まで。

赤線特集その二(江東区洲崎)

2014年04月08日 | 赤線・青線のある町
 

 今回訪れたのは「洲崎」の赤線跡(現在東陽町)です。江戸時代から辰巳芸者や相撲興行などで遊興の場として名高い深川に近い洲崎でしたが、江戸時代は海沿いの低湿地帯で、高潮の被害などがあったことにより、幕府により住居とすることを禁止されている地域でした。洲崎神社(洲崎弁財天)の境内には江戸時代の波除碑が残っていました。震災と空襲を経てボロボロでした。
   
 しかし明治19年に転機が訪れます。文京区に東京帝国大学(東京大学)を建設するために、根津神社周辺の根津遊郭がすべて立ち退きを迫られる事になり、そこで移転先に選ばれたのが、洲崎の埋め立て地でした。吉原を彷彿とさせる大通りと、整然と並ぶ路地による巨大な遊郭街の誕生です。洲崎は、戦時中は工場用地として営業を停止、空襲を経て戦後は、大門の通りを挟んで東側の地域のみが遊郭として営業を再開しました。1958年売春防止条例が施行されるまで、カフェーという和洋折衷の遊郭の建物がひしめいていました。
 他の赤線は、防止条例後に、スナックや旅連れ込み宿がひしめく歓楽街に転化するか、ただの住宅地になるかですが、洲崎が辿ったのは以外にも後者でした。木場や工場地帯の労働者たちが歓楽街に集うという図式が時代の流れと共に崩壊してしまったからでしょうか。数年前に訪ねた時には、現存するカフェー建築は驚く程少なく、わずかに残っていた店舗の跡も、先ごろの大震災で、建て替えを余儀なくされました。

 某政党の建物として近年まで使われていた大店の「大賀」。母屋は和風、一階のサロンを持つ店舗部分は洋風、黒いタイルの円柱、沢山ある戸口・・・全てが印象的でした。現在は建て替えされています。


 

 大通りに面したアールデコのような近未来的なデザインの建物、様々な店舗が居抜きで使用していましたが、建て替えになっていました。
 

 青い柱はすべて豆タイル装飾で、日中は眩いばかりでした。
 

 堀の外側にある一杯飲み屋は赤線時代からのもので、今は無くなった地名「洲崎」の名を持つ飲み屋もありました。


  

 現在は埋め立てられていますが、以前は洲崎川だった部分に洲崎の入口はあります。戦後はネオン管で「洲崎パラダイス」と輝く大門が掲げられていました。大門通りの広さは、かつて鉄道でも通っていたような風情です。交通ルールを説いているだけとは思えない奇妙な啓蒙看板もありました。
   

 2004年4月現在、主だったカフェー建築は無くなっていますが、赤線時代の建物を改装して、住居として活用している物件はまだ見ることができます。装飾を取り払って、こざっぱりと改修しているので、これからも長期的に残っていくでしょう。
 

  

 軒下や角々に、わずかに残る装飾。スナックも大人しい雰囲気です。
  

 遊園の文字のある電信柱がありました。
  

 古い赤線時代の電信柱のある通り。掲示板もまだ木製です。 
  

 防火壁のウダツ風の装飾がある民家。バーバーのタイルも古風な配色。
  

 珍しい意匠の建築。この建物のある大通りの西側は、戦後は一般の商業地域になりました。
  

 蔵のような民家。ネズミ返しのような装飾。
四方を土手に阻まれていて、そこかしこに息苦しいような雰囲気が残る洲崎でしたが、カフェーの主だった建物が姿を消した事で、少し町の雰囲気に変化が出たようでした。古い建物が好きな者にとっては寂しく、実際に住んでいる人々にしてみれば風通しが良くなるのは歓迎すべき事なのかもしれません。
  

 路地裏だろうが民家だろうがカメラ向けまくる輩が風通しとか、聞いてあきれちゃうわ。

赤線特集その一(葛飾区立石)

2014年04月05日 | 赤線・青線のある町
 10年以上前、はじめて本屋で「赤線跡を歩く(木下聡著)」を購入した時は、赤線を魔界の入口のように思っていました。しかし実際に赤線跡を訪ねて歩くと、かつて使用されていた店舗の建物はとても特殊で面白いのです。しかしここ数年、建物の老朽化による建て替えなどで、地域における赤線の記憶のようなものが無くなりつつあります。ですので、ここ数年の街歩きの総仕上げのつもりで、東京の下町~多摩、埼玉の都心周辺の赤線跡の町を取り上げてみたいと思います。(年表などの記述に事実と異なる表記などあるかもしれませんが、ご了承下さいませ。)


 葛飾区立石は、大きくうねる川沿いの土地で、度々の洪水に見舞われています。しかし意外とその歴史は古く、周辺では古墳時代の遺物が発掘されたりしています。そのうちの一つが「立石様」と呼ばれている、地中深くにめり込んだ岩石です。房州石と呼ばれる千葉県産の岩石で、江戸時代は道標などとして活用されましたが、不思議なパワーにあやかる人々が戦地に赴く兵士のお守りとして削ってしまったために、今現在は若干地上から姿を現すのみとなりました。古墳の石室を作る為に房州から持ち込まれ、石室の一部が露出しているのではないか?と言われていますが、都心部における唯一の磐座(巨石信仰)としてとても興味深いものがあります。
 
  
 

歴史の立石・・・低湿地帯の下町のイメージが一新したわ!

 
 立石の赤線は、京成立石の駅のすぐ近くを散策すれば見つける事ができます。空襲で焼け出された亀戸天神裏の遊郭の業者が作った遊郭で、戦時中昭和20年には民家を改装して既に作られていたといいます。戦後は、進駐軍の遊興の場所としてRAAに指定され、黒人兵が出入りしました。(当時は人種や地位の垣根は深かったので、白人と黒人、一般兵と将校は同じ地域では遊ばず、住み分けがなされていました。)一年後、進駐軍の出入りはオフ・リミッツ(立ち入り禁止)とされ、赤線地帯として指定されます。
  

 正面から見ると、洋風のカフェー、側面から見ると和風の遊郭のスナックつかさ。吉原や洲崎にあったような大店以外は、和風の建築に洋風の外壁を張り付けているだけの建物が殆どです。赤線時代の綺麗な豆タイルが塗装から覗いています。


  

 一つの建物に2つ戸口があります。一つの戸口につき、一名の女給さんが客引きを行えたと、法的な決まりがあったので、カフェーは沢山の入口を持っています。また二階の小部屋に上がる道筋もそれぞれ別だったようです。
 

 大通りからは見えないような小道。
 

 何度か折れ曲がる道を抜けると、開ける通り。
 

 立派な装飾、その建物をサメが見上げる景観・・・。
 

 モルタルの外壁に施された、様々な左官屋の手仕事に、「粋」を感じます。
  

  


 通りに面していたところは小料理屋風。
 

 建物のディテールが浮世離れしています。
   

 立石は、赤線跡も開発の手を免れていますが、近隣に闇市跡から青線酒場に移行したであろうスナック街も丸々残っている所が凄いです。昨年、下北沢の駅工事に伴って闇市跡が取り壊しになったので、こういう景観もまた貴重だと思うのですが・・・。
 

   

 ハートの模様が印象的な戸口。まだ残る木の電信柱。ずっとこのままで居てほしい立石でした。
 

多摩の酒蔵と米軍の夜(福生市)

2014年04月01日 | 赤線・青線のある町
 まず行き交う人々に明るい話題を提供していた三鷹駅近くの子供服屋のプリティ富士が閉店して、ごくごく普通の展示場に変貌してしまった事をお伝えいたします。勿論、あの愛くるしいマネキン達も今頃スクラップ。


ウソでしょ?!
更新時は4月バカだけれど、まぎれもない本当よ。

 さて、多摩の酒蔵、福生にある田村酒造場に行ってまいりました。江戸時代文政5年より、秩父奥多摩伏流水を仕込み水として、「嘉泉(かせん)」などを作っています。
 JR福生駅を降りて、多摩川の流れる東に歩みを進めると、福生神明などの神社仏閣が目につきます。
 

 そして多摩川と、人工河川の玉川上水に挟まれた田丸酒造場一帯の土地の古めかしい景観は、そのまま江戸時代!




 黒々と光る屋根瓦、春の日にまばゆいばかりの白壁。敷地内は田村家の母屋と日本庭園もあってとても広く、一部古い蔵を製品の展示場としていました。ただ、利き酒できるような土産物屋やレストランは無く、事務所でカタログを見て購入するシステムでした。
    

 駅周辺に目を移すと、シャッター通りでした。古めかしい食堂や、手動の台が置いて有りそうなレトロなパチンコ屋。
 

 福生駅の東側は、米軍横田基地(旧日本軍時代は多摩飛行場)です。上空を巨大な戦闘機が通過するたびに、敗戦国に生まれたんだな~と思います。終戦後、立川にあった米軍基地(旧日本軍の立川飛行場)は米兵のためのバケーション施設も兼ねており、立川を歓楽街へと様変わりさせます。ところが米軍と市民との対立は深く、砂川騒動などを経て、立川の基地は閉鎖され(1969年)、戦後接収していた福生の横田基地に全ての機能が移転してきました。と同時に、福生の歓楽街の規模も大きくなっていったことでしょう。
    

 戦後の一時期、赤線と認可されていたのは富士見通りという通り周辺で、他所の地域の花街に見られるように、店舗が人目を避けて路地裏に密集したりするような構造をしていません。あっけらかんと、飲食店やジャズバーなどと共に、少し広めの路面に面してお店が立ち並んでいます。


 
 
 福生不動尊ギリギリまで立ち並ぶ、スナック。


立ち入り禁止の古いお稲荷さんまであって、米軍のための歓楽街になる前から何かしらの賑わいがあった場所なのかもしれません。
  

 人魚・・・いちご・・・。
 



 観光旅館風の連れ込み宿(屋根の水色は諸外国では娼婦をイメージさせる色彩的なサインです。)そして「バイハイ」と言う名前のラブホテル。第二次世界大戦時の米軍キャンプが舞台のミュージカル「南太平洋」で歌われる夢の理想郷バリハイがモデルでしょう。花咲き乱れる夢の島が、こんな〇末に・・・。
 

 かく恋慕・・・女帝・・・カトレヤ・・・。まだ現役まっしぐらの町なので、長居はできませんでした。
 


瀬戸内国際芸術祭2013 秋会期(~その2)

2014年02月04日 | 瀬戸内の名所・旧跡
 瀬戸内国際芸術祭2013 秋会期(~その1)の続き

香川県丸亀市の猪弦一郎美術館において2013年7月13日~11月4日の会期で、大竹伸郎展「ニューニュー」が行われました。
今回行われた瀬戸内芸術祭の参加作品では無いのですが、芸術祭の立役者というべき作家の展示ということで、拝見しました。

  
 


 今回の大作、2012年、カッセルの森で展示されていた野外展示を屋内美術館に移しての展示「モンシェリー:自画像としてのスクラップ小屋」です。

 
 
 スクラップというと、昭和世代が旅行をすると、旅先の観光案内のパンフレット、旅館の箸袋、ホテルのコースター・・・なんでも印刷されたものは持ち帰り、写真と共にスクラップしたもので、そういうノスタルジックな甘さや、年代と共に色あせていく写真が示す、思い出の儚さがスクラップという言葉にあります。・・・と同時にそれは、本来の何かを表示していた目的から切り離された紙媒体たちが、貼りこむ行為によって死滅せられた残骸をも示してして、旅先での思い出を共存し得ないスクラップした本人以外の人が見るとまさにスクラップゴミであるという皮肉があります。

  

 中では、自動演奏をするエレキギターが、不気味な音を奏でていたり、昔の音楽番組の音がエンドレスで流れています。「俺達を忘れるな!」と作品が叫んでいるような気がしました。

 

 海岸沿いの寒村のスナックのような・・・そんな感じです。打ち捨てられたボートやキャンピングカー。いろいろなメッセージがそこから読み解けそうでいて、ブクブクと飽和しては、その重力で形を成さずに崩れ去る泡のように、印象の根幹が捉えられないもどかしさ・・・そこもまた魅力です。(分かりやすく言うと、なんじゃこりゃ!って事です。)
 
   

 他にも新作の立体やドローイングの作品、遊戯施設の廃墟の一部を作品としたものなのどがありました。また美術館の入り口上部には、「宇和島駅」のネオンサイン。とてもノスタルジック。
  

 もうひとつ、瀬戸内のアートを語る上で外せない香川県高松市にある建物をご紹介いたします。丹下健三の「香川県旧庁舎」です。1958年竣工、地上8階建て、鉄筋コンクリート造りです。当時、権威的な戦前の洋風建築が主だった県庁舎の建物の中で、このコンクリートの洋風な装飾を廃した建築物は大変モダンな存在でした。幼少の頃からこの建物を見ていた私は、公共の建物というものは逆にこういうスクエアを重ねた作りのものだと思っていたので、地方の無機質な図書館や公民館などを見ると、妙に懐かしかったりします。
 

 しかしただの無機的な建物だと思っていたのは子供の無知ゆえ、建物は五重塔のような重層構造で、築山や太鼓橋のある日本庭園を設け、ロビーには茶の湯の精神を現した猪熊弦一郎の陶板壁画・・・と実に贅沢なつくりです。
 特筆すべきは、強度ギリギリに張り出した各階のバルコニーとそれを支える薄い梁で、50年以上経った今も、コンクリートには亀裂が入っていません。大勢の職人たちが竹竿で生コンと砂をかき混ぜて、完全に空気を抜いてコンクリートを固めていた当時だからこそ出来た技術で、逆に現在のスピードを重視した建築工程では、再現できないという話です。

  

 一枚岩を削り出したテーブルや、砂利を敷き詰めた地面、作り付けの家具、すべて美術的価値があるという事で、新庁舎に機能が移った今も旧庁舎は、公開保存されています。

 

  

瀬戸内国際芸術祭2013 秋会期(~その1)

2013年10月29日 | 瀬戸内の名所・旧跡
3年に一度開催される瀬戸内国際芸術祭に行ってまいりました。今回は春夏秋と3シーズンに分かれた会期で開催され、瀬戸内の「栗島」「高見島」「本島」が新たに開催場所として加わりました。
 前回、お邪魔した時は「男木島」「直島」へ行きましたが、今回は「木島」「女木島」「本島」へ伺いました。

 「女木島」はうどん県にあるメインポートとなる高松港に一番近い島で、昔は遠泳の授業で泳いで渡ったとさえ言われているぐらい、高松よりの島です。通称は「鬼ヶ島」。人工の大きな洞窟が島の山頂にあることから、ついた名ですが、海賊と思しき賊が住んでいたであろう洞窟の歴史的価値など詳しいことは分かっていません。

 のっけから台風の影響で大荒れで不安な旅路。しかし波頭が少し白い程度だった瀬戸内より、太平洋側のほうが大変な事になっていたようですが・・・。

 「女木島」「男木島」を行く「めおん」という船の名が既にアート。女木島の港にはかわいいカモメのアート。
  

 女木島の港の近くに松林の神社があって、その裏に休校になった小学校があります。その中庭に展開されているのが、大竹伸郎作品の巨大な「女根/めこん」です。男木島だったら「〇根」ですから、もうとてつもなく意味深なネーミングです。 
   

 小学校の下駄箱周辺が入り口になっていて、最初に目にするのが女性のお股の根っこです。
   

   オマタ・・。
 

 まるで昭和に開催された万国博覧会の展示のようににぎやかな虹の庇。




 同氏の作品「直島」の「I💛湯」のように密度のあるコラージュされたタイル装飾。
 

 淫靡な雰囲気の熱帯植物は、昭和に流行した「ローマ風呂」「熱海温泉」といった南国的パラダイスへの憧憬を感じます。
  

 作品を埋め尽くす廃材は一度その命を終えたのに、作家によってアートに蘇った屍達が、思わず漏らす歓喜の声・・・。
  

 

 

 休校した学校に残された子供たちの作品もまた趣がある感じです。かつては子供たちの教育の現場だった場所が、性のパラダイスを表出する作品展示会場となってしまった事が「女根」というスケールの大きな作品にさらに、奥行を与えていると思います。
 
 
 女木島の小高い山頂に登山して行く途中に古墳がありました。ここは古墳時代に、瀬戸内の海運において何か重要な場所であったのかもしれません。そして、わたしが幼少の時、目にした洞窟には無かった鬼のオブジェがお目見え。(B級観光地の必須アイテムセメント人形)
 

 真っ暗な洞内で展開されていた「カタツムリの軌跡」という映像作品。そしてB級観光地ならではの鬼に閉じ込められた女の人形。ちょうどこの時洞内には私一人きり・・・。
 

 鬼がサヨナラーはいいけれど、後ろのパネルで大人数なのを演出なのはいかがなものでしょう。帰りの道すがらは、蛇やスズメバチに遭遇しして、「高野聖」のお坊さんのように自然の脅威に蹂躙されながら転がるように下山しました。「めおん」の船内には不思議な抽象絵画。
  

街角アートフェスティバル

2013年08月20日 | 古い建物
 ふと訪れた町の不思議な光景に、思わず歩みを止めてしまった事はありませんか?玄関先に並べられたお花や創造的なオブジェの数々・・・またある時は思い思いのメッセージを詩情溢れる言葉に託した手書き文字看板・・・町や商店をまるでキャンバスのように自由に彩る画家や詩人達に、今回は焦点を当ててみることにしましょう。題して「街角アートフェスティバル」・・・。
 
 作品タイトル「カーニバル」(東京都H市)
 東京都と言えどもかなり郊外にもなると、外食をするのも一苦労。そんな時に訪れた、うどん屋さんがもし美術館のようなうどん屋さんだったとしたら・・・。いえ、こちらは本当はうどん屋さんのような美術館かもしれません・・・。
 
 
 本物のアクセサリーをつけた不思議なオブジェと信楽焼きのタヌキの取り合わせがグー。
 

 何処を切り取っても絵になる光景・・・。
 

 五重塔の飾りはなんとサンタクロース。
 
 
 ミラーボールだって、このとおり盆栽に!そして来客にお茶を勧めるやまとなでしこ。
 



 作品タイトル「愉快なマーチ」(東京都T区)
 風邪も病気も入り口に居る愉快なカンガルーさんを見ただけで吹っ飛んできそうですね・・・。


 

 手書き文字やイラストに味があるのはアーティスト達に共通するポイントです。
 



 作品タイトル「幼心の君へ」(東京都S区)

 大規模な開発に揺れるS区ですが、すこし懐かしい通りに踊る言葉のシンフォニー。幼心を忘れない貴方と読みたい言葉です。
 



 ・・・・・・。


 作品タイトル「幸福の鳥はいずこへ」(東京都S区)
 ふくろうは苦労知らずの鳥。そんな鳥にあやかって自宅をふくろうのパラダイスに変えてしまったようです。

 

 


 作品タイトル「エチオピア」(東京都T区)
 飲食店は街行く人々の目に留まるようにあれこれ店舗のデザインに試行錯誤をするのは当然と言えば当然。でも時としてそれは町を美術館に変えてしまうミラクルも潜んでいるようです。
 




 作品タイトル「待ち遠しいティータイム」(東京都S区)
大御所の風格さえ漂うこちらのお店・・・。あれこれ言わずに時を忘れてじっと見ていたい、そんなお店です。
 



 
 作品タイトル「我ら番人達」(東京都S区)
 野外に縫いぐるみ・・・愛くるしい動物たちの物語にそっと触れてみませんか?物語は無断駐車をする車を、動物たちが見張っている所から始まります・・・。
 

 中世の騎士や動物の目が一方向を向いているのが鑑賞のポイントです。
 

高台の迷宮・文士村~その2(新宿区・下落合)

2013年08月11日 | 近代建築
 文士村巡り、今回は下落合文士村です。西武新宿線の中井駅、および下落合駅の北側は、目白の台地で、旧華族、財閥、そして文壇、画壇の作家たちの住居が立ち並び、古くは徳川家の鷹狩の場所として市民はお留められる土地で、今もその名残で「おとめ山公園」という公園が残っています。
 
 目白駅周辺は言わずと知れた学習院がある場所で、ハイソな雰囲気ですが、下落合文士村周辺は、おそらく農地を開拓した居住区で、現在は古いお屋敷の立て壊しも進み、かつての高級住宅街であった頃の雰囲気はわずかしか残っていないようです。
 
 洋館の聖母病院と、目を引く古い門構えの家。
 

 古びた民家や管理されていない廃墟の中に、ひっそりと青白く佇むのが、パリの街角を描いたことで有名な画家、「佐伯祐三のアトリエ記念館」です。
 

 数年前にお邪魔した時は、藪の中に佇む、ペンキの剥げたお化け屋敷のような雰囲気でした。しかし、晴れて新宿区が再整備し、母屋を壊して(勿体無い!)採光のために高い天井を設けたアトリエ部分と、佐伯自身が増築したという洋間と離れの茶室だけが、再現されていました。部分的にオリジナルの古建材でしたが、綺麗過ぎて物足りなさを感じました。
 
 
 しかし、佐伯の作品や人生について何も知らない私は、その生涯を紹介した映像に感動しました。パリから帰国後、大正時代の好景気の時に、裕福な親族の援助を受けて、この下落合に完成した豪華なアトリエでの、画家としての活動は4年ばかりで、再び目指したパリにおいて、体と精神を病んで亡くなった佐伯と、物悲しい街角の空気すら写し取ったようなパリの画風に言い知れない気持ちがしました。
 

落合でみかけた佐伯祐三の描くパリの街角のような店舗。


 今度は「中村つねアトリエ記念館」です。同じ下落合ですが、佐伯のアトリエからけっこう歩きます。37歳で夭折し、その作品数が限られている洋画家ですが、新宿中村屋の創始者が設けた文化サロンに出入りしたり、親族の援助があるなどして、幸福にも立派な赤い瓦屋根のアトリエを設ける事が出来た画家です。不勉強で知らない画家でしたが、エルグレコの祭壇画のような縦長に伸びていく空間と、病弱であった故に、どこか悲痛な雰囲気を漂わせた洋画が印象的でした。整備されている以前は鬱蒼と木が茂っていたのに、現在記念館の庭は綺麗になりすぎて、観光地のレストランみたいでしたが、内部は当時の古い家具とボロボロの床板をあえて残していて、とても貴重な資料だと思いました。
 

 中井駅から近い、「林文子記念館」は必見です。晩年の作家、林芙美子が立てた住居です。林芙美子の名はその作品よりもむしろ、女優森光子が一世一代の大当たり役として演じていた菊田一夫脚本の舞台「放浪記」のほうで有名かもしれません。本来ならば歩くのもやっとの高齢の森光子が、毎回でんぐり返しをやってのけた大ロングランの舞台です。そのでんぐり返しを行うのが、現在も多くのビジネス旅館が軒を構える新宿4丁目、旭町と呼ばれていた通称ドヤ街の木賃宿です。新宿高島屋が建ったことで、随分町の印象が変わりましたが、この界隈は、つい10数年前程前まで連れ込み旅館や、生コン工場がひしめき合う甲州街道沿いの掃溜めのような場所でした。
 
 今も残る、ビジネス旅館の一泊の料金は驚愕。入り口の色っぽい意匠も、連れ込み宿だった頃の名残でしょうか?
 

 その日暮しの労働者達と共に、粗末な布団の端で、文章をつむぐ貧しい女性・・・女流作家を目指していた芙美子は、ある日自分の作品が世に出られる事を知って、男たちの前で、狂喜してでんぐり返しを行うのです。当時貧しい着物の女性がパンツを履いていたのかどうか・・・しかしそんな事を差し置いてもでんぐり返しをしないではいられない程に嬉しいという名シーンです。しかしそんな喜びと引き換えに、同室の妹のように可愛がっていた女性は、遊郭に身を売らねばならない事態に陥ります。やがて女流作家の第一人者となった芙美子は、人の犠牲や妬みの上に、自分の作家としての不動の栄光が築かれていく事に疲れていき、誰もが羨む下落合に建てた御殿のような自宅の書斎で、転寝をするうちに幕・・・というのが舞台「放浪記」の大まかなストーリーです。
 
 
 現実の芙美子も、晩年この記念館になっている住居の建設に並々ならぬ力を注いだと言います。京都の嵐山を模したであろう、孟宗竹の竹林が印象的な玄関口。庭の奥に設えた茶室・・・たしかに贅沢の極みでした。


 林芙美子記念館に行った後、不思議な体験をしました。その一週間後に、随分落合から離れた場所のとある表具屋さんに行くと、通常ならお目にかかれないような立派な文楽人形(お染久松の久松)が飾ってありました。表具屋の主が、私の人形が入ったガラスケースに向けた視線に気付いて「林さんのお亡くなりになったご子息のものです。一対のお染さん人形のほうは、まだ旧居の、たしか記念館になってる場所にあるらしいですよ。」と喋るのを戦慄しながら聞いたのを覚えています。今もお染さんと久松さんの人形は互いに呼び合っているのでしょうか?
 

 目白駅方面に向かう頃には、お屋敷町に相応しい門構えの家が多くなります。その中で、見た目はごくごく普通の民家ですが、実は内閣総理大臣にして公爵の爵位を持つ近衛文麿邸の一部だった家屋があります。周辺の近衛町はすべて近衛家のお屋敷の土地だったと言われていますが、財閥や華族の解体後、邸宅の一部であれ、よく残っていたな~と思います。現在は着物などの展示を行うカフェとして親しまれています。
 

 そして日立倶楽部は、財閥の社交クラブです。未来都市の要塞のようなデザインに目を奪われます。
 

 高台から見る景色。JRのトンネルを抜けると、高田馬場界隈で、左の坂道を登ると、目白駅にたどり着きます。