ビスケットのあれこれ

ビジュアル言語ビスケット(Viscuit)に関するあれこれを書いてゆきます.

デジタルツールで何を学ぶのか

2011-01-24 03:16:37 | 1
プログラミングシンポジウムという,日本でもっとも古いソフトウェアの会議があって,まあしかし,学術的ではない,ただの新年会と言われるようになってしまってるのだが.僕は狭い意味の学術にはまったく興味がなくて,本質的な議論ができる場として毎年参加している.

そこで,プログラミング教育を最先端でやられている方々と議論した.その中で「ビスケットで,子どもはいったい何を学んでいるのか」という話になった.狭い意味ではプログラミングであるけれど,もっと他にあるんじゃないの的な.それで,ちょっと小学校の放課後活動でやれられている,設計図の話をした.

こんな図




これを始めたのはたしか,学校のPCの台数が少ないのに,参加したい子どもが多いので,PCを使わない時間つぶしはないかと.それで,順番を待っている間に自分のノートに作りたい作品を考える,設計図を書いてみては,ということだったと思う.

この設計図がプログラミング教育の先生方にちょっと受けた.たしかに,僕も面白いとは思っていたけど,改めてそのよさを考えるきっかけになった.設計図がちゃんとしている子は,同じ作品を何回でも作れる.いろいろいじってて偶然にできたのとは違う.

それでいろいろと考えるのだが.こういう設計図を使ったものづくりというのは,どういう教育なのか.

ちょっと視点を広くして,考えてみる.

ものをつくる,表現することは,二つに分類できる.

一つは,編集している対象と出来上がる作品が同じもの.たとえば,クレヨンで絵を描く,歌う,小説を書く,粘土で形を作る,これらはすべて手を(口を)だして操作・編集しているもの,そのものが作品になっている.特徴は,作ってゆく過程で作品そのものから直接フィードバックを得ながら制作をすすめるということ.たとえば形がちょっと気に入らなければすぐに直すことができる.直す場所も直す加減も直接的に操作するので,わかりやすい.

もう一つは,編集している対象と出来上がる作品が違うもの.たとえば,建築物.建築家が作るのは設計図である.もちろん最終的な建物を想像して,ときには模型やコンピュータの画面で確認しながらだけれども,しかし設計図で作る.反対の作り方を考えてみると,たとえば,その場で材料を組み合わせて作ってゆく方法.犬小屋くらいだったらこれで作れる.板をあてて,釘を打って,板のはみ出た部分をのこぎりで切る,みたいな作り方.これは前者の直接作る方法であり,形をその場で考えながら作れるけれど,強度的な問題が残るであろう.ちゃんとした壊れないものを作るには,設計図を書いて作る必要がある.映画とかオーケストラの作曲とか,ちょっと大規模で精密なものを作るのは,すべてこういう設計図(脚本や楽譜)が必要である.プログラミングもこれである.プログラムは文字や絵で表現されているけれど,美しいプログラムを書くことが目的なのではなくて,そのプログラムを実行させて結果を得ることが目的である.

前者を「直接表現」後者を「間接表現」と呼ぶことにしよう.直接表現とは,表現媒体そのものの上で創作するもの,間接表現は別の表現形式で創作したものから何らかの方法で表現媒体へ変換するものである.

直接表現に冠する教育は,広く学校教育で行われている.たとえば,図工や国語の時間で絵を描いたり,作文したりする.それに対して,間接表現を教育するのは難しい.音楽の時間は鑑賞と演奏が主であり,作曲まではなかなかやれない.楽譜から音楽を得ることが難しいからである.今の時代の,音楽が生活に与える影響を考えると,創造性の視点から音楽を教えられないのは不幸である.

デジタルツールの役割は,この間接表現が持っている編集対象と作品の差を埋めるためにある.デジタルツールがあれば,楽譜から自動演奏させられるし,映画だって作れる.まだリコーダーも吹けないのに作曲を教えられる.

小学校1年生がビスケットで作った音楽.
http://develop.viscuit.com/3.5/land.html?lv=p8&path=591221/206&name=69
ここで遊ぶうちに,拍子,和音,リズムなどの音楽の基本的な構造を直感的に理解することができて,ここちよい音楽,ここちよくない音楽,を自分で作り分けられるようになるだろう.

いままで,ツールが無かったために,直接表現でしか表現を教えられなかったいろいろな知識が,このように間接表現を使って楽しく教えることができる.

ところで,一般的な表現において客観性というのはきわめて重要である.作文のように,それがコミュニケーションの手段である場合,読み手の視点を持って文を書くことは本質的であるし,独りよがりのアート作品でない限り,他人の視点を意識しない作品は存在しない.

直接表現は編集対象が直接的であるが故に,制作に没頭しやすく,客観的な視点を維持するのが難しい.作文は,数日おいて読み直すと,他人にわかりにくい箇所がよく見えてくる.絵画なら,ときどき離れて絵を見てみるとか,絵を逆さにして見てみるとか,客観的な視点を得るために様々な工夫をする.それに対して,間接表現では,常に客観的な視点と共に制作が進められる.二つの視点を行き来するからである.

また,逆の性質でもあるが,直接表現によく見られる,自分の下手な表現に対するコンプレックスが,間接表現では生まれにくいように思う.これは,初心者からみると,間接表現では,上手い,下手の差が見えにくいからかもしれない.しかし,間接表現でも,ちゃんと考えて作った作品とそうじゃない作品とでは明らかな差が現れる.表現対象の理解が進むことで,差を認識できるようになり,考えて作品を作るようになる.初心者にも,成長の過程でも,よい性質を持っているようである.このあたりの研究が進むと,表現の向上に関して理想的な間接さのバランスが見つけられるかもしれない.

ここで,間接表現に対して,「論理的思考が必要」というようなわかったような,わからないような言い方はしたくない.もうちょっと狭く「設計が必要」と言いたい.低学年では荒っぽい設計,高学年では精密な設計,そんな使い方ができる.そして,どうやってより精密な設計ができるようになるのか,こういった手順だったら教育できる.

設計が精密になればなるほど,それにあった記述が必要になる.ここで初めて,数の重要性が理解できるようになる.数を使えばより精密に設計できるようになる.料理で計量が大切なことと同じである.僕は,今の算数教育の最大の問題は,算数が何に必要なのかを大人が知らないことにあるんじゃないかと思っている.算数はだされた問題を解くものとして教えるのではなく,精密な設計をするための道具として教えるべきである.自分が必要だと思えば,楽しんで算数を勉強できるようになるだろう.あとは,表現の精密さの必要性を自分が感じられる教え方をすればよいのである.


設計をしてものを作る能力.
というより,その楽しさ.

これを本当にみんなに知ってもらいたい.