夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

食物と人間の関係 (共に生かし合いの食生活のために)

2016年04月04日 22時32分08秒 | 日本の食文化
食物と人間の関係(共に生かし合いの食生活のために)

温かくなりますと、爽やかな清涼感あふれる食材に魅かれるます。
不思議にも山菜、野菜、海草、果物等も春夏秋冬の季節に合わせて色づきます。
キュウリ、西瓜の瓜等は夏の汗ばむ時期に合わせ利尿作用に適した野菜のように。
このような季節感にあふれた山海、里の恵みは神より授けて頂いた尊い珍味であります。


殺すものは殺さなければならない、キリストは『剣をとるものは、剣によって滅ぶ』と云う聖言を言っています。





『本来殺生なし』とは現象世界は有ると見えながらも本来無いのである。と云うことを悟ることが必要であります。
蛇が蛙を飲み込む姿は実在していると見えているけれども、
神が創造し給うた実相の世界では蛇が蛙を殺した業もなければ、蛙が蛇に殺された業もないのです。
人間が魚を殺すと思い、魚が殺されると思って食べる時には、そこに殺生の業が発生し、業とは心に鳴りひびくものである。
その業を支えているものは心そのものであり、その業を支えている心が存在する限り、輪廻転生し、
殺生は、次の殺生を生み、それが輪転して、ついには人類相互いに殺生の一大業を生むことになるのです。
その故に現象世界は本来無いのであると覚るまでは、生き物を殺し、また捕獲して食べない方が好いのです。
弘法大師と山伏の問答で山伏が坊主でありながら猪の肉を食べたと弘法大師を非難しますが、
弘法大師は報謝の供養の心は食べたが猪の肉は食べてはいないと言ったそうであります。・・・・・
悟らないでそのようなことはすることは殺生の業を輪転することになるからであります。
殺生の業はつぎの殺生の業を生む、人間が殺生して命を保つかぎり、人類同士の殺し合いも尽きることがない。
戦争の根本原因は此処にあるのです。
ただ習慣で生き物を食べるので、凄惨な気持が起こらないであります。
これは殺生した意識が希薄であるからです。だから殺生の肯定が起こるのです。
目の前で生き物が死んでいく姿には誰しも慈悲の心が起きるものなのです。
知らないで犯した罪が、知って犯した罪より、その受ける被害、業、が大きいように、
凄惨な気持が希薄なのは殺生の業の意識も希薄なのであります。
それ故に殺生の業を強引に肯定するのです。
釈迦は、自ら殺さずして、布施し、供養をされた肉食はこれを受けてもよしとしました。
それは受けても好いと意味であります。積極的に強制し、仕向けてはいけないのであります。
儲けるための、獣鳥魚肉は、利己心のために殺生を肯定したものであるからけがれた殺生であります。
しかし漁師が生計のため、やむえず魚等を捕獲するのは生活のためにゆるされるのです。
生命(いのち)は聖霊であるから聖霊を翻弄して殺すことは赦されないことであります。
しかし純粋に愛の心、報恩感謝の心、布施心で供養された肉食は、これらの心で浄められているので浄食である。
植物、米、穀物、野菜も生きているので、それを収穫して、殺してしまうのは残虐な殺生であると云う考えをする人があります。
例えば吾々人間の髪の毛等なども切らない間は生きているが、切り取った時死ぬのです。
これらは身なりを整えるために、喜んで髪を適度に調えるのです。
また髪を切り取った時苦痛を感じないのです。
ミカンが熟すと鳥が啄ばむます。
放っておくと地面に落下してしまいます。
果樹は鳥に食べられても悲鳴を上げる等の苦痛を感じません。
このように野菜、穀物、果樹等の植物は食べられるように喜んで、自ら夫々の個性ある色づきをして表現します。
日本にも、追うと逃げさりるような生類は避けて、痛覚がない植物、米、穀物、野菜、山菜、海草等の食材で頂く
精進料理の歴史が連綿として今に続いています。
このように食して喜び、食べられて喜ばれる生かし合いの食材での食生活をお進めします。


















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