☆ 緑 の 小 径 ☆ Verda vojeto ☆

エスペラントと野の花と。
Esperanton kaj sovaĝajn florojn.

安楽死を思う

2011年08月31日 | 日記 / Taglibro

いつも Skype でおしゃべりをしていた友人のコンピューターが数日間 off になっていた。出掛ける時もつけっぱなしで出てしまうような人だから、変だな、と思っていたのだが、もしかしたら昨春膵臓癌を手術して以来療養を続けていた彼女の夫君が再入院したのではないかと気付いた。電話しても留守電だけだし。
で、土曜日のソメールフェストの折に再度電話して在宅していた彼女と話すことが出来たのだが・・・。
案の定である。

苦痛に呻く夫を見ているしかすべの無い苦痛。夜は椅子を少し倒して、座ったままで付き添っていなければならない苦痛、寝不足。
モルヒネもあまり効果は無く、むしろ気分が悪くなったりするというし、病人は「早く死にたい」と喚き、医者は「そんな訳には行かない」と相手にしないし、後少しの我慢、と辛うじて自分を励まして云々。

とそんな話しを聞いていた。勤めが休日の息子が代わってくれたので、帰宅したところだったが、病院が遠く、片道1時間半、地下鉄やバスを乗り換えて通わなければならない事情も彼女の疲労を倍加しているように思えた。

それから三日目、彼の死の知らせが来た。
知らせてくれた友人も、私の電話に応えた彼女も、「ホッ」としたのだ。
彼の場合い苦痛に呻吟した期間は三週間程だったが、もっと長く苦しむ人も居る。

我が家では五月に猫のツィツカを安楽死させたばかりだが、その安らかな死を見ながら、人間にもこれが出来たら・・と思ったことだった。
でもそれは許されていない。が、最近また話題になって来ているように感じている。安楽死に託つけた殺人もあり得ることであって見れば容易な決断は困難ではあるけれど、病人も家族ももう少しこの苦痛から解放される方法は無いものだろうか。

苦痛から解放され深い溜め息をついているだろう彼の魂の安らかな憩いを願う。





ソメールフェスト

2011年08月30日 | エスペラント /Esperanto


集っておしゃべり。鏡の中は「スクランブル」中の仲間たち


庭で

去る土曜日はトロンターノのソメールフェスト(夏祭り)だった。
特別なことをする訳ではない。寄り集まっておしゃべりの親睦会である。トロントの会が茶菓を用意し、手作りのものなどを持って来る人もいて、テーブルは美味しそうな食べ物で一杯だった。
私が到着するといきなり「この人 S 氏夫人。日本語で話せますよ」と片隅にポツネンと座っている日本女性を紹介されてちょっと面食らった。 S 氏の名前はもう40年前から知っているが一度も会ったことは無かったし、夫人の存在も何も知らなかったから。彼女はエスペラントを話せないので、しばし日本語で。でも、 S 氏夫妻が帰っていった後で、誰かが「彼女はポルトガル語を話せる」と言っていたからエスペラントを学ぶのもそんなに困難ではない筈なのになぁ、とちょっと残念に思った。

で、ここに集った人々の会話のあちこちに様々な国語が出て来るのに気付く。エスペラントと英語の他に何かしら他国後を一つ二つ話せる人ばかりなのだ。この辺が日本のエスペラント会とは違う所なのだろう。先ず、カナダで暮らしているからと言っても英語が母国語とは限らないし、カナダ生まれでもフランス語圏で育った人も居る訳だ。
スクランブルを遊んでいても、多言語との比較などが会話の中にしばしば出て来る。特に今回はエスペラントを勉強中という若い女性テファニーが仲間に入っていて、「何、それ?」と言われるような綴りをし、その度にそのような会話になった。例えば彼女が「MER'」と入れる。「何?それ」「海」「じゃ MAR' でしょ」「あ、そうか、これはフランス語か」と言う具合。

日本語のスクランブルって有る?
と聞かれたけれど、私はその存在を知らない。エスペランチスト達が使っているのは日本語のゲームを改良したものなのだろうと想像し、多分有ると思う、と答えたが。
ベーチョが遊んだことは無いけれどイラン語のスクランブルが有るのは知っていると言っていたから日本語のものが無い筈はないという気もするし。

辞書を引いても良いのは考えついた単語の綴りの確認の時だけ、と言うことでスコートが「あった、あった」と喜んだのは「ZOMBIO」
後で私の辞書を調べたら一册には「sorĉkadavro」,もう一册には「sorĉita kadavro」というのが有って、どちらにも「ZOMBIO」というのは無かった。エスペラントとしては「ZOMBIO」はあまり感心しない。英語人間には判っても、だ。一冊の辞書で満足、安心してしまうのは問題が有ると言うことでもある。

コペンハーゲンでの世界大会に参加していた一人、ヴェルネーロは撮って来た写真をプリントし、解説を付けたアルバムを持って来ていた。私などその時は判って頷いていたのに何も記憶に残っていなくて情けない状態なのに彼は年号とか数字も記録してあった。行動中にマメにメモを取っていたのだろうが、することが違う。
「そうなのよ、あの人。整理が行き届いている・・」
と言ってた人がいた、確かに、あのアルバム作りは結構な大仕事だった筈。

斯くして夏祭りは楽しく終わった。
次の同じような集まりはザメンホフ祭になる。







一般国民に慕われる政治家

2011年08月26日 | 日記 / Taglibro

このことはやはり書いて置きたいと思った。
去る月曜日カナダの野党党首が癌のため亡くなった。
もう十年くらい前立腺癌と戦いながら、この春の選挙で大きな勝利を挙げ今までに無い議席数を獲得したばかりだった。亡くなる一週間くらい前「他の癌が発見されたので闘病のため一時休むが九月には又出て来る」と記者会見したのだが、その時の彼の衰えようを見て息を呑んだのは私だけではあるまい。痩せこけただけではなく、杖に掴まって立ち上がるのさえ困難そうだったから。
私の脳裏に浮かんだのは衰弱した我が亡夫の最後の日々、この人も長くないと感じた。とは言え本人の強気な言葉を否定する気にはなれなかった人々は私を含め多かっただろう。その証拠に、彼の死のニュースに多くの人々は驚きを隠し得なかったから。
私は「政治音痴」で彼のことは「もう一人の政治家」としか考えていなかったのだが、彼の死の知らせにオタワの国会議事堂や彼の選挙区があるトロントの市庁舎(過去に彼はトロントの市会議員だった)、彼の事務所などに人々は花束やロウソクをを供え、お悔やみや彼への感謝の気持ちを書いたカードなどをそれに添えて行った。
TVのインターヴューを受ける人々は涙を拭きながら彼の業績を称え人となりを褒める。政治的には意見をことにし、従って彼の党(新民主党)に投票はしなかったが・・・と言う人もいたし、「あなたのお陰で投票に参加するようになりました、ありがとう」と壁に書き込んだ人も居た。
続々と人が集りお供え物も増えて行き、カナダ首相は例外的な「国葬」を彼の夫人に申し出、彼女が受け入れたので、明日トロントのロイ・トンプソン・ホールで国葬が行われる。
それまでの二日間、遺体はオタワの国会議事堂に運ばれ、一般人のお参りを受けたが、夜の八時には終えるつもりがまだ長々と行列が続いていた。今日はトロントで同じことが行われている。
「私は新民主党でもなければトロントの住民でもないですが、皆さんが壁に残した言葉を読んで涙が止まりません」と言っている女性がいたが、私も同じ思いなのだ。
個人的には知る機会も無かった人だし、業績に付いても人柄に付いても全く何も知らないのだけれど、彼を知る人々(一面識も無いが業績を知っている人も含め)の言葉には胸に響くものがある。
ホームレス問題、同性結婚の問題などで彼はチャンピオンだったらしいし、トロント市議会員時代にはタバコの煙で空気が青くなっているような議会で「公共の場での禁煙」を提案したという人。
政治家がみなこの人のように人に慕われるような仕事をしてくれたら、世の中はどんなに住み易くなるだろう。
六十一才と言う若さが惜しまれる。心から冥福を祈りたい。
因に残された夫人は香港生まれの、志をともにする同僚国会議員でもある。



意味など判らなくても・・

2011年08月25日 | エスペラント /Esperanto

先日のちゃんの誕生日に、車のナンバープレートを見ていたモントリオールの祖母が「Kを外せば良いのよね」と言う。何のことかと思ったら、娘たちの車の番号の一部が「BKMW」なのだった。
それを聞いてカイちゃんはまるで同意するように同じことを言う。
Kが何なのか判っているのかい、この子は!
と思った程に自然で何気ない会話に聞こえた。
どの文字がKなのか、Kを外した後に残る「BMW」が何を意味するのか判っても居ないのに。

言葉を覚えるのはこんなことの繰り返しなのだ。本を読むのも、意味など判らなくても何度も読んでいるうちには色々判って来るだろう。辞書を引ける年齢なら、どうしても脳裏にこびり付く単語が有って調べざるを得なくなり、これを繰り返しているうちの語彙も増えて来るだろうし。
当然時間の掛かることだが、子どもはこうやって覚えて行くのだと、カイちゃんの言葉を聞きながら思ったのだった。
因にカイちゃんは英語とハンガリー語を使い分けている。意識しているかどうかは不明だが、二つの言語を混同することは無い。ハンガリー語が主だが、この時は英語で言った。モントリオールの祖母が英語で言ったから。

最近の私はとみに文字が読めなくなって、特に文字の小さい本などはお手上げである。面白いと思って読み出した本も30分もすると文字が踊りだすのだ。文字通り「踊りだす」から、「覚える」目的で読む本は重荷で、辛い。
視力が全く無くなったら、30分さえ読めなくなるのだから、目を休ませるべきだと判ってはいるのだが。そんな訳でカイちゃん式勉強法もあまり役立たないけれど、まだ若い意欲のある人たちには、のんびり頑張りなさいと伝えたい。




アメリカ・ホドイモ

2011年08月24日 | 野の花々 / Floroj de kampo


英語名:Groundnuts, Indian Potato
学名: Apios Americana
和名:アメリカ・ホドイモ
エスペラント名:Apioso amerikana, Ternukso

ダッファリン島で、花が咲き始めたばかりのホドイモを見つけた。久しぶりだなぁと古い記事を読んでみた。面白いことが書いてある。芋ズル式に検索していたら、日本ではこれを栽培し商売にしている人も居るらしい。
今年の秋は忘れずこのマメを収穫し、蒔いてみようかと考えている。以前にも同じことを考えたのに忘れてしまって実現出来なかった。
栄養豊富な食べ物として原住民には大切な食料だったようだが、開拓者たちもその恩恵を受けた。
それを今再び考慮しない方は無い。現に「雑草を食べよう(下のヴィデオ)」と言う主義の人が居る。この感覚は日本人の山菜を食べる感覚なのだ。
日本語のサイトではどのサイトも写真はピーナツくらいの大きさで、皮は剥かないで食べる、と書いてあるが
こちらの英語のヴィデオではジャガイモくらいの大きさで、皮は剥いた方が良いと。

日本語のサイト各種:
その1(栽培と食べ方)
その2(日本での歴史)
その3(ゲットする三つの方法)



ヒロハアメリカシオン

2011年08月23日 | 野の花々 / Floroj de kampo


英語名:Large-leaved Aster
学名:Eurybia macrophylla
和名:ヒロハアメリカシオン
エスペラント名:Grandfolia Astero (Laŭ mi)

北米東部原産のアスター。
根元の葉(根出葉)が目立って大きいのでこの名が付いた。が、根元を探さなくても花ビラの間隔が開いていて、ミソッ歯のようなのですぐ判る。
ありふれた花なのだが、日本語のページを探しても、写真もなく、名前だけのものが殆どなのは、日本にはまだ侵入していないのだろう。
この写真もダッファリン島で。






一番乗りの赤い実

2011年08月22日 | 野の花々 / Floroj de kampo

先日のフィリップス家の敷地には枝もたわわのスパイスブッシュが茂っていたがまだ青かった。今朝ダッファリン島へ行ったらたった一つだけ赤くなっているこの実を見つけ嬉しかった。今年の一番乗りだ。
三年前の記事には花の写真も載せてある。
英語名:Spice Bush
学名:Lindera benzoin
和名:スパイスブッシュ
エスペラント名:Spica arbusto (laŭ mi. Kion mi pensis 3jaroj antaŭe?)

三年前、エスペラント名を思いつかなかったが、考えてみるとオールスパイスの香りのする灌木なので、文字通りで良いではないかと今気付いたところ。
今回の写真は「巧く行ったぁ!」と我が肩を叩きたいほど綺麗に撮れた。



誕生日パーティ

2011年08月20日 | 日記 / Taglibro


水の中で楽しく歌い踊るうさちゃん

昨日はちゃんの誕生日だった。
あれから6年。この秋には小学生になる、ということで娘夫妻が考えだした特別な誕生日のパーティは私たち二人の祖母を含めたミニ・ヴァケーション。
ナイアガラフォールスのリゾートホテル「グレート・ウォルフ・ロッジ」のウォーターパークで思う存分遊ばせ、同時に私たちも寛ぐと言う企画である。
娘の言葉を借りれば、
「デーズニーランドに出掛けるよりは安上がりだし、カイちゃんがどう行動するかの試験でも」
あるのだ。
この誕生日を挿んで一週間モントリオールから遊びに来ていたもう一人の祖母にとっては、サープライズパーティでもあった。
ホテルのレストランで昼食をとり小さなケーキも贈られた彼女は「ローソクを吹き消しなさい」と言われると「ハッピーバースディを歌わなきゃ」と催促する。この子は規則に忠実で、全て規則通りにしなければ気が済まないから、ハッピーバースディの歌無しではロウソクは消せないのだ。
一泊のために娘夫妻が取った部屋は小振りのスィートで、部屋の中にもう一つ部屋がある。合計10人は泊まれる広さだ。小さな流し、冷蔵庫、マイクロウェーヴ・オーヴンもついていて、その気になれば簡単な自炊も出来る。

広いウォーターパークは一定の時間おきに大波を起こす中心のプールの他幾つかのプールがあり子どもの年齢に合わせて選べるし、ウォータースライド(水の滑り台)も各種ある。
ちゃんは父親と一緒にこの滑り台を何回か楽しんで満足げ。その間私たちはジャクッジのお湯に使って温湯マッサージで筋肉の緊張を解す。
泳ぐようなプールは無いが、家族連れが群れ、0才から相当のシニアまでいる。昼寝している人、本を読んでいる人も数人居た。
私にとっても手頃なミニヴァケーションだったが、6才ともなればこの日を楽しかった思い出として生涯心に留めるだろう。家族の愛情を一身に受けていることを自覚し、健やかに成長して欲しい。






スワンプ・ローズ・マロー

2011年08月18日 | 野の花々 / Floroj de kampo


その花

英語名:Swamp Rose Mallow
学名:Hibiscus moscheutus
和名:スワンプ・ローズ・マロー
エスペラント名:Hibisko Marĉa (laŭ mi)

昨日の水曜日はバーデン・パウェル公園での散歩だった。公園と言っても芝生が綺麗に刈り込まれ、ベンチが所々に置いてあるような公園ではない。茂り放題に茂った自然のままの姿を維持した公園である。元横浜山岳会員というSMさんが突っ掛けサンダルで現れたのには驚いたが、彼女は砂利道を終える前に気分が悪くなったと早退。
三々五々会員たちが集って来て、それぞれに雑談している間SMさんはMさんと完全にみんなから隔離された所に立っていた。この会の集りに初めて参加するとしてもメンバーである以上仲間に入れば良いではないかと思うのだが、初めてではないし私は敢えて引っ張って来ようとはしなかったが、散歩が始まった時、ツイ言ってしまった。「なんで、みんなから離れているの?感じ悪いわよ!」
Mさんは「この人が離れているから・・・」お相伴していたのだと言い訳したが。
英語の方が日本語より楽だというSMさんなので、言葉が原因でないことは確かだが、何故なのだろう。
こんな風だから、「日本人は日本人社会に埋もれて・・」と言われても仕方がない。
私と並んで歩いていたキャシーが「あの人たちあなたと一緒なの?関係ない人たちかと思った」と笑っていた。
初めて会った人達はみなそう思ったことだろう。

その蕾

この公園での目玉は何と言ってもこの花。
私が期待したヘーゼルナッツは、その木が切られてしまったのかどうか、見当たらなかった。
野生の花にしては豪華な大輪のローズマローはまれに白い花があるそうだけれど、まだ見たことはない。
夕暮れ時なのでピンクの色も写真には薄れて写る。むしばまれて穴だらけのもあった。
花の時期はほぼ一ヶ月だそうだが、個々の花は一日が命。ただ、受粉が済むまでは数日間頑張って咲き続けるのだ。いじらしいと思うのはこんなに虫に食いつかれても受粉出来なければまだ頑張るその心。
北米原産で、カナダでは「特別配慮」の花。そしてこの辺りがこの花の咲く北限である。





フィリップス家の敷地

2011年08月17日 | 日記 / Taglibro



英語名:White Snakeroot
学名:Ageratina altissima
和名:マルバフジバカマ
エスペラント名:Ageratina altisimo (Laŭ mi)

昨日はネーチャークラブの年中行事にはない飛び入りの遠足があった。
広大な敷地の一部を自然保護の目的で、ナイアガラ半島自然保護局(NPCA)に森を寄付したフィリップス氏がその敷地を案内してくれると言うもので、自然を歩くと言うことから一ヶ月余りも離れていた私は好奇心も手伝って出掛けた。好意で時間を割いていれる人への礼儀でもあろうから。
もう私の所有地ではないですが、そう言う名前で呼ばれています。
と彼が言っていたが当然だろう。それで、位置や広さも、元の所有者も、判るからだ。
上の写真はその道すがら見つけたマルバフジバカマ。
道すがら、と言っても道などない森の中を午前中二時間、午後一時間半歩いてへとへとになって、それでも気分爽快で帰宅した。
まだまだ夏の暑さは強烈で、気温は29℃と言っていたが湿度があったし、体感気温がどの程度かは判らない。
午後の部で、「みんなが歩いている間休んでいる?」と言われ「そう年寄り扱いしないでよ!」と豪語した手前頑張らざるを得なかった私。
このクルミの木は恐らく、二百年から二百五十年になろうと言う老木、その太さを示すように腕を広げているのが元気な振りの私だが、汗は止めどなく流れ、足が重たくて大変な思いだった。下に生えて居る草が足首にまつわりつき、時にはバラやラズベリーの茎が絡み付くし、地面が常に平坦でもないのだから。
みんなが感謝したのは、フィリップス氏が時間を割いてくれたことだけではない、自然保護の目的でこの森を残そうと寄贈してくれたことも。
もちろん食べなければならないから農地は残さなければならないが、そのようなことも含めてみんなは色々語り合っていた。





今朝のニュースで・・

2011年08月15日 | 日記 / Taglibro
ナイアガラ瀑布のカナダ滝に誤って落ちた、トロントから来た20才の女性が居ることを知った。
滅多に起きる事故ではないが、時々愚かさが原因でこのような事故がある。
報道の人達もまだ具体的なことが判らず、目撃者たちから事情を聞き出している程度だが、どうやら外国からの留学生らしい。
柵という物は何の目的で備えるものなのか、理解の根本が全く異なった人々がこのような事故の被害者なのだ。
これまでに私自身何回もそのような人々に注意した。命が惜しかったら、そのような馬鹿げたことは止しなさいと。注意されてビックリする人、笑って誤摩化す人、余計なお世話!という顔をする人様々だが、滝に落ちて行くのを手放しで見ている訳にはいかないのが人情だろう。

この女性も柵に股がって楽しそうにおしゃべりをしていたらしい、そして一瞬後には居なくなった。足が見えたという目撃者も居たから、真っ逆さまに落ちて行ったのだ。悲鳴も聞こえなかったと言うことは恐怖のために声も出なかったのか。
思い出の写真を一枚、というポーズのつもりが死に至った。
公園警察の調査はまだ終わっていないようで、TVはそれ以上のことは報道しない。
遺体が上がる見込みもあるかどうか判らない。

最近日本人観光団が減っているけれど、昔、私は良くこう言って注意した。
「柵には登らないで下さい。どうしても登りたい方は、生命保険の受取人を私名義に書き換えて下さい。」
人々は「生命保険」という言葉に改めて事の重大さを考えるらしかった。一瞬笑いが起るが、真剣に受け取ってくれた。

滝の近くの柵にはその危険について注意を促す看板が何メートルか置きに貼ってある。滝を覗く人が多いと、その人々の足のあたりに隠れてしまい見えないが、だから、見えるように頭上高く掲げるべきだという意見もあるだろう。我が息子は柵を登れないように高くすべきだと言う。
そうだろうか。赤ん坊ではないのだ、常識で考えれば良いことではないか。
その若い女性にも、近くに注意してくれる人が居たら、落ちないで済んだかもしれない。
雨が降っていなくても滝のしぶきで柵は濡れるので滑り易い。
彼女には気の毒だが、遅過ぎた。もっと気の毒なのは彼女の両親。慰めの言葉もない。

その後インターネットのニュースで息子が見つけた情報はその若い女性はトロントで勉強中の日本人だった。
落ちた場所が滝の直ぐ上流だったため滝壺に落ちてしまったから遺体が上がるまで、一週間掛かるか半年掛かるか判らない。=合掌=






オーデンセの街角で

2011年08月13日 | エスペラント /Esperanto


先月のコペンハーゲンでのエスペラント世界大会でオーデンセを訪ねた時バスの窓から見た気に入った風景の一つ。
家の壁全体を看板に使っている。このアイデアは少し前にも見て気付いていたのだが、角度が悪く写真には撮れなかった。そちらはたしか花屋さんだった。
ペンキを塗る仕事、と言うのは判るが、書いてある文字は読めない。
ドイツ語に似ていて、Farver などは Farbe(色)と関係がありそうだ。
因に、デンマーク語は酔っぱらった英国人とドイツ人が恊働で作った言葉だ、という冗談には真実みがある。耳で聞いて判らなくても、文字で見て見当がつく単語は幾つもあった。



運転免許の試験

2011年08月12日 | 日記 / Taglibro

この春、Mさんが「一旦停止」を見逃し、運悪く横切る車に当たってしまった。
お互いに「アッ!」と思って停まったから大きな事故にならずに済んだのだけれど、Mさんは運転免許の試験を受けなければならなくなったのだ。70才過ぎて事故を起こしたらそう言う規則になっている。
筆記試験、視力の検査、すべて難なく合格したが、問題は実地試験だ。文字通り実地試験だから日本のように教習所のチマチマした所での試験ではなく、現実社会の路上に出る。
筆記試験の後一ヶ月の練習期間が与えられ、教習所で運転の色揚げをしておくのが良いと助言してくれた人が居て彼女がその通りにした。教習所も路上での練習で、日本式の教習所ではないし、悪い癖などを矯正してくれるからこれは良い考えだったと思う。
ところが一ヶ月経って試験に出掛け、彼女は落ちてしまった。悪い癖が直っていなかったらしい。
「私、G1(ジーワン)なのよ」
G1と言うのは全くの初心者で、運転免許のある人が傍らに座っていなければ運転出来ない。ということはちょっと買い物に行くにも誰かを呼んで乗ってもらわなければならないから煩わしい。顔の広い彼女は声をかける人がたくさん居るから不自由ではないようだけれど、真向かいに住むおじさんに乗ってもらった時は一々彼女の運転に難癖を付けるのでうるさくて仕方がなかったそうだ。
そして又の試験が今日なのだ。巧く行くかどうか。結果は数時間後に判るだろうけれど、私などこのようなプレッシャーには絶えきれないから、事故を起こさないことが前提だけれど、起こしたらもう運転は諦めようと思っている。

昨日は40数年前に初めて免許を取った時、何回目で合格したかも話題になった。
一回目は落とされることは常識になっていて、誰も期待していないけど、SMさんの7回目にはビックリした。もっとも彼女はトロントで取ったのでここよりは厳しかったかもしれない。
私は二回目だった。夫の強引さに負けて練習したようなものだが、第一子の妊娠中で、この子に万一の事があったら、とそんな事ばかりが気になっていた頃だった。
一回目がダメだった時、というのも練習中はどの夫婦もそうらしいのだが、喧嘩ばかりしていてお互いにウンザリしてしまっていて、彼が思いついたのはそのプレッシャーを他人に転嫁する事だった。そして個人で運転教師をしている人を見つけて来たのだ。他人だと遠慮があり私も爆発しないし教える方も穏やかなのだ。

その人は実地試験の日、運転免許の役所で、試験官たちにシガーを配っていた。「男の子でした」とか言っていたと思う。
子どもが生まれるとみんなにシガーを配る習わしがあるが、これは一種の賄賂だなとその時思った事も記憶がある。
で、私はそのシガーのお陰で合格したのかもしれないのだ。

「日本では運転する気になれないわ」とSMさん。初期に国際免許をもって訪日した事があったそうだけれど、道路は狭くあちこちの角には凸面鏡が設置してあって、そんなのを見ながらなんてと怖じけづいたとか。私など始めから日本国内で運転しようなどと考えもしない。
日本人の運転の技術はあの混雑や殺気立った雰囲気の中で培われるのだと思う。
教習所などは、カナダのG1免許を取るため程度のもので、現実の腕前は実地で磨かれて行くのだろう。
さて、Mさんから朗報が入って来るかな?




デンマークの最高峰

2011年08月10日 | エスペラント /Esperanto


Ĉielmonto 天山の頂きに建つ塔

大会前の遠足は二泊三日で、コペンハーゲンからユトランド半島を周りコペンハーゲンに戻る。
この小さな国は平坦で、アッと目を奪われるような風景はない。コペンハーゲンを出て間もなくロスキレ市、歴代の王族のお墓である大聖堂を訪ね、フム、フムと説明を聞き写真もたくさん撮ったのだけれど、聞いたことは何にも脳内に残っていない。
その後フェリーに乗船3時間ほど内海を渡った。
以前オンタリオ湖を船で渡ったことがある。見渡す限りの水で、退屈だったことを思い出した。
松島などのように小さな島があちこちに見えたら又違った趣だったろうけれど。クラゲが泳いでいるのが見えるから海だと判る程度。
それでも船内で新しい顔と知り合い、会話を楽しむことが出来た。
その日の宿はデンマーク第二の都市オーフス、夕食はビール工場のレストランで、ビールの味を楽しみながら。
翌日オーフス市内を周り、75の古い家屋を集めた野外博物館「Den Gamle By」を訪ねた。「古い街」と言う意味なのだそうで、古い時代(1550~1850)の衣装を纏った人々が案内人でもある。

その後、細長いシルケボー湖を小さな観光船で通り抜ける。船は満員で、私たち数人は水面下の柔らかいソファーが壁沿いに設えてある部屋に入った。この部屋の窓は水面スレスレなので景色は良く見えない。それでも、すれ違う数艘のカヌーやそれを楽しむ人々の姿を見た。
船を降りて少し登るとHimmelbjerget (Ĉielmontoチエルモント / 天山)、デンマークの最高峰と言うことだった。標高147メートル。頂上の塔の高さが25メートルだから、合計しても172メートルだ。これだけでもこの国が如何に平坦か納得出来るだろう。
帰国後調べていたら新しい情報を見つけた。
チエルモントが最高峰と思われていたのは1847年までで、その後 Møllehøj (170.86 m)が王座を得た。ということがウィキペディァの英語版に出ていた。
こちらの山頂には古い挽き臼の半分が置いてあるだけだから、合計しても大して違わない。兄足りがたく弟足りがたしと言うところか。




遊びの限度

2011年08月09日 | 日記 / Taglibro

デンマークから帰国後日本並みの暑さにすっかり萎えていたら、「食べ物があり過ぎるから食べに来ない?」とMさんから声が掛かった。
彼女のお誘いはいつもこんな口実である。
Y子さんも誘うけど、A子さんはお仕事だし、あと誰か居ない?
と言われても日本人の知人は多くない、ましてや共通の知人とか友人とかは・・・。それに先日のように日本語の判らない人が一人いて、私独りが気疲れするのはいやだし、SMさんは?
で、彼女も、たまには声掛けてみようか、と同意した。
Y子を迎えに行きMさん宅についたら、中々返事がない。呼び鈴が壊れていると聞いていたからドアをかなり強く叩いたのだけれど。
SMさんは既に来ていた。私たちのドアを叩く音も、Mさ~んと呼ぶ声も聞こえていただろうに知らん振りして座っていた。
Mさんは地下に居て聞こえなかったらしいのだが、私たちが来ることは判っていたのだし、未知の人間でもないし、SMさん、少なくとも返事くらいしてくれても良いんじゃないの?と私は思う。

お昼に来客があってちらし寿司やいろいろ作ったのだけれど残ってしまったから・・というMさんのご馳走は四人で食べてもまだ残った。この人わざと残るように作るのだろう、こういう機会を持つために。
SMさんは胃の具合が悪いとかで、食べられないと言うことだったが、みんなが食卓に着いてもひとりソファーに座っている。食べられないのなら何故来たんだろう?
「食べられなくても取り敢えずみんなと一緒に座ったら?」と声を掛けたら食卓に来た。胃の内面に傷があって食べ物によってはその傷を刺激するので痛いのだそうで、豆腐とかちらし寿司とかを恐る恐る食べていたが、大丈夫そうだった。
「あなた、(痛かったのは)お腹空いていたからじゃないの?」とMさん。
ちょっと厳しいけど、こんなことを言うのには訳がある。

SMさんは年金が入ると借金を返しにあちこち歩く。年金が入って一週間後には「月の残りを無一文で暮らさなきゃならないわ」と言う人。だから、Mさんによれば「ろくなものを食べてない」のだ。
その後の会話で、「まだ、ゴールドカードなの?」「プラチナカードまでには未だまだだわ」
カシノのゲームで消費する金額によってゴールドかプラチナかと言う訳なのだけれど、SMさんの借金の原因はカシノでの賭博なのだ。
ゴールドカードだとホテルの部屋を無料で貰える日が制限されるがプラチナカードだと何時でも良い。だからプラチナが欲しいらしい。市内に住んでいて何故かと思うけれど、来訪の友人たちに一泊$300、$400、と言う部屋をただで取って上げるのが幸せらしいのだ。
「借金してまで?」と私にはその心理は理解出来ない。遊びにも限度があると思うのだ。

胃の具合が悪いと言うことだったからMさんは彼女のためにお粥を作ってあった。それを広口瓶に入れて、持ち帰るのだが、市バスで来た彼女はまた市バスで帰る。
「気をつけてよ、落としたら割れるから」とMさん。
私はY子を促して、「じゃ、私たちも引き上げましょう、そしたらSMさんも乗せてあげられるから」
SMさん曰く、「お粥を割らないようにね」
「そうじゃないでしょ、あなたが歩かなくても良いようによ」とMさんがたしなめる。
「私日本人的じゃないから」とSMさんは自分の言ったことを弁護する。
「そんなの日本人的どころか、人間的じゃないわよ」とMさんも厳しい。
ひとこと「ありがとう」と言うだけで済むことなのに。
死ななきゃ治らない病気なのだな、きっと。