もちろん家計は火の車

読書と映画、クルマにゲーム……いろんなものを愛しつつ、怠惰な日常を送るオッサンのつぶやき。

小説版『ゴールデン・スランバー』を読んだんだけど……の巻 その(2)

2010年04月19日 | 

え~、それでは小説版『ゴールデン・スランバー』の感想、続きである。
私の場合、今回の作品に関して言うと、
(1) まず最初に“映画”を見る
(2) その後で“原作小説”を読む……という順番で接しているわけだが、
「“映画”と“小説”の違い」という意味からすると、
実は両者には「ほとんど」と言っていいくらい、違いがなかった。
(劇場版の映画は、細部で一部違いが見られたものの、
原作をかなり忠実に映像化していると言ってよい)

……なもんだから、映画を見た時の感想(エントリ)で書いた
「“小目標”と“大目標”の問題」は、もちろん小説においても
なんら解決されていないわけで、そのあたりの「どこか消化不良な印象」が、
私が『ゴールデン・スランバー』にハマれなかった理由の1つとなっている。

具体的に言えば、この『ゴールデン・スランバー』という作品、
「首相暗殺」の濡れ衣を着せられた主人公=青柳の逃亡劇を
描いているにもかかわらず、“みずからを陥れた黒幕”に対する
青柳の復讐譚……という部分では、実は「まったく」と言ってよいくらい
何も解決することなく、話が終わってしまうのだ。
(ここらへんの詳細については、こちらのエントリを参照のこと!)

ミステリー&アクションものの定番である“巻き込まれ型サスペンス”の場合、
主人公は、多くの場合「まったくの偶然」もしくは「故意」により、
殺人その他、さまざまな犯罪の“濡れ衣”を着せられ、
警察をはじめとする「巨大な存在」から逃亡するハメになる。
そして、追跡者から決死の逃亡を繰り広げる過程で
■主人公が「無事に追っ手から逃げ切ることに成功し」(=小目標の達成)
■その次のステップで「自分を陥れようとした黒幕=真犯人」に反撃。
「みずからの無実を証明する」などして、そいつに「一泡吹かせる」(=大目標の達成)
……と、このような展開をたどることが多い。
要するに、こうした図式が「1つのパターン」となっているのである。

ところが『ゴールデン・スランバー』の場合、
主人公である青柳は、“追っ手”の追跡を振り切ることには成功するものの、
なんと話は「そこでオシマイ」。事件の裏側で糸を引いていた黒幕、
つまり首相を暗殺した一味の陰謀は、まんまと成功した形で“the END”となる。

もちろん、“しがない無名の一市民”が
警察&国家に代表される“巨大な存在”を敵に回し、
あっさり勝利したんでは「リアリティがない」……という指摘もあろう。
しかし、小説であれ映画であれ、ひとつの“作り物のストーリー”である以上、
やはり最後にカタルシスは必要なわけで、細かいリアリティにこだわるよりも
むしろ「最後にスカッとさせてくれる気持ちよさ」、こっちのほうが
よっぽど大事だろ!……というのが、私の意見である。
黒澤明の作品に『悪い奴ほどよく眠る』という映画があるが、
あのような作りは「思いっきり硬派な“社会派路線”」だからこそ“アリ”なのであって、
フツーに「ハラハラ、ドキドキ」を楽しむエンタテインメントとしての
サスペンスでは、そのような“リアリティ”にこだわる必要など、まったくない。
『ゴールデン・スランバー』で言うなら、主人公・青柳には、
やはりラストで“警察庁警備部のエリート”佐々木に一発、
きつ~い反撃をお見舞いしてほしかった……ホント、そう思う。

しかも、だ。
『ゴールデン・スランバー』の場合、物語の要所要所に
とんでもない「ご都合主義の展開」が見受けられ、
とてもではないが「リアリティを重視した作り」とは、呼べないような代物となっているのだ。
たとえば……。映画&小説の双方で、
放置されていた廃車(もう、スクラップ同然のカローラ)が大活躍する場面が出てくる。
10年以上も茂みの中に遺棄されていた廃車が、
追っ手から逃れる青柳の“足”として、大活躍するのだ(!)。
このカローラ、青柳の逃亡を手助けする親友が「新品のバッテリーを取り付けた」だけで、
驚くべきことに見事、息を吹き返し(笑)、
当たり前のような顔をして道路を走り始めるのだから、なんともはや……であるw。
そもそも、あの状態の廃車であれば“バッテリー”を云々する前に
「タイヤはパンク、ガラスも割れ放題」なのは、まず間違いのないところ。
「走る」とか「エンジンがかかる」以前に、
「タイヤが4つ残っていた」だけで、まさに奇跡である。
廃車である以上は当然“ナンバー”なんかも付いてないので、
路上に出るなど本来は「もってのほか」のハズなのだ。
ところが、そのスクラップ同然、全身“赤錆だらけ”のカローラが、
警察が厳戒態勢を敷いている市街地を自由自在に走り回り、
どういうわけか人目もひかず、非常線にも引っかからず……って、
「おいおい、そんなバカな話がどこにあるんだよ!」っていうね(笑)。
街中で、あれほど“目立つクルマ”ってのも、他にないんじゃないかと思うんだけどなぁ……。
(ま、『ゴールデン・スランバー』における“ご都合主義”と言えば、
青柳の逃亡劇に力を貸してくれる“通り魔=キルオ”の存在に止めを刺すわけだがw。
あの“キルオ”もなぁ……とにかく、登場の仕方から存在そのものの意味に至るまで、
すべてが唐突過ぎて……しかも、出番がなくなったら「あっさり殺されて退場」って、
ある意味で映画『2012』における“ゴードン”に近いものがあるw)

ま、そんなワケで……。
私の場合『ゴールデン・スランバー』は、
実は小説の方も「あまり楽しめませんでした」と、そういう話である。
あ……でも“小説版”を読んで「ヨカッタな」と思えた点が、1つだけあった。
映画と異なり“小説版”では、物語のカギとなる「首相暗殺事件」から
“20年後の世界”が、きちっと描かれているのだ。
「事件に興味を持ったルポ・ライター」が書いたことになっている
そこの部分を読むと、映画では語られていなかった
さまざまなエピソード、さまざまな登場人物の“その後”について
ちょっとした知識が得られる仕組みとなっている(ま、ホントに“ちょっとだけ”なんですけどね!)。
興味のある向きは、そこのところをチェックしておくってのは、アリかもしれない。
事件から20年後……。
主人公・青柳の名誉は、はたして回復されているのか否か?
そこは、読んでみての「お楽しみ」ってことで、ひとつ……(笑)。


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