雨。
朝から仕事に追われる。
何度か駅前某施設を行き来して、最近まで仕事をしていた職場に行って、それぞれ様々な打ち合わせをする。
それに加えて個人的な所用もした。
午前中、雨が上がったので、車から自転車に変えて用事をこなす。
遠出していた時、その合間に「週刊文春」を読んでいたら、ある衝撃的なスクープ記事に吃驚してしまった。
あの高畑裕太の強姦致傷事件における、被害者女性との顛末記事のことである。
示談金1500万円はまあ別にどうでもいいとして(かなり破格だということだけれど)、女性の知人男性の事や事件に至るまでの経過が克明に書かれていて(どうしてここまで詳細に取材出来たのか、その点もまた驚きだけれど)、その内容が今までマスコミで書かれてきたことと大きく違っていたからだ。
これだとまるで、芥川龍之介の傑作短編小説「藪の中」ではないか。
あるいは、それを元に映画化した、黒沢明監督の名作「羅生門」ではないか。
映画「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」と「羅生門」の二作品からインスパイアされていて、小説同様、めちゃくちゃ面白い映画に仕上がっているのだけれど、映画は、複数の人間から見たある一つの事象・現象を描くという手法を取っている。
これを「多元焦点化」と呼ぶ。
映画「羅生門」の舞台は乱世の平安時代。
盗賊と、旅をしている武士と、その妻、それぞれ3人の視点で物語は進行する。
ある日、武士が山中で殺されているのが見つかる。
やがて、武士を殺害した罪で一人の盗賊が捕まる。そして殺された武士の妻も保護されるのだが、妻は盗賊に無理やり犯されといい、盗賊は盗賊で妻とはまったく別の証言をする。
そして、もう一人の死んだ武士の証言を得るために巫女が呼ばれ、巫女に憑依したその武士もまた、二人とはまるで別の事実を述べることに・・・。
さて、本当の真実は?
あとは映画を観て、その驚愕の結末を知ってくださいませ。
この物語と同様、高畑裕太の事件もまた、「週刊文春」を読んでゆくと本当はいったい何が起こったのか、何が嘘で何が真実なのか、まるで分からなくなってしまう。
それほど、起こった事象や現象なんてものも、それを見る人間たちそれぞれの立ち位置や立場や考え方や性格や思想や人間性なんかで、大きく様変わりしてゆくということだ。
真実なんて、みんなそれぞれが勝手に決めてゆく。
そしてそれが、多重的な「真実」として、それぞれの中に別々な「真実」として仕舞い込まれてゆくのである。
ああ、怖っ。
朝から仕事に追われる。
何度か駅前某施設を行き来して、最近まで仕事をしていた職場に行って、それぞれ様々な打ち合わせをする。
それに加えて個人的な所用もした。
午前中、雨が上がったので、車から自転車に変えて用事をこなす。
遠出していた時、その合間に「週刊文春」を読んでいたら、ある衝撃的なスクープ記事に吃驚してしまった。
あの高畑裕太の強姦致傷事件における、被害者女性との顛末記事のことである。
示談金1500万円はまあ別にどうでもいいとして(かなり破格だということだけれど)、女性の知人男性の事や事件に至るまでの経過が克明に書かれていて(どうしてここまで詳細に取材出来たのか、その点もまた驚きだけれど)、その内容が今までマスコミで書かれてきたことと大きく違っていたからだ。
これだとまるで、芥川龍之介の傑作短編小説「藪の中」ではないか。
あるいは、それを元に映画化した、黒沢明監督の名作「羅生門」ではないか。
映画「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」と「羅生門」の二作品からインスパイアされていて、小説同様、めちゃくちゃ面白い映画に仕上がっているのだけれど、映画は、複数の人間から見たある一つの事象・現象を描くという手法を取っている。
これを「多元焦点化」と呼ぶ。
映画「羅生門」の舞台は乱世の平安時代。
盗賊と、旅をしている武士と、その妻、それぞれ3人の視点で物語は進行する。
ある日、武士が山中で殺されているのが見つかる。
やがて、武士を殺害した罪で一人の盗賊が捕まる。そして殺された武士の妻も保護されるのだが、妻は盗賊に無理やり犯されといい、盗賊は盗賊で妻とはまったく別の証言をする。
そして、もう一人の死んだ武士の証言を得るために巫女が呼ばれ、巫女に憑依したその武士もまた、二人とはまるで別の事実を述べることに・・・。
さて、本当の真実は?
あとは映画を観て、その驚愕の結末を知ってくださいませ。
この物語と同様、高畑裕太の事件もまた、「週刊文春」を読んでゆくと本当はいったい何が起こったのか、何が嘘で何が真実なのか、まるで分からなくなってしまう。
それほど、起こった事象や現象なんてものも、それを見る人間たちそれぞれの立ち位置や立場や考え方や性格や思想や人間性なんかで、大きく様変わりしてゆくということだ。
真実なんて、みんなそれぞれが勝手に決めてゆく。
そしてそれが、多重的な「真実」として、それぞれの中に別々な「真実」として仕舞い込まれてゆくのである。
ああ、怖っ。