山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

稀勢の里の優勝を祝す

2017-01-23 04:12:48 | 宵宵妄話

長かった。本当に長かった。31場所も大関に居ながら、何度も横綱へのチャンスを作りながら、一度も優勝が出来なかった。その壁を突破することが出来なかった。ファンから見れば期待を裏切り続けた。何度も何度も裏切り続けた。同世代の外国人力士が次々と横綱昇進を実現してゆく中で、まるでそれは日本人を裏切り続けているような感じさえした。それがついに壁を突破したのである。心からおめでとうと言いたい。優勝、そして横綱昇進(これはもう間違いなし)おめでとう。

3年前の一月場所も横綱へのチャンスを作っていた場所だった。大いなる期待をもって見ていたのだが、躓(つまづ)きは初盤から始まり、中盤を過ぎるとシッチャカメッチャカな状態となり、終わって見れば何と7勝8敗という、それまで一度も無かった負け越しという惨憺たる結果となってしまった。この時にどうしてこうなのかについて、「横綱になれない大関」という記事をこのブログに書いた。(2014.1.25) 期待に対する余りにも大きな裏切りに対して、些か怒りを覚える気持での分析だった。礼を失しているのは十分承知の上で、親方になったような気持での投稿だった。

その記事は、相撲道の目指す「心・技・体」についての論旨だった。今の大相撲界では、「心」の鍛錬が不足しているように思ったのである。数年前には博打に係わる事件が大相撲界を揺るがし、親方クラスまでが関わっていたという、真に呆れ返った状況を呈していた。これは道を忘れた「心」の欠如、歪みがもたらす結果に他ならないと思った。この場合の「心」というのは、「道」とは論外の外道の世界であり、稀勢の里に求められている「心」などとは勿論無関係であることは言うまでもない。しかし、本来の相撲道という「道」の中の「心」と似通うものがあるとすれば、それは「甘さ」というものなのかもしれない。心の甘さというのは、本来の道を忘れ、己の都合の良いような満足を享受しようとする働きであろう。外道というのはその極みに位置している。

相撲道の「心・技・体」を思う時、稀勢の里という人の弱点は、これらの三要件が一点集中的に合致しなかった、させられなかったことにある様に思ったのである。この三要件の中で「心」の占める割合は、番付の位置が上がるほど大きくなる。「技」や「体」が不十分のままでは、上位にあって勝つ、勝ち続けることはできないからである。それは自明のことであろう。

日馬富士や鶴龍が稀勢の里と大して変わらない実力なのに、先を越して優勝し横綱になったのは、「心」が一皮、二皮鍛えられて脱皮していたからなのではないか。別の言い方をすると、彼らは「技・体」と「心」を一点集中的に合致させる力を獲得していたということになる。そこには心の甘さなどが入り込む余地はない。日馬富士が良く言う「全身全霊をかけて」というセリフには、その思いが込められていると思う。見事な信念だ。又鶴龍が稀勢の里を心配してのコメントに「稀勢の里関には何かが足りない」とあったのも、その辺りを指摘していたのではないか。その二人が今場所揃って休場となっているのは象徴的な気がする。「心」の限界が見え出したのかもしれない。「技・体」がかなり傷んでいるというのも間違いないと思うけど、もし「心」が傷み出したなら、その先は引退しかない。それが横綱というものの厳しさであり、それは白鵬にだって同じことなのだ。そのことは重々承知のことだと思うけど、稀勢の里には、これから更に「心」を鍛えて力を発揮していって欲しい。「心」の鍛錬は、むしろこれから始まるのだから。

稀勢の里の出身地の牛久市は、私の住む守谷市からはほんの少しの距離しかない。土曜日には時々牛久市郊外にある「ポケットファームどきどきつくば牛久店」という長い名称のJAの野菜や肉などの大型販売所に買い出しに出かけるのだが、そこの店の壁には稀勢の里の大きな写真が掲げられている。地元の人たちの誇りであり、輝く期待なのである。地元の人たちの喜びは、もしかしたら本人以上のものなのかもしれない。善朴な人たちの住む世界がそこには広がっている。

茨城県はその認知度において全国最下位であるとか、或いは女性の肌の綺麗さにおいても最下方であるとかの、愚劣極まりない怪しげな調査がある。ふざけるなと言いたい。そのようなコメントは、別の視点から見れば茨城県人というのは、この上なきお人好しが多いということなのでもあろう。県北の水戸近くで育った私から見ると、県南(牛久や守谷もその中に入る)の人たちは、より以上にのんびりしたお人好しが多いように感じている。私はそれこそがこの地に住む人の最高の優れた特性だと思っている。いいのだ。目立つことなどどうでもいいことなのだ。

稀勢の里は、長い間辛抱を重ねて茨城県人の、特に県南エリアのど根性を知らしめてくれたのだと思う。人が良いから「心」が「技・体」を思うように動かしてくれなかったのだと思う。多くの茨城県人にとって「心」の鍛錬は大きな課題のような気がする。さりとて悪性の混ざった「心」を目指すわけには行かない。稀勢の里には、この後は一点集中の時だけは、お人好しを放棄して、ひたすらに勝負へのこだわりを厳守して欲しいと思う。

積年の鬱憤から解放された、寒さを忘れる爽快な気分で終わった一日だった。

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1 コメント

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おめでとう!稀勢の里! (SHINEI (有)真栄石材産業)
2017-03-09 11:24:39
馬骨さん

雛祭りの際にはお立ち寄り頂きありがとうございました。
写真まで頂きありがとうございます。
頂戴した写真を見て年月を感じました(笑)
お孫さんかわいいですね。
奥様にもご挨拶出来てよかったです。 
平素の真壁へお越しの際にも気軽にお立ち寄りください。

これから稀勢の里には、沢山の重圧に負けずに頑張ってもらいたいですね。

       塚本

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