山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

年末世相雑感:虚に口がつくと嘘になる

2008-12-27 00:37:36 | 宵宵妄話

虚の人間行動の最たるものは「嘘(うそ)」ではないかと思う。嘘という人間行動を「偽()」という。わざと嘘をついて他人を騙(だま)し、己(おのれ)を利する行為を詐欺という。嘘八百と言うけれど、今の世の嘘は八百どころではない。一人の人間が一生の間に何回の嘘をつくのかわからないけど、中には嘘をつくのを職業にしているような奴も居るから、現代の世に溢れる嘘は、億の単位をはるかに超えているに違いない。斯く言う私自身も今年は大嘘つきというレッテルを貼られてしまった哀しい事件があった。

嘘も方便と言うように、他人を利するための嘘ならば敢えて非とはしないという考え方があるけど、今の世は他人のことなど委細構わず、ひたすら己を利するための方便として嘘をつきまくっている奴が居るのだから、これはもう困ったなどというレベルではない。断固として駆逐・排除しなければならない。

人間社会の歴史の中で、最も卑劣な犯罪は詐欺だと思っている。嘘にもいろいろな種類があるが、相手の弱みや好意につけ込んで、その誠意を裏切って己に益するという行為は、人間社会を愚弄(ぐろう)するも甚(はなは)だしい許すべからざる犯罪である。その犯罪者はもはや人間と呼べる存在ではなく、畜生にも劣る悪鬼の行為であるといえよう。ある意味では殺人という行為よりも悪質の犯罪ではないか。

今の世に、この嘘を手だてとした犯罪が蔓延(はびこ)っているのが何とも嘆かわしい。俺おれ詐欺から振り込め詐欺と名を変えた犯罪行為が、一向に衰えることなく被害の額と領域をいや増しているというのは、一体どういうことなのか。人心は疲弊し、この世の終末を思わせるほどに今の世はダメになって来ているのだろうか。この頃はうっかりすると、騙す方より騙される方が悪いというような、お粗末な感慨がもたらされるほど、極悪の虚偽を根とする犯罪が天下の大道をのし歩いている感じがしてならない。

振り込め詐欺だけではない。振り込め詐欺の悪質さは際立っているが、人間社会における信頼関係の中で、最も大切な食に関する世界でも様々な嘘が発覚して世相を暗くしている。毒性があると用途を限定して国が売り渡した輸入米を、平然と食品用加工米と偽って全国的に流通させたり、或いは産地偽装などと言う悪質で手軽風の犯罪も多発している。実害が無ければ人を騙しても良いと言う発想は、世の中から正直という道徳心を駆除する歴然たる悪業である。孔孟の時代から永々と培(つちか)ってきた、人間が、社会を重んじてよりよく生きるための知恵のルールを、現代は己の欲望を満たすためだけの目的で、平気で破却しようとしている。人間社会の恐るべき崩落の始まりの感すらするほどだ。

ふと、虚の蔓延(はびこ)る世は、虚の哲学を持って生きる人間に似た動物を生むのではないかと思った。インターネット社会は、明らかなバーチャル(=仮想)社会だが、これを虚だと思っている人は意外と少ないように思う。ネットを単なる情報ツールだと思っている人は健康だと思うが、その認識を超えて現実そのものと信じているような人は、明らかに病に取り付かれている。虚実の判断がつかなくなり、自分の都合だけを考えた生き方を選択して何のためらいも無い、異種の似非(えせ)人類を生み出しているのは、やっぱり虚の社会の産物なのではないかと思えてならない。

インターネットだけが虚の世界ではない。現在、世界中を近世開始来とも思える不況に陥れている経済活動の根源も、又虚であることは昨日書いた通りである。「憎まれっ子世にはばかる」ということわざがあるが、よくよく考えてみると、虚の世界で育った輩の中から様々なタイプの憎まれっ子が生まれ出ていて、そいつらが世に幅を利かせているのが今の世なのかもしれない。憎まれっ子と言うのは、まともな道徳感覚などは持ち合わせていない自分勝手な奴をそう呼ぶのである。そして憎まれっ子は、今の世では個人としての存在だけではなく、組織や経世の手法までもが含まれるものとなってしまっている。そのように思えてならない。

このような虚に口のつく者が蔓延(はびこ)る社会が何故生まれたのだろうか?人間社会の基本道徳を平気で踏みにじる似非人間が何故増殖しているのだろうか。いろいろな要因を挙げることが出来ると思うが、突き詰めれば、社会維持のバランスを意識した善悪の物差しなどよりも、己の欲望の充足のみにこだわる損得の物差しだけを使って、形振(なりふ)り構わぬ生き方を是とする人間が急速に増えたからなのであろう。それは言うなれば我欲充足のためには、虚であろうと道徳破壊であろうと、そのようなことには一切関知しないという生き方が当たり前という、似非自由社会が生み出した魔物であるようにも思える。

元々アメリカ辺りにあった、ヨーロッパには無い新しい自由という考えを、わが国は敗戦後の塗炭の苦しみの中で輸入し、それを養殖しながら60年余が過ぎたわけであるが、いつの間にかその根っ子に虚が進入し、それが世の中に影響を及ぼすに連れて、人間社会を無視しても心の痛みなど全く感じないという新しいタイプの自由が生まれ育っていたということなのかも知れない。

思うにこれらの自由を育てたのは、ある意味では戦争という愚行を経て、がんじがらめに縛られていた戦前の統制社会から解放された反動現象でもあったように思う。その反動現象の中身といえば、自分自身も含めて、子を育てる親の殆どが、あの戦争の戦前・戦中・戦後を通して、厳しい不自由がもたらした惨禍を嫌というほど味わった体験を、二度と味わい、味あわせてはならないという決心の表われとして、ふんだんな自由を道徳という規制を無視しても獲得しようとしたことなのではないか。

具体的には、家庭教育も学校教育も、履き違えた自由を身につけたたくさんの人間を作り出して来たのではないか。子を育てる信念の無い親から生まれ育った子供が、人間を育てる信念の無い教師に部分的な知識だけを首から上の部分に押し込められ、道徳などを無視して損得だけを追求する生き方ばかりを身に着けてしまうのは、た易いことだと思う。競争の哲学が世界中を覆っている今の世の中では、虚こそが最も手っ取り早く生きる糧(かて)を得る最適手段なのだという発想が生まれてもおかしくは無い。そして世代が一つ進んだ今日では、その発想が更に増殖して、様々な社会破壊の現象をもたらし始めたような気もするのである。

真に生き難(にく)く住み難い世の中になったものだ。しかし慨嘆ばかりしているわけにもゆかない。この事態をどう受け止め、残りの人生をどう過したらよいのか。先ずは虚の世界から生まれた魔物などには一切惑わされること無く、間もなく古希を迎えようとしている己の置かれた状況をしっかりと見据えることにしたい。何しろ80年の人生時計では、あと3時間しか残っていないのだ。3時間内の出来るだけ早い時期に、不況を乗り越えた世界が現出してくれることを願いつつ、とにかくこれからの3時間を楽しむことをひたすら考え、行動したいと思っている。

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