山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

百日紅の思い出

2017-08-08 06:00:38 | 宵宵妄話

 夏は百日紅の花の季節である。百日紅と書いて、<さるすべり>と読む。多くの樹木が花を咲かせる季節は春なのだが、真夏に花を咲かせる夾竹桃や槿(むくげ)など数少ない樹木の中に百日紅も加わっている。百日紅と書くのは、百日ほどもの長い期間に亘って紅い花を咲かせ続けるということから名づけられたのであろう。

 守谷市内には百日紅の街路樹の通りが何カ所かあって、今の季節になると早朝散歩の楽しさを膨らませてくれるのが嬉しい。街路樹以外でも百日紅は庭木としても多く植えられているようで、灼熱を煽る蝉たちの声を包んで咲き続けている。

守谷市に幾つかある百日紅の街路。夏になるまではさっぱり見応えのない街路樹なのだが、この季節になると、俄然輝きを増す。

 この花を見ているといつも必ず思い出す出来事がある。他愛もないことなのだが、学生だったわが青春時代を懐かしく思い出すのである。そのことについてホンの少し書いて見たい。

 自分の学んだ大学はいわゆる駅弁大学の一つである。戦後新制大学なるものが全国に誕生した中で、茨城県では旧制水戸高校、茨城師範学校、茨城青年師範学校、多賀工業専門学校の三つを包括してそれぞれ文理学部、教育学部、工学部の三学部からなる大学が発足した。後に農学部も設置され、4学部となった。最近では学部の編成なども大きく様変わりしているようだけど、自分が入学した昭和34年の頃はこの4学部であり、全学部とも1年時は本部のある水戸市で一般教養課程を学び、2年次以降工学部は日立市へ、農学部は阿見町のキャンパスに移って学び、文理学部と教育学部はそのまま本部で学ぶという仕組みだった。

 自分の場合は、文理学部の中にあった政経学科に在籍した。前身は旧制高校であり、その頃は旧制高校時代から教鞭をとっていた先生も残っておられたので、その講義を受講するのも目的の一つだった。大学と言っても前身は高校なのだから、何だか大学に入ったという気分にはなれなかったのを思い出す。地元の大学に入ったのは、当時の国立大学の授業料が安かったからである。年間9千円であり、これを2回に分けて収めれば良かった。これは月千円だった高校の授業料よりも安かったから、親に掛かる負担も少なくて済むと思ったのである。家計に余裕があるのなら浪人しても旧制帝大や東京の名門私学に行きたいと思ったけど、高校時代ロクに勉強もしておらず成績もそれに相応しいものだったので、浪人が何年となるのか見当もつかず、それ以上に家計の苦しさを十分承知していたので、地元でいいと見切りをつけたのだった。勉強は就職後でもできるのだと、妙な自信があった。

 さて、そのような状態で入学したのだが、大学に入ったら少し真面目に勉強しようと思っていたのに、間もなく高校バスケ部の先輩から声を掛けられて、バスケットボール部に入ることになってしまった。高校時代は、勉強よりも強健な身体をつくることに注力しようと決め、部活のバスケにエネルギーを傾注して過ごしていた。大した結果は残せなかったけど、県大会では上位のレベルだったから、先輩は当然大学に入ってもバスケを続けると思っておられたらしい。というのも、当時のこの大学のバスケ部のレベルは、自分の高校レベルと大して変わらぬほどのものだったのである。先輩に期待されたのも当然だったのかもしれない。大学のバスケ部のメンバーの大半は教育学部の人たちで、彼らは教職員となった時の子どもの指導項目の一環としてバスケを体験しておこうというような、バスケ未体験者が多く、戦力メンバーとなれる人はそれほど多くなかったのである。先輩につかまって口説かれてしまい、やむなく入部したのである。この年のバスケ部の文理学部在籍者は自分一人だけだった。

 それから卒業するまでの4年間、勉強の方はほどほどに済ませて、結局バスケにも励むこととなってしまった。1年時からレギュラーとして出場させて貰えたので、少し調子に乗っていたのかもしれない。ま、身体の方はそれなりに鍛えられて、子どもの頃の虚弱体質は大幅に改善されたのだから、結果として悔いはない。

 百日紅の花に絡む思い出というのは、この大学時代のクラブ活動の中の変な事件のことである。毎年夏休みになると、バスケ部は不断の練習よりも更にハードな合宿を行った。本部のある水戸市の学校の体育館で行うこともあったが、何回かは水戸のキャンパスではなく、他所の場所で行うことがあった。

何年次の時だったかは忘れたが、県南の方のお寺さんを合宿所にお借りして、どこだったか高校の体育館を使わせて貰って、10日間ほどの合宿をしたことがある。総勢30名ほどが参加していたように思う。練習は午前の部と午後の部と2回に分けて行われていて、昼食を挟む暑さの厳しい時間帯は昼寝など自由に過ごす休養時間、そして夕食後はフリータイムというような日課だったと思う。練習は体育館の中だから日射しの問題は無いのだが、とにかく走り回ることが基本なので、全身に汗が噴き出し、練習が終われば洗濯に取り組み、それが済むと身を横たえるというような毎日の過ごし方だった。

そのようなつらい練習の中でも一緒に暮らしを共にするということは、仲間の絆を培って行く上で大切であり、それなりに楽しい時間だったと思う。フリータイムは、何組かの集まりが自然にでき上がって、思い思いに談笑したり、麻雀などの好きな連中は卓を囲んだりして過ごしていた。自分は勝負ごとのゲームは一切やらないことにしていたので、麻雀や碁や将棋などとは無縁の存在だった。バスケ部の8割以上が教育学部の人たちなのだが、将来教員を目指しているにも拘わらず、麻雀などにうつつを抜かす者が多くいて、こんなんで日本国教育の将来は大丈夫なのかなどと、気どった疑問を抱いたりしたものである。

ところで、合宿という非日常的な場となると、存外困惑するのは食べることよりも食べて消化したものを出すという作業である。毎日が激しい運動の連続であり、食事なども家にいる時とは全く違った暮らしとなるので、用を足すタイミングを計るのが難しいのである。それにその頃は未だトイレの水洗化が遅れていて、現在のようなウォッシュレットなどという装置は皆無だった。合宿所であるそのお寺さんの場合は、汲み取り式の和式トイレで、用を足す度に「ポトン!」と音がするシロモノだった。我々はそのトイレをポットン便所と呼んでいた。

この頃の流行歌に島倉千代子の歌う「思い出さん こんにちは」というのがあり、その何番かの歌詞に「ポチャンと淋しい音がした」という一節があって、そのトイレに行く度に、何故かその歌詞とメロディが浮かび上がってくるのである。この歌の情景とは全く違った場所なのに、「ポチャンと淋しい音がした」という部分だけが、メロディと一緒に出てくるのを止めることができなかったのを覚えている。

このポットン便所に関しては、今一つ可笑しな話が残っている。仲間内でトイレが話題となった中で、一人が変なことを言い出したのだ。

「俺よ、ふっと思ったんだけど、お前らケツを拭く時後ろから拭くのか?」

「お前、何言ってんだ、そんなこと後ろからに決まってっぺ」

「いいや、俺は前からだど」

「前からじゃ、やり難くがっぺよ」

「うんにゃ、そんなことはねえ」

「だって、お前ナニが邪魔だっぺよ」

「俺はちっちゃい時からやってっから、何でもねえぞ」

「お前は変な奴だな、‥‥‥」

笑っていいのか、素直に考えてどちらが正しいのか、間違っているのか?近い将来に学校の先生になるという若者たちの会話は、無邪気なものだった。自分も半ば大笑いしながら、ちょっぴり複雑な気持にもなった。

先ほどの「ポチャンと淋しい音がした」という話とこの変な奴が言い出した仲間たちとのバカ話のやり取りは、今でもセットになって自分の頭のどこかに収められている。そして、もう一つこの記憶を甦(よみがえ)らす引き金となっているのが、百日紅の花なのだ。そのお寺の境内には大きな百日紅の樹があって、淡いピンクの花を目一杯咲かせていたのである。

あの時からもう50数年が経ち、風の便りでは、言い出した変な奴は、その後確りとした先生となり、小学校の校長先生を務めて終えたとか。今、どのような暮らしをしているのか、その後の付き合いの全くない自分には、この頃は風のうわさも伝わっては来ない。自分と同じ年齢だから、喜寿を迎えて元気に暮らしているのだと思う。今はもう、ポットン便所が無くなり、島倉千代子も亡くなってしまい、「ポチャンと淋しい音がした」の歌も忘れられようとしている。でも、これからも百日紅の花が無くなることはなさそうなので、これには救われる。

それにしても、あの変な奴だった彼は、その後もずっと「前方式」を堅守しているのだろうか。

百日紅にも白や紫など、最近では花の色の種類も増えたようだが、自分的には百日紅はやっぱりこの色が一番だと思っている。

 

コメント
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