孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

ストレスから「想像の世界」「白昼夢」「自己陶酔」の<非実在>の世界に逃避して休憩していたいようです。

2012年07月20日 | Weblog
良い悪いで判断するその矛盾意識を持っているだけに精神的に「お疲れ」になっていることを書いています。
それが精神的ストレスですが、何たって自分が良かれと思って行動したことがその相手に迷惑な不愉快な結果をもたらすことになったり、その相手が喜び感謝しているその裏に善悪・損得・優劣で比較差別の判断していることもあるだけにそれが気にもなるものです。

だから相手に気配り気遣いしたことがそれまた気になるというように、様々な思いが複雑に絡み合うので、絶対が無いのが人間関係の中にあります。
また実際に接し触れ合ったわけでもないのに過去現在未来に至るまでの様々なことに思いを巡らす「独りよがり」の思いに浸るときもが多いのも事実にあります。
だから「絶え間なく」ひっきりなしに思い考え想像していますから、それを「想像の世界」で生きていると言われていますし、「人間は意識で生きている」と言われるわけです。

しかもその思い意識が矛盾で満たされているのですから絶対がなくて思考錯誤・葛藤することになります。
しかも前もって思い考え、その思惑・理想・目的までも描いて、しかも期待までして動いているのですから、それは「夢の世界」で生きていることになります。
すなわち「白昼夢」の中で生きているに等しいのですが、私なんか一日2回から3回ほど夢を見ていますが、その寝ている夢の中でさえも思い考え判断していますし、その夢が現実にも思えている時間帯があるわけですから、そうなると一日中の殆どが夢の世界・白昼夢の中で生きているようなものです。

その寝て見る夢の事例と同じくして、映画テレビの映像音声の中に引き込まれて如何にも事実を現実に味わっているような思い錯覚することまでもあるのですが、それも白昼夢にあたります。
しかもその出演者・名優の演技表現演出に引き込まれ魅了されて(他者洗脳による自己陶酔)、あたかも事実の実在の人物のように思い・積み重ねてそのスターに憧れ敬うこともありますから、夢が覚めてもまだその夢の続きずーっと見たがるようなものです。

その他に演劇芝居や名作小説や単行本・漫画・絵本や絵画・写真・音楽の中に引き込まれての思いの世界・夢心地になっている時間帯もあります。
またパチンコ・スロット、競輪・競馬・競艇、花札・サイコロ、マージャン・囲碁・将棋・チェスなどの賭け事・賭博・勝負があります。
他に様々な体力運動競技・スポーツ競技、探検・冒険、また様々な伝統風習や芸術文化があります。
また酒タバコ、精神安定剤、麻酔・麻薬の類、また電子映像ゲームもあります。

だから不確かな矛盾の世界で生きていて、その矛盾する想像の世界で生きていることからしてストレス(不満・不安心配・恐れ)を持つことになり、そのストレスをずーっと抱え込んだままにいると「生きた心地」がしていませんし、諸々の精神疾患につながり廃人同様の生き方になったり、自殺願望や自己破壊・他者破壊にもなっています。

だからこれまた「想像の世界」「白昼夢」「自己陶酔」の事実とは違う<非実在>の世界に逃避してしばし休憩していたいのです。
そこで前項のような趣味嗜好娯楽の類やそれらが進化拡大した類に接し触れ合うことでストレスを「忘れて」いたいのです。
それを「癒される(治癒)」と錯覚していますが、しっかりと奥に隠れ潜んで積み重なっています。
だから(治癒されていないから)「癒される」事柄に依存することになるその事実に<依存症>があります。

しかもマンネリ化すると効果が薄くなりますからより効果的な形に変化進化拡大しなければなりません。
例えば人前で歌うときに手拍子だったのがタンバリンなどの小道具が使われるようになりそれがカラオケマシーンになりミラー光線やレーザー光線やコスプレ衣装までが使われるほどに変化進化拡大しました。
だから此れまで通りではない、普通ではない特別な、より高度に極めたり、斬新奇抜に変化させたり、より増力増強なもの、より刺激的なもの、より新たなものが必要になります。

それが衣食住や趣味嗜好娯楽の類や医科学にも及んでいるのです。
しかも癒されると錯覚しいるそれらからも様々なストレスを受けているのに気付かないのも、その変化刺激を味わっているからです。
しかもそれらにまた依存するというその繰り返しをしています。

それが「自己拡大」につながり、それが先程の「破壊意識」につながるのです。

ところが(私の事例ですが)不完全意識の人間関係から離れて自然界の中で暮らすことで表のストレスも裏に潜んでいたストレスまでも解消されはじめたのです。
だから伝統風習の類やそれらを含む趣味嗜好娯楽の類やそれらが変化進化拡大した形や医科学さえも次第に必要なくなったのです。
すなわち「逃避」の類や「白昼夢」ではない<事実>を味わう意識が増えているのです。
それが他力に依存することがなくなり、それが自前の自力で事を成すことが多くなり、それが良いとこ取りではなくてその裏も表も丸取りで事実を味わう意識にもなり、その裏の中身・正味を味わうことでその裏が苦にならなくなったのです。

その私の事例をこと細かく多く書いていますが、先日の単車転倒で手足に擦り傷を負い左手は筋違いから力が入らずに不自由していますし、その手足体がやぶ蚊やダニに刺されていつも痒くなっていますが、その痛い痒いを味わっているからこそ「いま生きている」実感が味わえているのです。
だから痛い痒いが事実にあってもそれが不満・苦にならないでそれを味わっている感覚でいられるのです。
だから「癒される」ものを欲しがることにもなりませんから、その他力に依存することにもなりません。

それが衣食住や身体・命に関わることであっても同じです。
だから「いまのまま」で十分ですし、今まで在った物が無くなって新たに購入することが出来なくなれば、今あるものを創意工夫して使えばいいし、それさえも無理なことであれば全部自力で事を成せばいいことですし、それさえも出来なければそこであきらめればいいことです。

だからどんな状況になっても、食って寝て糞が出て、何とか生きている限りにおいては、それら状況を全部丸取りして、それを素直に真摯に味わえる、そんな意識になる実践中です。

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