孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

良い悪いで判断する「役割」を果たしながら、良い悪いで判断しない「完全意識」になるのが<使命>です。

2011年11月16日 | Weblog
私達人間は生まれながらにして「良い悪い」で判断することが役割として持っています。
そしてその役割を果たしながらも「良い悪い」で判断しない完全意識になることが使命となっています。
すなわち己の不完全意識に気付くのが役割で、その不完全意識をなくしていく実践が使命になるわけです。

その人間を何処から見ても人間ですから「完全」です。
ところが見ている面・表しか見れませんから、見えない裏側は想像するしかありません。
その想像することが(事実を見ていない)不完全になるわけです。
だから姿形・結果そのものが不完全なのではなくて、見えていない所を思い想像するその意識を不完全意識と言われる訳です。

そして見えているのは事実だが、その見えていない部分を思い想像してそれが良いか悪いかで比較することからしてその「差」が生まれ、その差を如何にも事実の如くに思うことからして、それを不完全意識と言われる訳です。
・・・想像したことを事実に思うその意識に問題があるだけです。

だから表の事実だけを見ることは完全で愛があります。
そして裏側を判断する不完全意識が出ることがあっても、それが一日24時間出続けていることではありませんから、表の事実だけを見ている「あるがまま」の愛の時・時間もあるのです。

そして「過去」は既に終わっていることですから、記憶(裏)に残っていても「表」に出して見せる事は出来ませんから、それは不完全になります。
また生まれながらにしての詐欺師やドロボウや人殺し戦争をする人はいません。
となると、食って寝て糞をしながら生きている最中に何かの原因があったからその結果が現れたことになります。
その原因にあるのが「良い悪い」で判断する世の中にありますから、その結果も全ての人の責任でもあります。

そして結果(表)である詐欺や泥棒や人殺しも時間が経過すれば過去の事になりますから、たとえ記憶(裏)に残っていてもその事実(表)は完全に消えています。 ところがその事実(表)が消えて見えていないのに、頭の記憶(裏)に残っていることに執着していつまでも悪人扱いする人がいますが、そんな人のことを愛のない不完全意識を持ち続けている人と言われる訳です。

それらをまとめると表(結果)は「完全」ですが、裏(判断)が出れば「不完全」になるわけです。
だから「判断」しなければ結果の事実(表)だけになり何ら問題ありません。
すなわち宇宙・万物の姿形やそれらの原因から出た結果(事実)は「完全」で<愛>がありますが、その結果の姿形や事実を想像して「判断」しているその『思い』が不完全意識(裏心)であって愛がなくて問題があるのです。

だから弱肉強食の形結果は完全で愛がありますが、それを「良い悪い」で判断している不完全意識の人達に愛がなくて問題があるのです。 そして地面にいるアリさんも完全であり、その役割に愛がありますが、そのアリさんを踏みつけて殺す事になると、それが知らない間になった事でも、知ってやった事でも、それを「良い悪い」で判断した人の不完全意識に愛がなくて問題がある事になります。

また先程の詐欺や泥棒や人殺しの結果・事実にも原因が有ってのことであり、その原因が自分さえ良ければの不完全意識の人間に愛がなくて問題があったことですから、人間である限り、それはお互い様の関係でもあり、そのお互い様のその結果事実を役割として果たして見せてくれた人がいれば、それはアリガタイお蔭さまになり(役割を果たした)愛がありますが、それを良い悪いで判断している裏心の不完全意識の人に愛がないわけです。

そこでよく考えると、判断しているときに不完全意識になっているが、判断していなければ問題ないわけだから、不完全意識を持っていることに変わりは無くても、その日々の生活の中で愛が出ていることが多いはずですから、あまり不完全意識の事を気にしないで平然と生きていて、判断が伴ったときに気付いていけば執着することにもなりません。

そうなると私は世間のことに無関心ですから、それだけ判断することもありません。
また人間関係もごく限られているだけにそのことで判断することもごく限られています。
また食って寝て糞をしているだけのような生活ですからそのことで判断することも限られています。
すなわち呑気気楽であれば判断する事無く、また過去や未来を思い考えるのはブログを書いている時くらいですから、持っている不完全意識が出ることも限られます。
・・・だから(完全意識に近づいているということではなくて)穏やかな暮らしがあります。

ところで地面にいるアリさんを踏みつけないように意識することがあっても、その事に執着してアリさんを踏みつけないように前もって注意・用心しながら歩くことは行き過ぎた愛になり不完全になります。
・・・命あるものを思うことから・・・田畑を歩く道に板を敷いたり踏みつける所を決めて歩いている民族国家があるそうです。
だから前もって「思い」考えて行動することは不完全意識ですが、その行動が結果になり「良い悪い」の判断「思い」が伴わなければ愛の行為になります。
・・・「思い」の部分が不完全なだけです。

だから前もって思い考え想像していることは不完全意識であり、その行動が伴わなければそれも不完全なままですが、それが行動になりその結果が出れば事実になりそれが愛になるわけです。
そしてその結果・事実・愛に「判断を加えた人」だけにその不完全意識が出ている事になるのです。

何はともあれ「判断」しなければ事実だけになり愛ですから問題にはなりません。
そうなると「判断」しながら書いていることは不完全意識ですが、出来上がったブログは結果ですから愛があることになります。
またその愛のことを書く中に自分の思いが入っていれば不完全ですが、完全真理に元ずく判断から確信で持って書いています。
しかもイメージ的に思い浮かんだ事を説明文書にしている中で思いつくままに書いているだけですから、私の強い思い意識で書いているわけでもありません。
だから事例を(完全とも愛とも自覚しないままに)思いつくがままに書いているときに、その内容が完全なことや愛にあたることなどに(書きながらにして)気付くことになっていますから、こうして書き続けることで私も気付き知り学んでいるのは確かです。

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