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サッカレー「虚栄の市」


2005 岩波文庫(1~4)中島賢二訳 サッカレー著(1847初出)

何か長い小説を読みたくて、図書館でこれを選んだのは「天路歴程」「若草物語」でおなじみのタイトルだったからだが、最初かなり難渋して1日に30頁しか進まず、大勢の登場人物の相関関係をメモしながらぼつぼつ進み、読了するのに1月以上かかった。

筋を一言で言えば、同時に女塾を卒業したレベッカ・シャープ(ベッキー)とアミーリア・セドリ(エミー)が辿る紆余曲折の半生の物語である。美貌と才気で自力で人生を切り開く孤児ベッキーと善良で温順な誰にも好かれるエミーは対照的な性格である。

対照的な二人を中心にすえるのはしばしば小説に採用される方法だ。
「風と共に去りぬ」(1936)のスカーレットとメラニーや「虞美人草」(1907)の藤尾と小夜子。これらはそれだけでなく他にも「虚栄の市」と似た点がある。

さらに「小公子」(1885)「小公女」(1905)はこの小説の影響を受けた、というよりは部分的にそっくりそのままで、驚くやらあきれるやらだったが、その件は今まで見聞きしたことがなかった。この作品は有名な割に、今まで読んだという人に会ったことがない。当時もそうだったのかも知れない。バーネット夫人もマーガレット・ミッチェルも、時代も読者層も違うからして、バレるとも思わず右から左に流用したのだろう。

冒頭から「小公女」そのままの状況が出てくる。フランス語のできない女校長と小心な妹、フランス人の母を持つ給費生と校長の不仲。「虞美人草」で藤尾が兄の本を庭に投げる挿話は、ベッキーが馬車の窓から卒業記念に貰ったサミュエル・ジョンソンの辞書を放り投げるシーンに触発されたのでは。また小夜子の結婚に奔走する宗近君は、エミーのために尽力するドビーという形で出てくる。中ほどには夫の親の許さぬ結婚をして未亡人になったエミーが愛息ジョージーとの中を義父に引き裂かれるという挿話は「小公子」がそっくり戴いている。ワーテルローの戦で、ブリュッセルが大混乱に陥るシーンは、「風と共に去りぬ」のアトランタを思わせるし、戦後、金まわりが良くなり華麗な社交生活を送るベッキーと貧乏でも気品を保ち慎ましく暮らすエミーは南北戦争後のスカーレットとメラニーである。またスカーレットが子供嫌いなこと、機嫌さえ損なわなければ良い妻であることなどもそっくりだ。インド帰りの金持ちの親戚に救われるエミーは小公女セーラの幸運を思わせる。セーラというのはベッキーのごとく聡く、エミーのごとく心掛けが良い、両方の美質を持っているのがちょっと強引に思えるが。最近の映画「ブルー・ジャスミン」は、「ほとんど自分の金を持たずに何か月、何年も豪奢な生活を繰り広げる」というこの小説の箇所で、ああ時代を越えてこのような人種は存在するのだなあと感じた。その陰に、踏み倒される犠牲者は泣きを見るのである。

サッカレーはディケンズとも並び称されるが、彼ほど感傷的でなくユーモアがある。
若いころ賭博にふけるなどかなり放埓だったらしいが、それが作家としての人間観察眼に生きているようである。また彼の鼻は何かの事情で歪んでいたそうで、育ちや姿かたちに欠点のあるドビンの心情の高潔さを強調するのもそこから来るのかも。彼自身の描いた表紙絵と挿絵も詳細で表現力豊かである。
この作家はまた、戦争や宮廷などの描写に首を突っ込むことはなく、身の程をわきまえて身近な世界に取材している。特に日の当たらない女性や子供など弱者の状況を鋭くえぐっている点は、今日から見ても評価できる。

「虚栄の市」という題名の意味は、私にとって、あまりはっきりしなかった。印象ではカトリックよりはプロテスタントがよく口にするようだ。それで調べてみた。「天路歴程」から引用すると。

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「虚栄」という名の市(まち)を見た。この市(まち)には「虚栄の市(いち)」という名の「市」が立っている。それは年中立っているのである。「虚栄の市」という名をもっているのはその市(いち)の立つ市(まち)が虚しきものよりも軽い(詩篇6・29)からであり、そこに売られている、あるいはそこへ行くすべてのものが虚栄であるからである。賢人の言にあるように、「すべての来るものは空なり」。

およそ5000年以上前の事、ベルゼブル、アポルオン、レギオン(聖書に出てくる悪魔の名)とその仲間たちは巡礼の道の道筋に市を設けることを企てた。

その市というのはあらゆる種類の虚栄の売られるところであり、それはまた、一年中立っているということになっていた。それ故に、この市にはすべてのそういう品物が売られている。家だとか土地だとか地位だとか名誉だとか叙勲だとか位階だとか国だとか王国だとか色欲だとか歓楽だとか。又、あらゆる種類の快楽、例えば娼婦だとか女手引だとか妻だとか夫だとか子供だとか主人だとか奴婢だとか生命だとか血だとか肉体だとか霊魂だとか銀だとか金だとか真珠だとか宝石だとか。その他さまざまのものである。
 
又、その上、この市では、いついかなる時にも、手品や詐欺や勝負事や賭博(ばくち)や道化や物真似師や悪党や破落戸(ごろつき)など、それもあらゆる種類のものが見られる。
ここでは又、窃盗や殺人や姦通や偽誓など、それも流血淋漓たるものが、それも無料で見られる。

又、これほど重大でない他の市(いち)でもその特有の名のもとにさまざまの通や街があって、ここにはブリテン通があり、フランス通があり、イタリア通があり、スペイン通があり、ドイツ通があって、様々な種類の虚栄が売られている。しかし ローマとその品物がこの市では大変な呼び物になっている。わがイギリスの国民だけが2.3の他の国民と共にそれに対して嫌悪の情を持っている。

「天路歴程」ジョン・バニヤン著(1678) 竹友藻風訳 岩波文庫2007版(1951初出)
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だが、虚栄もここまで範囲が広がると浮世の生活それ自体が虚栄の市で、それを逃れるには出家するほかないということだろうか。

アングロサクソンの社会は宗教による規範意識が強く、ついこの間まで教会や牧師が強い影響力をもっていたように思える。しかしその一方では、タイトルからして教訓的で、作家は罰当たりな所業を作品のなかで度々非難しているが、作中人物の享楽とか犯罪にさえも読者は興味津々で、今日のTVのワイドショーを見るような感覚だったかもしれない。
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