美しい京都の旅

美しい京都を文学・歴史とともに旅をする

時代劇映画ロケの舞台

2017-02-07 20:46:08 | 京都
なが年、時代劇映画を見つづけてきて、「いったいこの場面の撮影(ロケーション)はどこで行われたのかな」と、激しい好奇心にかられる瞬間に、何度も出会った。画面に、堂々たる武家屋敷の門が現れたりすれば、「おや、セットでもないし、こんな建物がいま日本のどこに残ってるんだ」と首をかしげたくなる。一望千里の葦の河原で大殺陣が展開したりするシーンでは、「よくまあ、画面に広告塔やテレビアンテナも入らぬこんな場所を、当節みつけだしたものだな」と舌をまくのが、つねである。
金に追われた映画産業の現状からいっても、いま、「国定忠治」のロケーションに、わざわざ群馬県の桑ばたけまでは、出かけられるわけがない。九州天草の物語だろうと、安宅の関のドラマだろうと、実際の野外撮影は、ほとんどが、撮影所(大映、東映とも、スタジオは、広隆寺のそば、京都市右京区太秦にある)に近い京都とその郊外で済まされるのが、通例である。じじつ、京都を歩けば、時に、「ああ、この場所は時代劇映画で見たな」と思い出せる建物や風景に必ず出会うものだ。誰しもの経験だろう。
―しかし、いっぽうその京都で、いま時代劇のロケーションは、近くて便利な太秦近辺や、市内の名所地から追いたてられ、郊外へ、隣県へと、逆に不便な遠出を余儀なくされる、という矛盾にも迫られている。京都にも、現代の波、つまりモダン化が容赦なくおしよせて、いまや、「明治以前」の時代劇イメージは、よほど交通・観光の便に恵まれぬ山奥でなければ、純な形で保存されなくなったからである。
むろん今日、ロケは京都中心部の著名観光地でも、(少々、大型観光バスや修学旅行がはげしく出入りしすぎる、とはいうものの)不可能とはいえない。また、絶無でもない。だいたい、ひと口に時代劇のロケーション地といっても、そこには、撮影目的によって、二種類の区別があるだろう。一つは、「江戸城」とか「前田家上屋敷」といった、固有名詞的存在をあらわすためのロケーション。逆に一つは、固有名詞的なイメージをもたない、〝森〟とか〝河原〟とか〝街道〟のためのロケ地である。この場合、「鈴ヶ森」程度の場所なら、映像が各社マチマチであっても差支えあるまい。が、「加賀百万石上屋敷」の門などが、映画会社によって機構に変化を生じたりしては、これはまずいのである。京都市内の有名観光地が、意外にロケに役立つのは、もっぱらこういう場合、といってよい。
ファンなら誰でもが知るのは、まず京都御所の美しい塀の白壁の映画的イメージであろう。烏丸通りに近い側の、西南サイドが、撮影の絶好地。王朝物で、平安風俗に守られた牛車がゆるやかにきしみつつ進むシーン、などという撮影は、いつもここである。
同じ白壁の長い直線でも、二条城のそれになると、時代は下って、武家の登城などに使われる。この城の典雅な冷やかさを生かした武家時代劇は、それこそ枚挙にいとまがない。…が、二条城といえば、じつは今、この城を最も便利がっているのは、おなじみ〝忍び〟の時代劇である。深夜、黒装束の忍者が、高い守楼から石垣を伝って、細紐で堀へ一直線、などという撮影が、ここの専売だ。ちなみにいうと、脚本で、はっきり江戸城、岡崎城、などと指定されてしまった場面の撮影は、いま、彦根城、姫路城あたりまで遠出ロケしないと、それらしい映像がつかめないのである。
加賀百万石にかぎらない。往時、江戸の大通りに威容を張った大名屋敷の「門」は、やはり、はりぼてのセットでは、堂々たる質感があらわせない。勢い、現存する著名建造物から、それらしい門構えを、さがしださねばならぬ。その点、今もなお、まこと往年の武家大邸宅街らしき雰囲気をゆたかにたたえているのは、西本願寺の長い長い塀の、南側部分。つまり竜谷大学に面した横道である。電柱一本ない直線路の一方に、くろぐろと長屋門のいらかが連なる静寂の偉観。これが現代の都心か、と東京人には驚かれる街角だ。
嵯峨野の名刹、二尊院の門は、慶長17年、桃山城より移した遺構であるが、この白木の門も、撮影隊にはしごく重宝がられる。武家門としてだけではなく、「朱雀門」(大映)のような王朝ものから、「炎上」(大映)などの現代劇にまで活用された。ここの近く、大覚寺の門は、さすが皇室風な壮重さが豊かで、これもしばしば、大きな大名クラスの屋敷門に化けたりする。
これらより少し格下の大名屋敷用としては、御室・仁和寺の、山門を入ったすぐ左手、小柄ながらまとまりのいい玄関門がある。さらに武張った印象を出そうとするなら、〝重文〟で名をあげた青蓮院の、あの有名な樟のわきに立つ黒い門―あれが好個の目標として狙われる。清水から南へくだった泉涌寺。この皇室菩提寺の門も、大名屋敷用に絶好である。なお、柄は小さいが、洛北鷹ヶ峰にある光悦寺の門とナマコ塀も、そのいかにも自然とマッチした簡素さが、たとえば〝柳生家〟あたりのイメージにぴったり、と映画人からよろこばれている。
これが、旗本、御家人以下の武家門、さらには代官所、とくに〝新選組壬生屯所正門〟といったロケーションになると、各社競って重視する地点が、ひとつある。京都御所の南西角。いまは厚生省国立公園局・京都御苑管理事務所になっているその正門、裏門である。こんど、烏丸丸太町あたりを通られたら、立寄ってごらんなさい。北側の裏門のたたずまいなど、江戸の剣術道場を絵に描いたみたいな外観には、思わず「時代劇だなあ」とほほえんでしまわれよう。
ここから南へ下った三条の六角堂は、小さくキリッとひきしまったいい門を、お持ちだ。周囲はライトバンの行きかう現代問屋街にびっしり埋めつくされ、こんな場所ではカメラもろくに振りまわせまい、と思われる狭い空間である。が、名匠伊藤大輔はこの門を、鮮やかに「弁天小僧」に生かしていた。また、繁華な市街地では、紫野・大徳寺の西北にある今宮神社の横門あたりも、ちょっと奇跡みたいに、江戸時代の町なかムードが残された場所である。電柱もない石だたみの参道。両側には、古い名物あぶり餅の店が、往時の町家の構えそのままに軒を並べて、ジカ火で竹串の餅を焼きつづけている。その香ばしい煙の向うに、ひっそりと素肌のままの屋根門が建ち、それを見通して、境内の池にかかった小橋の欄干がのぞかれる。この感傷的な風情なんぞ、時代劇ロケが目をつけないとしたらむしろ不思議な景色である。大映の「眠狂四郎」にも、ここが現れた。最近はひたすらテレビ時代劇が、チャンバラに重用している。
寺の豪放な「山門」や「仏殿」は、もちろん時代劇の中にも、そのままの威容で生かされる。南禅寺、知恩院など、著名すぎる建物は却って時代劇ロケには不便ではあるまいか、と思うのはわれわれ素人の浅慮だ。たとえば〝上野寛永寺の渡り廊下〟などという場面も、実際に撮影されるのは、南禅寺の廻廊あたりである。寛永寺じたいには、前述した泉涌寺が化けてしまう。そして近年、各社時代劇が申しあわせたように好むのは、この泉涌寺の南西、東福寺の偉観である。広い境内、豪壮な建造物。そして意外に観光者の盲点となっている静かさ。私は、ロケがここに着目したのを至当と思う。東映の「大殺陣」、大映の「忍びの者…。以前は、亡き溝口健二も、「新平家物語」で、この寺を愛用した。武智鉄二が、「源氏物語」で紅葉の宴の背景に撮しとったのも、じつはコンクリート製の、ここ通天橋であった。
この東山すそを北へ上って、文化人の墓地と簡雅な庭の美しさで足をとめさせる鹿ヶ谷の法然院は、現代劇映画でも〝京都らしさ〟のロケ穴場として、随一の場所である。時代劇は、ことあの質素典雅な門の利用を、好む。京には珍しいワラブキ屋根をもった禅寺門が、いかにも、有徳の高僧、といった役柄を登場させるパックに、ふさわしいのである。
─京都市内、一条堀川戻橋近辺に、光悦の造園による本法寺という寺がある。この裏の、崩れ汚れた築地塀は、溝口健二がこよなく愛したロケ地であった。氏は、ほとんどの時代劇に、ここを使いたがったという。しかし、いまその塀は跡かたもなく取払われて、整地されてしまった。
塀といえば、いま武家時代劇が頗用するのは、山科勧修寺の正門よこにつづく、長い土塀であろう。新造の白塀ではあるが、それだけに汚れのない優美な清潔さは、道路の向側が松並木になってる心にくさと相まって、この道一本を、まるで、歌舞伎舞台の書割みたいなムードにみせている。ただし、眼をわずか中空へあげると、道のつき当りは、寺の軒先きをかすめるような名神高速道路の高架線である。車の列が時速100キロで飛びかっている有様が、目の前にふり仰げる。こんな真下で、大名はカゴから降りたち、剣戟が響きあうのである。
この勧修寺は、いま京都で、珍しく映画の撮影に好意的だといわれる。有名な庭・氷池園は、現存の庭園中、もっとも古い形式と雰囲気を遺す、とあって、王朝ものの撮影には、ここが欠かせない。吉村公二郎監督が、「源氏物語」で寝殿造りのロケセットを建てこんだのも、この池のほとりであった。
しかし、このような好意的な寺は、現在、むしろ例外といってよい。名園で知られる枳穀邸などは、昔ならともかく、今は、風致保全のたてまえから、撮影は全く不可能である。天竜寺、妙心寺も、ロケを喜ばない。天竜寺など、かつてはあの池や土塀が、立廻りの絶好の背景であったのだが…。
尤も、管理者が好意を持とうと持つまいと、いまの京都市内では、場所の景観じたいが、往往にして時代劇のロケを拒んでしまうのだ。たとえば下賀茂神社の境内、向って右側には、いまなお、昼も暗い糾ノ森の密林や細流が生き残っている。しかし、ここでも、大規模な殺陣を展開しようとすれば、もはや、カメラのパン(横振り撮影)は利かない。周囲の〝文明〟が、われがちに視角へ飛込んでくるからである。上賀茂神社正面、芝生の広場は、その昔、都びとが競べ馬をきそった場所だといわれている。じじつ、王朝もの映画(「袈裟と盛遠」「地獄門」等)では、この場所で何度となく平安の盛事が再現された。しかし、今はもうまわりがひらけすぎて、無理であろう。現在の上賀茂で時代劇のロケ地といえば、神社裏のずっと奥の杉並木あたりまで後退せざるをえなくなっている。
これが、つまり、京都というものの、運命なのである。時代劇は、目下、〝都落ち〟の時点なのだ。