『宇都宮教会のいろいろ』   ☆ブックマーク欄「宇都宮教会ホームページ」も併せてご覧ください。

インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
 TEL 028-621-8661 ※24時間対応しております

牧師・余白余録

2016年10月19日 06時41分29秒 | メッセージ
蔦田二雄 口述著書「聖潔の生涯」第二講
聖潔は期待し得るか  pp21-23
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37、39)


「きよめ」ということは、いろいろな角度から説明できる。これはクリスチャン生涯の全面に関する問題で、信仰ときよめ、祈祷ときよめ、聖書の理解とキヨメというように、信仰生活において「きよめ」と関わりのない問題はないのである。その中でも、これを「愛」という角度から大きく取り上げること、またこれを整理することは非常に大切である。「きよめ」とは、信仰者の愛が純化され、全うされることを意味する。この愛に全うされないと、如何なる賜物・恵みがあっても故障が起こる。もちろん賜物は、伴う場合もあるし伴わないこともあるが、ここでいう「愛の純化」「愛に全うされる」とは、まず対象物が単一化することである。人間というものは、それが正しいものであるか、潔いものであるかは別として、何かを愛さなければ生きていけない存在―何かを愛しているものである。そして、私たちは色々なものを、同じレベルにおいて愛することはできない。
 福音の世界において「きよめられる」ということは、この愛の対象物が単一化されること、すなわち神に全幅的な愛の集中がなされることである。クリスチャンは神のみを最高度に愛するものでなければならない。しかし、このことは、他のものを憎むということではない。他のものに対する評価よりも高く神を評価し、愛すること、そして神を愛から流れ出る愛をもって世界中の人々を愛する、主イエスを理解し、主を愛するときに初めて、真の救霊の情熱が湧いてくるのである。すなわち、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」神を愛するという第一の戒めを知る者には、第二の戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということは当然なことである。
 このような恵みを、決して特別な人の持つ特別な経験としてはならない。このような角度から見るならば、神を愛することこそクリスチャン経験の源泉であり幸福なのである。これを単なる理想とせず、このような生涯に生きる者とならなければならない。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 牧師・礼拝説教(要約) | トップ | 牧師・エッセイ  »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。