・読んだ著書の箇所:「塩狩峠」(藻岩山)
「…空が晴れていて、藻岩山の姿がくっきりと見えた。ぼつぼつ色づいて、山の頂上あたりが紫に見える。いつ見ても同じ姿の藻岩山を見て、信夫はふと寂しさを感じた。それはいま、自分の心がかすかに揺れたことに対する寂しさであったかもしれない。
(あの山は、この札幌の町が、鬱蒼たる原始林であったときから、あの形のままあそこにあったのだろう。)
やがて人が入り、木を伐りひらき、畑を耕し、そして整然とした町がひらけ。その町はまた大火にあい、洪水にもあった。そのいかなる時も、あの山はあそこにあって、じっと札幌の町を眺めおろしていたのかと、信夫は自然の非情さをあらためて感じた。
それは、太陽にしても月にしても、同じことがいえると思った。この地上にいく変わり人が生まれ、人が死に、戦いが起こり、飢饉があったとしても、太陽も月もその場にあってただ地球を眺めていただけなのだ。
(何と非情なものだろう)
その非情さが、いまの信夫には羨ましかった。白い長いネギが一本、浮きつ沈みつして流れてきた。その白さが信夫の目に沁みた。それは寝ているふじ子の白い顔を連想させた。
(おれはとうてい非情にはなれない)
苦笑して信夫はゆっくりと歩き出した。
信夫が北辰病院の関場博士を訪れてから、ひと月ほどたった。ふじ子は素直に信夫のすすめをよく守った。何回でもよく噛んで食べよと言われると、一口ごとに五、六十回は噛む、思いなしかふじ子の頬がふっくらしてきたような気がする。…」
「…空が晴れていて、藻岩山の姿がくっきりと見えた。ぼつぼつ色づいて、山の頂上あたりが紫に見える。いつ見ても同じ姿の藻岩山を見て、信夫はふと寂しさを感じた。それはいま、自分の心がかすかに揺れたことに対する寂しさであったかもしれない。
(あの山は、この札幌の町が、鬱蒼たる原始林であったときから、あの形のままあそこにあったのだろう。)
やがて人が入り、木を伐りひらき、畑を耕し、そして整然とした町がひらけ。その町はまた大火にあい、洪水にもあった。そのいかなる時も、あの山はあそこにあって、じっと札幌の町を眺めおろしていたのかと、信夫は自然の非情さをあらためて感じた。
それは、太陽にしても月にしても、同じことがいえると思った。この地上にいく変わり人が生まれ、人が死に、戦いが起こり、飢饉があったとしても、太陽も月もその場にあってただ地球を眺めていただけなのだ。
(何と非情なものだろう)
その非情さが、いまの信夫には羨ましかった。白い長いネギが一本、浮きつ沈みつして流れてきた。その白さが信夫の目に沁みた。それは寝ているふじ子の白い顔を連想させた。
(おれはとうてい非情にはなれない)
苦笑して信夫はゆっくりと歩き出した。
信夫が北辰病院の関場博士を訪れてから、ひと月ほどたった。ふじ子は素直に信夫のすすめをよく守った。何回でもよく噛んで食べよと言われると、一口ごとに五、六十回は噛む、思いなしかふじ子の頬がふっくらしてきたような気がする。…」