ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

指導物語

2017年01月02日 | 映画

指導物語 - Wikipedia
http://bit.ly/1GgqdM5

指導物語』(しどうものがたり)は、1941年(昭和16年)10月4日に公開された日本映画監督熊谷久虎、主演:丸山定夫藤田進原節子配給東宝映画。同年(第18回)キネマ旬報ベスト・テン第10位。 

省線の老機関士帝国陸軍鉄道連隊の若い機関特業兵との蒸気機関車の運転の指導を通じた心の交流、また機関特業兵らが機関士として人間として成長していく姿を描く。 

日中戦争支那事変)勃発から数年経つ戦時下当時の製作かつ太平洋戦争大東亜戦争)開戦直前の公開であり、間接的に戦意高揚を担っている側面も多分にあるものの、基本はタイトル通りあくまでも指導を通しての鉄道員と軍人との交流を描いた作品であり、劇中の描写やキネマ旬報の評価などから単なるプロパガンダ映画ではない。 

本作の第3の主人公として「出演」しているのが、C58形蒸気機関車である。これには鉄道省が全面協力しているため、描写や撮影は大変凝ったものであり、元国鉄職員の鉄道研究家・久保田博は自らの著作の中で「この作品以上に蒸気機関車を良く撮られた映画はない」と評価しているほか、「この映画の主人公は(瀬木や佐川ではなく)C58である」とも述べている。 

ロケーション撮影千葉県の各地で行われており、主な舞台は佐倉駅周辺である。映画冒頭で2台の機関車が併走するシーンは佐倉駅の先の総武本線成田線の分岐であり、機関区は横の本線上を電車が走っていることから千葉機関区で、佐川が指導を受けるために電車に乗るシーンがあることから所属部隊は津田沼鉄道第2連隊である。なお、ラストシーンで佐川ら将兵が出征する列車はその佐倉駅から発車しているが、次のシーンで瀬木らが発車直後の列車を見送るシーンでは線路架線が張られている。当時の電化区間は千葉駅までだったので矛盾するが、これは撮影上の都合や軍機機密保持(部隊の所在地を秘匿)のためと考えられる。 


満開佐倉文庫
http://bit.ly/1fAUFvq
 


 11月23日
  えりっぷさんからメールあり。
  最近古本を集めだしてしまいました。「指導物語」がらみです。昭和17年管書房刊の「映画の表現」沢村勉著を今日手に入れてよんでいます。
  中に「指導物語脚色記」がのっていたので。特に佐倉関係もありませんが。最初のシナリオは沢村さんの初年兵の日常を紹介したいとの思いがでてしまって、兵隊を描きすぎたとのこと。
  「書き終へて、製作者の森田信義氏から指導されるもののほうは書けているが、指導するもののほうが書き足りないといわれどきりとした。慌てて機関士の側にたちなおり、最初の30枚ばかりとそのほかも数箇所書き直した。兵隊の描写を少なくし、機関士の描写にとりかえたのである。」とありました。

  
 そうでしたか。映画を観るときには思い出しましょう。ありがとうございました。

  11月12日
  えりっぷさんからメールあり。
  映画「指導物語」その後です。撮影をした宮島義勇氏の著書『天皇とよばれた男』(2002年10月 愛育社)を県立からとりよせて読んでます。
  第一部戦前戦中篇 Ⅲ戦争とキャメラマンのp92から94まで指導物語のことが書いてあります。「『指導物語』は陸軍の鉄道部隊と国鉄の機関士の話で3月末にクランクインし北京に行ったのは4月中旬だった。
  (中略 )しかし北京にいた約一ヶ月の間僕たちは思想問題にはまったく触れなかった。京漢線の開封・石太線の大原のあたりまで鉄道隊の保線状況を見て回ったが作戦関係から1カットも撮影できずに帰国した。
  (中略 )国内での撮影を再開してからは千葉機関区が全面的に協力してくれて機関車の平行運転や二両連結などのダイヤを組み機関車が撮影機を付ける装備を作ってくれて僕は自由に撮影することができた。」
  佐倉出てきません。残念。。。

  
 北京にいったのは、どのような理由だったのでしょうかね。①『指導物語』の一部に北京郊外のロケをいれたかったのでしょうか。②それとも単なる息抜きだったのでしょうか。
  「指導物語」に北京を入れたかったのだが、作戦関係で入れられなかったとなると、話が面白くなっていくのですが・・・

 10月25日
  えりっぷさんからいただいたメール、3日分を掲載させていただきます。

  映画「指導物語」に関連した話です。指導物語の著者上田広氏は千葉県長生郡出身の人で七歳のとき千葉市に住んだということ。千葉市立図書館に色々所蔵があるようです。
  文学碑黄塵碑というのが一宮市に建てられたとあります。(「津軽海峡」昭和56年大正出版刊)上田さんは鉄道教習所機械科を卒業後国鉄職員となった方で戦争文学というより「鉄道を素材に数多い小説を書かれたユニークな存在」(同上)ということです。
  佐倉と直接関係なくてすみません。途中報告でした。

 いつも自分勝手な報告メールにおつきあいいただきありがとうございます。今日から祭りですね。天気よさそうでよかったです。私は残念ながら今日も明日も仕事でいけません。三日目も多分疲れきって休んでいると思います。
  最近運命ということばが時折うかんできます。映画指導物語の関係者を調べるなかでなんと学生時代に講義をうけた恩師の本にめぐりあいました。
  「演劇の青春」という本で阿木翁助という人がその人です。著書の中で丸山定夫さんのことにふれておられもし学生のころ阿木先生に丸山さんのことをお聞きしたら話してくださったのではと思ったりします。
  このホームページにめぐりあえたおかげで色々学ぶことの喜びを再認識しました。こちらこそありがとうございます。

  今日テレビの生中継で秋祭り鑑賞?です。狭い道にすごい人手ですね。
  続きです。「戦争と日本映画 講座日本映画4」岩波書店刊 の中で「戦争のなかのヒーロー」に藤田進さんのことばがありました。
 (廣澤榮さんとの対談で)「ぼくは自分の作品の中で何がいいかとよく聞かれますけど。ぼくは第一に「指導物語」を挙げるんですよ」。実際に現場にかかわった人のことばなのでちょっとうれしいですね。
  同じ本の中に、「真実を撮る」で宮島義勇さんが「指導物語」のことをほんのすこし語っておられますが、千葉で撮ったとしかいわれておらず残念ながら佐倉の名はありません。
  機関車の横にカメラがついてる写真とクレーンに宮島さんがのって機関車を撮っているらしい写真とがのっています。場所はわかりませんが。多分ご存知のことかともおもいましたがご報告でした。

  
 えりっぷさんの熱意に圧倒されます。ありがとうございました。

   10月23日
  Eさんからメールあり
 こんばんは。映画「指導物語」の件です。手元にビデオがないので私は検証できませんが、劇中の2両が並走するシーンで、中央の大きな屋根の家が写っていた様に記憶しています。
  あの家ではないかと思う家の画像を送信します。ついでに、分岐点の写真も添付します。2両が分かれていくシーンの角度が検証できるかと思います。

  
 初メール、ありがとうございます。
  少し前、sendagiさんと、ホームタウン佐倉さんが話していた「指導物語」の導入部分のロケ地はどこかという件ですね(「鉄ちゃんクラブ」参照)。その家が特定できれば、ロケが成田線であったのか、総武本線であったのかがわかりますね。
  写真を元に検証していきましょう。なお写真はプライバシーの問題があるので掲載しません。いずれ、、鉄ちゃんクラブの人たちにもお見せする機会がくるでしょう。

   9月24日
 ホームタウン佐倉さんから、メールあり。
  sendagi様がご指摘の映画「指導物語」の最初と終了近くのシーンに登場するC58217とC58218の並走のロケ地ですが、私も同様に感じていました。「レイルマガジン」 誌10月号を読んだ時に「先を争う東西成田線の分岐点に差しかかる(中略)成田はY字状に伸びる成田線の中心で、下に佐倉、左に我孫子、右に銚子を配しているが、東 西両線が並走する成田駅から北方500mあたりまで複線にも見える珍しい線形であつた」とあって、成田で並走ロケが行われたように記されていましたので、疑問を生じ たのです。
  そこで「指導物語」のビデオを改めて見直してみました。両機が並走する場面は画面に向かって左側は広い水田、右側は水田を挟んで丘陵が迫る地形です。また二つの 線路はかなり直線区間を走ってから、緩やかに分岐しますが、両方の列車はしばらくは相互に見ることができます。また列車がわかれて走って行く、分岐点の遠望では 手前の列車が、やや上り勾配を登っていることが判明します。これらは佐倉から南酒々井へ向かう地形に酷似しています。
  一方、成田では発車するとすぐに左へ急カーブし、直線区間はありません。さらに地形的にも線路際の片方は崖で落ち込んでおり、片側は高い土手になっています。 しかも撮影当時は成田鉄道多古線の線路が並行して敷設されていましたから、構内を外れれば三線になっていた筈です。さらに我孫子方面への線路は分岐するとすぐに 土手でさえぎられ見えなくなりますし、発車直後のカーブではあのようなスピードがだせる筈はありません。 実際にロケをみていたわけではありませんが、地形、線路状態から考えて、並走部分は佐倉駅から総武本線、成田線分岐点までの3.4キロの区間で撮影したと判断して差 し支えないと思います。
  また、成田での発車の際に「あの場所は2本の列車のスピードが(中略)つい競争になってしまう」との回顧談も掲載されて、同時発車の際に速さを競ったように書かれ ていますが、念のため「時間表」昭和15年10月号で調べてみると銚子行き、我孫子行きの同時刻発車はありません。最短でも4分の差があり、現在以上に定時発車がやか ましかった時代に並走の機会が沢山あったとも思えません。
  総武本線と成田線では、列車は両国ー佐倉間が併結運転で、下りは佐倉駅1番線(現2番線)に到着すると前方に連結の総武本線列車が後方の成田線列車を切り離して、 先に発車した後に、新らたに機関車を連結した成田線列車が、追いかける形で5分~10分後に発車しましたから、映画のように両線列車が競争するシーンは下り列車の場 合は絶対にありませんでした。ただし、上りの場合は佐倉到着が1~3分差でしたから、片方の列車が遅れれば並走しました。当時は総武本線列車が3番線(現4番線)に 着くと機関車は外され、成田線列車は一旦2番線(現3番線)に到着後に、転線して3番線に停車中の総武本線列車の前部に改めて連結し、一本の列車として両国へ向けて発 車しました。この方式は昭和24年頃に総武本線列車が上り側、成田線列車が下り側に連結とそれまでと逆になりましたが、昭和26年のダイヤ改正で、別々に運転されるま で続きました。その後準急や急行が運転されるようになると再び両線列車の併結運転が復活し、上りの場合は並走が見られるようになりました。昭和20年代の蒸気時代を 含め並走している様子は私も何度か実見しています。

  8月23日
 sendagiさんから、メールあり。
  こんばんは。sendagiです。6月のオフ会後としては、初のメールです。つまりパソコンが復活してからは初めてです。
  ここ数年、ほぼ毎号購入している雑誌、レールマガジンの最新号を買ったのですが、その中に、映画「指導物語」について触れている記事がありました。  蒸気機関車の乗務員のドキュメンタリーの連載とでもいうのでしょうか。連載「SL甲組」の肖像・・・というのがあって、連載といっても取り上げる路線とか機関区は、毎回別々なのですが、今回は、鉄道聯隊についてでした。
  かつて所属していたことがある人の苦労話や、当時の写真などで構成されています。
  ここで、鉄道聯隊が舞台となった映画「指導物語」について若干触れており、映画のシーンの写真や説明に2ページほど費やされているのですが、そこで、あのC58の牽く2本の列車が併走するシーンは、成田駅北方、つまり成田駅から銚子方面と我孫子方面にそれぞれ延びる線路が、駅からしばらく並行しているところで撮影されたような記述がありました。
  たしかに当時の佐倉と同じく、それぞれ単線でしばらく並行してはいますが、違いますね。私の記憶では、成田駅のすぐ西側は、成田ニュータウンができる前は谷のように窪んだ地形で、それが我孫子方面に向かう線路に沿って続いていて、映画で見た併走シーンとは、印象がだいぶ違う。もちろん、ニュータウンはともかく、撮影当時となると、私はまだ、私は影も形もなかったんですけどね。
  しかし、あっちこっちでいろいろなカットを撮っておいて、良かったものを使うとか、時間の都合で編集段階でボツにしたとか、そういうことも考えられるので、成田線のそこでもなんかしらロケはあったのかも知れません。
  まぁ、最後の併走シーンは佐倉としても、私自身、映画のはじめから終わりまで、じっくり通して観たことがないので。
  余計な話ですが、今は三線になった佐倉駅下り方では、タイミングが合えば、併走は見られますね。
  夕方にジョギングで高岡の踏切りあたりまで行くと、時間ははっきり覚えていませんが、成田線上りの成田エクスプレスと総武線上り各駅停車が、たまに併走しています。
  佐倉駅通過の成田エクスプレスのほうが速度が速いので、並んだと思う間もなくすぐに離れてしまいますけど。

 


 オールシネマ
http://bit.ly/2iUAAll

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図書カード:指導物語
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