僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

鎌倉幕府と鎌倉

2017-04-24 18:21:27 | 歴史
大学時代、友人Hと鎌倉の建長寺を訪れましたが、前日食べた鯵の開きがちょっと日がたっていて
二人は腹を下し、建長寺境内のトイレで唸っておりました。

それから30年後家族で鶴岡八幡宮に遊ぶ機会がありまして、
「おーこれが公暁の隠れた大イチョウか」
などと感心しておりましたら
その翌年3月強風で倒れてしまいました。樹齢1000年だったらしいですね。

それ以来鎌倉には行っていないのですが
冒頭に出てきたHはよく鎌倉の海岸に砂鉄を採取に行っていたそうです。

昔は刀と言えば、砂鉄から作っていたわけで
頼朝が鎌倉に幕府を作ったのは
たくさんの砂鉄がとれた土地だったからと言われています。

もう一つの理由は、鎌倉は三方を山に囲まれ、前は海で
鉄壁の要塞になっていたことが挙げられます。

この鎌倉に入るには、切通しという狭い道を通らなければならず
名越切通しは、幕府を開く前からあったそうで、全部で7つの切通しがありました。
武装した大群が簡単に通れないよう鋭角に道筋が切られていたり
軍馬が通れないよう、道の真ん中に置き石を据えたり工夫しました。困惑している敵に
崖の上から矢を射かけたり、石を落としたりして退散させたのです。

前面の海は由比ヶ浜という海岸で水深1m以下の遠浅になっていたため
船底が付き、船が前に進みませんでした。
そこで兵士は海に飛び込みますが、弓矢の格好の標的となるのです。

もう一つの理由として、鎌倉は平安時代、源頼義が源氏の氏神である京都の
石清水八幡宮を勧進して鶴岡八幡宮を造営しました。また、頼朝の父・義朝が
寿福寺あたりに住まいしており、いわば源氏の所縁(ゆかり)の土地だったのです。

そして最大の理由は朝廷のいる京の都がすこぶる汚かったからなのです。
鴨川は今のインドのガンジス河同様、
下水設備などなく、トイレや死体処理の場所を兼務していたのです。
当時京都の人口が20万人、そのうち疫病(天然痘・コレラ・赤痢・咳病)などで
4万2300人の死者が出ました。

それに対して鎌倉の山は豊かで山の幸、木材を与え、海は魚や貝を提供してくれました。
また浜に打ち寄せる波はすべての汚いものをきれいにしてくれたのです。

ようするに飲み水や食べ物が危険で命を脅かす京の町をとっても嫌ったのですね。
京というととても優雅で綺麗な町を想像するのですが、人口が増え続け
インフラが整っていなければ、本当に恐ろしい場所なのですね。

以上、なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたかという答えでした。

寒河江桜まつりと天童市イルチェーロ

2017-04-24 10:13:46 | ドライブ
日曜日はまあまあ良い天気でした。

寒河江と天童方面にドライブ

寒河江高校脇を通り八幡様へ


たけゆき君はとっても元気!




おみくじを引きにっこりする私 ここから移動


長岡山西のさくらの丘でチェリンに遭遇



桜も綺麗!


野点など楽しみ




郷土館 西村山郡役所でお勉強




昔の我が実家のような風情に満足


さくら咲く







ここから本屋、ブックオフを経て、天童市のトラットリア イルチェーロに


3000円のコース料理を頂きました。


乾杯!


前菜 章魚のカルパッチョバジル風、トマトのキッシュ、ローストビーフ



ホタテとブリとメバチ鮪のカルパッチョ


トマトソースパスタ アラビアータ(ズッキーニとトマトなど野菜がたっぷり)

唐辛子入りのオリーブオイルと粉チーズをかけて・・・絶品でした!



メインのポークソテー

ソースがとても美味しい!

デザート 


クリームブリュレと言って笑われる私
正解はクレームブリュレ

紅秀峰が添えられていました。

こじんまりとした優しい雰囲気でお店の方も素敵でした。

天童市久野本4-15-27
イルチェーロ
TEL 023-674-0167