自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

「自然と共同体を大切にし、質素に暮らすアーミッシュの人々」と「放牧による里山管理」を考える

2016-08-24 11:52:52 | 自然と人為

 物質的に世界で最も豊かな国アメリカに、中世の貴族の屋敷のような立派な家で、質素を最善として個性が目立たないようにし、生きる意味を教える宗教と家族や生きる仲間である集団(コミュニティ)を大切に守りながら、宗教の異なる地域住民も尊重して壁をつくらず、自分たちの信じる宗教の布教もしないで、自然を大切にして自動車や電気等の便利な文明を拒否して、自給自足の生活をしているアーミッシュ(2)の人々がいる。エネルギー浪費で地球温暖化をもたらし、豊かな資源に恵まれているにもかかわらず、農業とコミュニティが崩壊している日本の将来を考える上で、物質より心を大切にする彼らは生きていくことで何が大切かを教えてくれる貴重な存在だと思う。
 参考: 私の訪問した”農の哲学者”アーミッシュの村
      (地域的に閉鎖な集落ではないので「アーミッシュの社会」と表現すべきだが、
       5戸の農家が農作業を共同でしていることから「アーミッシュの村」と表現した。)
      電気も車も持たない宗教「アーミッシュ」が注目を集める理由
      アーミッシュ 近代文明を捨て、アメリカで今も移民当時の生活様式を貫く人々


 物質的豊かさと自由に満たされている我々にとって、お金さえあれば何かを求めれば何かが束縛されると実感することは少ないであろう。アーミッシュの社会では質素な生活を求めることから、我々が求める個性のある服装は嫌われ、写真に撮られることを目立つ行為として良しとしない。個性を大切にし、自由を求める我々の生活からは窮屈に思うことも多かろうが、彼らは個人よりも共同体の幸福を第一に考えているので、そのことを束縛とは考えていない。
 彼らの原点は産業革命前のヨーロッパで宗教的迫害からイギリスの植民地であったアメリカに移民 (2)したが、その後の高度成長するアメリカ経済を見て、物質的に豊かな便利な生活よりも「自然と共存し、家族と共同体を大切にし、質素に暮らす精神的に豊かな生活」を優先したことにある。
 参考: アーミッシュの文化  人命と尊厳  本当って何だろう (とみ新蔵 ブログ)
      アーミッシュの暮らし
      近代文明を捨てて、アメリカで生活する人々「アーミッシュ」を知ってる?


 「自然と共存し、家族とコミュニティ(共同体)を大切にし、幸福に暮らす」ことは人類の共通の目的のはずだが、競争原理を人類の進歩の源と考える現代社会はこれを見失っている。このブログ「自然とデザイン」では、人類の共通の目的に向かって現代社会はどう歩むべきかを宿題としているが、アーミッシュ社会を概観することから、日本社会における「放牧による里山管理」の意義についてもう少し考えて見たい。

 アーミッシュ社会は全てが一つのインデオの社会(動画)と同様に、基本的に競争原理はなく、分かち合いの社会だ。アマゾンに住むメイナク族は自然と一体で暮らしているので『自然』と言う言葉はない。皆が一緒で元気であれば良いので『幸福』と言う言葉もない。一方、『個人』という考えは都市と職業が生まれ分業が始まった12世紀に、キリスト教会における告白から生まれたとされる。キリスト教における世界は自然とは無縁で、人々は教会で告白しながら個人に目覚めて神の住む天国に行く道を模索した。当時は、「学問をすべて修めた後に職人の道で完璧を求めて励んでいるのが本当の学者だ」とフーゴー (2)は言っている。
 個人を生んだ西欧は合理主義の道で個人の幸福を求めたが、アーミッシュの人達は宗教的迫害が原因なのか自然を愛して自給自足の生活をし、個人よりも家族や共同体の幸福を求めた。
 参考: 書評:「教養」とは何か、阿部謹也、講談社現代新書、1997
      講演「日本社会の二元的構造」阿部 謹也


 アーミッシュの人々が大切に守ろうとしている「自然」と「家族や共同体(コミュニティ)」と「質素な宗教的暮らし」と文明の与える「便利な生活」との関係はどうあるべきかは、文明の進化と共に宗教的なコミュニティ単位で常に検討されて微調整されて来たので、コミュニティにより生活に文明を取り入れるルールに若干の違いがあるようだ。宗教的な共同体ではあるが、権威によって人間の尊厳を守ることはしないし、組織は権威を持つので、彼らは教会を持たない。日曜日の礼拝は、コミュニティ毎に各家庭の広い部屋(納屋を含む)で行うことが、彼らが共同で大きな家を建てる理由の一つかも知れない。

 人間らしく生きていくには中学校程度までの教育は大切だが、競争を生む高等教育は必要ないとして公的学校にも行かせない。アーミッシュ社会で若い未婚の娘さんを教師とする学校を経営して、8年間の教育をしている。彼らはアナバプティスト(再洗礼派)でアーミッシュの学校を卒業したら文明社会の生活を経験したのちに、大人になる前に洗礼を受けるかどうか、アーミッシュとしてコミュニテイに残るかどうかの選択を迫られる。競争を拒否しているので高等教育を必要とする文明社会では生きづらいということもあろうが、アーミッシュの生活が居心地が良いのだろう。洗礼を受けて村に残る若者が多い。彼らは避妊をしないので兄弟姉妹は多いし、自給自足の生活で質素にコミュニティと協力して暮らしていけるので、ヨーロッパでは消滅したアーミッシュの人口は北米では増えている。彼らの宗教的生活は、現代の経済社会に飲み込まれることはなく自立し続けている。

 アーミッシュのアメリカへの本格的移民が始まった18世紀は、イギリスの産業革命~資本主義体制の確立~アメリカの独立フランス革命,(フランス人権宣言)と大きな時代の転換期であった。
 フランス革命に大きな精神的影響を与えたとされるジャン=ジャック・ルソーは、人間の自然状態は「自由・平等」だったが、分業と競争で生きる社会状態に移行したことで、お互いの能力が比較され、その結果、「支配と服従」といった「不自由かつ不平等」の誤った歴史が誕生したと『社会契約論』で主張した。そのルソーの教育論または人間論として有名な『エミール』でも自然の大切さを強調している。
 100分de名著 ルソー『エミール』(解説)
  第1回 自然は教育の原点である(録画)
  第2回 「好奇心」と「有用性」が人を育てる(録画)
  第3回 「あわれみ」を育て社会の基盤に!(録画)
  第4回 理想社会のプログラム(録画)

 アーミッシュは300年前の自然と家族とコミュニティを大切にした自給自足の生活を続けている。そのために彼らは公的教育を拒否しているが、彼らは宗教的な絶対平和主義者でもあり、アメリカでは宗教的意味での良心的兵役拒否が認められている。日本では幸いなことに徴兵制がないので兵役を拒否する必要はないが、小学校の義務教育はもっと自然を教育の原点とし、「放牧による里山管理」を農家に任せるのではなく行政的に教育にも取り上げることから、地方再生を始めるべきではないか。もともと持っていた日本の文化を大切にしたい。

 アメリカは論理が日常生活で尊ばれ、快適に過ごせる人工的環境を論理で作り出し、自己主張の為に論理を使うことを恥としない。「論理」は他者との対話に必要であるが、他者を尊重するか否かによって、論理の組み立て方は異なってくる。論理は何々ならば何々であるという仮説のもとに組み立てられる(「論理的推論」)。アーミッシュは他者の存在によって自分も存在すると考えているので、他者を尊重することから論理は組み立てられる。科学では仮説は実験や観察等により実証されて真理として受け入れられるが、日常生活の仮説は一般には本人が意識してもしなくても、競争社会では他者のためではなく権力や自己弁護のためにつくられるのが普通だ。

 藤原正彦 『国家の品格』 | 新潮社は、合理主義や人間中心主義は人間を幸福にしないと考えている。
 「ここ四世紀、五世紀の世界は、合理主義とか人間中心主義とかいう、究極的には人間を幸福にしない考え方に支配されてきた。そういう病に対する答えというものを、日本は豊富に持っていると思うんです。本当は「日本の逆襲」と言いたい。日露戦争に次ぐ、今度は精神面での欧米への逆襲である、と。」
 同上:読書感想文(2013年1月31日 竹内みちまろには、次のように解説されている。
 「イギリスから帰国後、著者の中で論理の地位が低下し、『情緒』や『形』というものの地位が向上します。『情緒』とは、喜怒哀楽のような感情ではなく、『懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの』で、『形』とは、『主に、武士道精神からくる行動基準』といいます。アメリカ化が浸透した日本人は、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも、下品とも思わなくなりました。
 進行中のグローバル化とは、世界を野卑な論理で均一化することであり、日本は『情緒』と『形』を取り戻し、グローバル化に抵抗し、世界の中で『孤高の日本』を貫かねばならないと主張します。」

 中学校までの教育は論理ではなく藤原正彦氏の指摘する『情緒』と『形』を重視すれば、アーミッシュの教育に近づくのではなかろうか。そして子供達だけで自然の中で遊ぶ世界を取り戻す必要がある。また、スポーツにおける競争原理は、自己を肉体的に鍛え精神的に自己に克つことであるように、『形』も論理ではなく身体で覚えるものだ。しかも現代の武士道は国民に仕えるものであり、政治家を含む公務員は凛として国民に仕えなければならない。アーミッシュにはキリスト教を主体にした頑固な文化があり、日本には仏教を主体にした曖昧な文化がある。日本の文化を大切にすることで日本なりの幸福を見つけることが出来よう。
 いずれにしても日本のコミュニティの崩壊を防ぐためには、お金と経済を重視した「地方創生」ではなく、『情緒』と『形』を重視した地方再生こそが重要であり、そのための「放牧による里山管理」を行政も考えて欲しい。そのことを柱に取り組めば畜産としてのシステム化も容易に進み、地方に活気を取り戻すことにつながろう。

初稿 2016.8.24 更新 2016.8.28

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