自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

我々は一人では生きていけない~大切にしたい自他同一の感性

2014-11-30 11:55:16 | 自然と人為

 もう20数年前になるが、「サンタクロースは煙突からやってくる」と息子に「プレゼントの話」をしたが、それを小学校で話題にすると、「そんなことを信じているのか馬鹿!」といじめられたそうだ。私の幼少の頃(60数年前)には、「お天道さんに見られている」と育てられたが、それは今も心のどこかに住み付いている。また、冬には同じセーターを毎日着るので、「肘当て」が母親の愛情の勲章のようにも思っていたが、今では「破ったジーンズ」がファッションなんだそうだ。

 戦後の貧しい時代には素朴な神様、仏様を信じ質素倹約を美徳として育ったが、経済成長のために消費は美徳と華やかに宣伝されるようになり、「お天道さん」や人や「モノ」を含めて他者を大切にする素朴な心が失われていくような気がする。

 日本人は閉鎖的な小さなムラ社会で育ってきたので、個人よりもムラ(組織)を尊重することがもう一つの美徳とされてきた。ムラを治め病気を治すために、政治に携わり医者になって資産を使い果たして井戸と塀だけ残ったと言う「井戸塀物語」を聞いた記憶もある。資産を増やすことは成金と軽蔑され、資産をムラのために使うことが尊敬された時代は、日本にも確かにあった。物質的に貧しく顔の見える小さな世界ほど、人間が大切にされる豊かな社会になるのであろう。

 すべてが一つの世界をアマゾン先住民のメイナク族は教えてくれた。生まれてから母親と一体で育ち、親戚のように親しいの人々が、自然の中で遊ぶ子供たちの世界を遠くで見守りながら育てる。こうして、自然と人、人と人の間に自他同一の感性が育つインディオの社会は我々の失った大切なものを教えてくれる。そして、60年ほど前までは、子供だけの世界は日本にも確かにあった。

 現代のアメリカにおいても、近代文明の弊害から逃れるために電気と自動車を拒絶した 「アーミッシュ」という賢人たちが農耕生活の共同体を守っている。電線や電話線が自宅に入り込み、自動車で遠くに行くことが我々の生活の基盤になっているが、彼らにとっては写真を含めて近代文明こそが、顔の見える自分たちの小さな世界を破壊すると信じているのであろう。彼らが信仰に「生きる意味」を見出しているのは事実としても、教会という施設を持たないので私には宗教の一派というよりも、「モノ」や組織が人を支配することを何よりも嫌った「賢者の共同体」のように思われる。

  近代化への抵抗と選択:アーミッシュの世界

 日本では残念ながら共同体の安心を守るために異質なものを排除する「村八分」という負の遺産がある。12世紀から戦前まで続いた日本の永い軍人支配が、個人よりは集団、人と人との信頼よりは「異質」を排除する力と安心を求めさせた原因であろうか。「見ざる、言わざる、聞かざる」は支配者による強制もあるかもしれないが、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と自嘲的に揶揄されるように、空気に従う日本人に染み付いた体質かもしれない。

 「この印籠が見えぬか!」と権威で悪人を懲らしめる黄門様には人気があるが、格差を拡大するトリクルダウンのアベノミクスに異議申し立てする者の影は薄い。高倉健の生きる姿勢が素晴らしかったとしても、経済学に人間の愛を求めた「宇沢弘文先生」の死を悼む特別番組が深夜の再放送だけなのは寂しい。

 また、狭い了見にこだわり、安心は求めるが人と人との信頼関係は貧しい日本の大人社会が、子供のいじめ社会を育てているとも思う。小学校の重点教育は、「英語なんかの知的教育」を急ぐことではなく、「いじめの排除」と「子供たちだけの遊び」で「自他同一の感性」を育てることではなかろうか。そして、国が教えねばならないのは「道徳」ではなくて国存立のための約束事「憲法」である。政治家や公務員が憲法違反をすると免職等厳罰に処しなければ国は腐敗し、信頼は崩壊する。「憲法」を守ることこそ国民の最高の「道徳」である。そして、

狭い世間からより広い世界を知ることで、他者を信頼し尊重できるようになることが人間や人類の成長というものではなかろうか。

 ケンブリッジ白熱教室で、トルストイの「アンナ・カレーニナ」の冒頭にある「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」という言葉について「幸福」は抽象、理論(理想、観念論)、「不幸」は現実と解説しているのは面白い。しかし、アマゾンのメイナク族にはそもそも「幸福」という言葉がない。彼らに「個人」という概念がないというよりは、他者を大切にする感性が育っているからではなかろうか。

 デカルトの「我思う、故に我あり」から育つ理性は「我あり、故に君あり」と自己中心的で嫌いだ。また、人間よりモノを大切にする科学を育てたのも嫌いだし、人間よりお金を大切にする経済学を育てたのも嫌いだ。さらに、自己を守るたに人を殺す武器を作るのは大嫌いだし、嘘をつく言葉が生まれる左脳も嫌いだ。

我々は一人では生きていけない。イメージから言葉が生まれる。自他同一の感性が先にあり、そこから育つ「君あり、故に我あり」の理性を皆でこよなく愛したいものだ。

更新 2017.2.16

 


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