平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

出雲王朝19-出雲国造と朝廷

2017年07月11日 | 記紀創世紀

 出雲神話とは何か?日本書紀ではオオクニヌシ、建速須佐之男命による出雲の繁栄を記し、古事記では、建速須佐之男命と櫛なだ姫の間にできた神・ヤシマジヌミから17代もの系譜を古事記は語るのである。しかしながら出雲国風土記では、語ってはいけない歴史をほのめかしている。つまり世間一般には語ることはできないが、自らの子孫には語り継がれてきた歴史があり、それが出雲最大の謎なのである。謎めいた祭事や隠し事が多く、それらの秘密の中に出雲大社の意味が隠されているのかもしれない。

 出雲国風土記には記紀神話にはない独自の神話が描かれている。出雲の風土に根差した真実の神話である可能性は高い。つまり民衆が語り継いできた神話こそが真実に近い。神話が書かれた目的は、天皇家の日本支配の正当性を明らかにして後世に訴えるためであるというのが通説である。しかし考古学の進歩により大和の王家の独裁的な権力が与えられていなかったことや、権力は貴族層に集中していたことから、天皇家の権力に疑問がでてきた。つまり王家の正当性を理路整然と並べればよいものを、日本書紀は神話はいくつもあって、どれが本当なのかわからないとしている。つまりとぼけることによって真実を闇に葬ったとも読み取れる。

 出雲国風土記が書かれた頃、この編纂にかかわった国造家が奇妙な動きをしている。つまり朝廷と出雲国造家は強い政治的な思惑で繋がっていたと思える。出雲の国造家は元々意宇郡(出雲の東方)に根を張った一族で、祖は淤宇宿禰。意宇川の上流には国造家の祀る熊野大社が祀られ、出雲大社建立のまえから重要視されていた。出雲国造家系譜には第26代国造家の出雲臣果安の時代(日本書紀編纂の前後)、意宇郡の大庭から杵築(出雲の西方)に移ったとある。そして果安の次第27代国造・広嶋こそ出雲国風土記の監修者だった。つまり出雲大社の祭祀の役割を担わされたのは中央政府の要請であった可能性がある。この理不尽な移動の因縁があって、巨大な出雲大社が存在する。記紀は出雲神が祟る恐ろしい神であったと証言している。祟りは、祟られる側にやましいことがあるからで、大和は出雲にひどい仕打ちをしたことがあるのである。ならば何故地元の人は真相を述べないのだろう。出雲の人は語ってはいけない歴史を共有していたのか。

出雲の一宮・熊野大社

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