平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

幕末175 1868年 江戸城総攻撃の日

2017年02月12日 | 幕末

 天皇が外国公使と面会する少し前の2月15日、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命され、官軍の本陣として江戸へ向かった。熾仁親王は静寛院宮の元婚約者で、公武合体がなければ和宮と夫婦となっていたし、有栖川の血を引く慶喜を朝敵にするわけにはいかないとの考えがあった。しかも親王は慶喜の妹・貞子と婚約している。一方12日に慶喜は江戸城を出て寛永寺に入っていたから、勝海舟が幕政のすべてを任されていた。勝が考えていたのは江戸城無血開城、したがって抗戦派を江戸城から追い出すために、地方に出撃して官軍を食い止めるよう指示した。元新選組局長・近藤勇に話をもちかけると、新たに甲陽鎮撫隊300名を結成して甲州街道に向かった。相対する土佐藩板垣退助率いる官軍は3000名、かくして甲陽鎮撫隊はあっけなく江戸へ退却した。新選組はこのときに事実上崩壊した。

 五か条のご誓文が発布された翌日が、江戸城総攻撃の予定日だったから、勝海舟の抗戦派追い出しは、3月14日がリミットである。この日、旧幕府陸軍総裁勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛は詰めの協議を行っている。本軍はこの日に合わせて3月5日に駿府に入り態勢を整えている。西郷と大久保は徳川家討伐派であるから、勝は説得に考えあぐねていただろう。このとき勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟慶喜の意を受けて現れた。勝は早速開城の交渉役として、山岡鉄舟と、益満休之助という西郷とは同じく薩摩藩士を西郷がいる駿府の官軍本陣へ送り込んだ。二人は清河八郎が作った虎尾の会を通じて旧知の友であった。山岡らが駿府へたどり着き、嘆願書を渡した日に、西郷は即決で講和条件を提示した。

 1868年4月に江戸城無血開城はなったが会津藩への扱いに抗議した東北諸藩が強調して新政府軍との対決姿勢を強めつつあった。奥羽鎮撫総督府の下参謀・世良修蔵に嘆願書を提出するも、却下されたこともあって世良は暗殺された。これにより戦いもやむなしと、開戦前提で奥羽列藩軍事同盟が締結され、東北戦争が始まる。このとき新政府側に現れたのが佐賀藩の新兵器・アームストロング砲であり、軍事の天才・大村益次郎である。5月にはいると最後の抵抗勢力・彰義隊が上野に籠り西郷と対峙していた。そこへ大村益次郎が、射程距離の長いアームストロング砲を以って、わずか半日で落としたのである。かくして7月には江戸を東京とする詔が発布された。ただ、この時点では明治天皇の即位はまだである。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 幕末174 1868年 五か条のご... | トップ | 幕末176 1868年 首都東京 »
最近の画像もっと見る

幕末」カテゴリの最新記事