平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

出雲王朝26-出雲を神格化した小泉八雲

2017年07月17日 | 記紀創世紀

 考古学の発達によって、今まで出雲と密接な関係を持っていたのは、大和、吉備、素鵞、東海、北陸そして北九州へと広がった。出雲を代表する豪族・物部氏が吉備出身であり、あまりの権力を持ったために神話に組み込まれることによって、実質上藤原氏に抹殺された。神国出雲という言葉を最初に使用したのは文豪・ラフカディオ・ヘルンすなわち小泉八雲である。神話の国を美化する形で世界に紹介したが、出雲国風土記にある出雲人による出雲的神話がかけているという。出雲はそもそも大和国家成立以前に全日本規模で成立していたが、大和国家の発展に伴って、反対の否定的な出雲が没落していく。つまり出雲族は大和という天孫族に退けられたのである。出雲族と天孫族との区別は6世紀初めの朝廷で作られたものである。王族の系譜をひく豪族は天孫族である。蘇我氏などの中央有力豪族や中臣氏、大伴氏などは高天原で活躍した神々の子孫とされた。しかし大和にも国つ神系の豪族がいて大三輪氏や倭氏などがそれにあたる。 それなら何故天孫族でない者がすべて出雲に結びつけられて出雲族とされたのだろうか。

神国として出雲を紹介した小泉八雲

 出雲には昔から剣の神を祀る習慣があった。銅剣は大国主の原型になった出雲の農耕神の御神体であった。これに対して大和朝廷は銅鏡を核とする祭祀を行っていた。それゆえ日本神話には天照が皇室の祖先の邇邇芸命にそれを授ける部分がある。大和朝廷は自分たちに従った地方の首長にも銅鏡を祀らせた。出雲では銅剣が荒神谷遺跡から出土されたが、その本数358は当時の出雲の神社の数とほぼ一致する。しかし出雲が大和の支配下に組み込まれると銅剣の祭祀はすたれた。この時期が4世紀半ばと考えられる。3世紀の出雲では古墳とは異質な四隅突出型墳丘墓が作られたが、370年頃になると出雲全域に前方後円墳が広まった。これは朝廷の出雲制服を意味している。日本書紀にも出雲平定に関する記事はある。崇神天皇が出雲の大豪族が持つ神宝を見たいといい、物部氏の同族の武諸隅という者が出雲振根のもとに行った。不在の振根にかわって弟の飯入根が神宝を差し出したことに怒った振根は弟を討ったという。この時崇神は飯入根の近親者の求めに応じて、吉備津彦と武渟川別を出雲に送り振根を討った。

 実は出雲の荒神谷遺跡周辺を治めていたのは神門氏で、出雲国風土記にでてくる神門古禰とは振根のことだという。武渟川別は阿倍氏の祖先、吉備津彦は吉備氏の祖先であり、いずれも4世紀の朝廷の軍事行動の核となって活躍した士族である。天孫族という概念がうまれた6世紀よりまえに、いくつかの地方豪族は中央の有力者と同族だと唱えるようになっていた。

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