平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

出雲王朝23-物部氏と出雲と吉備

2017年07月14日 | 記紀創世紀

 物部氏が出雲出身である説がある。その理由は大和建国の前に物部と出雲が大和にやってきていたからという。大物主が三輪山に住みたいというので大国主命が宮殿を造ったことは知られている。一方物部であるが、祖のニギハヤヒが神武東征よりも以前に天磐船に乗って大和に舞い降りたと日本書紀はいう。次に神武天皇は出雲神の娘を正妃に娶ったとある。また第二代綏靖天皇も出雲神・磯城縣主の娘を娶った。日本書紀では磯城縣主の正体を明らかにしていないのは出雲と物部のつながりを抹殺するためと読み取れる。物部の物は大物主の物と同じく神や鬼を示し、天皇家の祭祀のなかに物部のやり方を取り入れている。このようなことから物部氏の祖が出雲出身であった可能性は高い。では出雲のどこだったのか。弥生時代の後期に、三輪山山麓の纏向に突如政治と宗教の都市が現れた。吉備に生まれつつあった前方後円墳の塑像が大和に移され、東海・北陸・出雲の文化が大和に集まり始めた。出雲は大和を造成した神とたたえられながらもその詳細は不明なのである。奈良天理の石上神社は物部系であるが、祭神は布都御魂大神。これは記紀では霊剣として登場し、タケミカヅチが葦原中国を平定するときに使われた。

 

七枝刀(ななつさやのたち)は物部が奉斎する石上神社に祀られている

 また神武天皇は東征のときに熊野で手に入れ、その後神武は霊験を宇麻志麻治命にさずけ、天皇家には物部氏からニギハヤヒの十種の神宝が献上された。そして物部はこの霊剣を石上神宮に祀った。一方岡山赤磐市石上というところに石上布都魂神社があり、本来はここに霊剣を祀っていた。日本書紀にある、霊剣は吉備にあり・・・という吉備とはここのことである。このように吉備と出雲に物部がからんでいることが伺える。

 考古学では吉備が大和建国の最大の功労者であると指摘し始めている。吉備が大和に進出し、吉備の影響を受けた布留式土器が生まれ纏向の人口が増え飛躍的に発展した時期が邪馬台国の台与の活躍時期と一致することから、邪馬台国東征は吉備の仕掛けによるものだという推測される。すなわち考古学的には大和建国の主導権を持っていたのは吉備ということになる。吉備には大和大神と同等の巨大な前方後円墳を造営しているにもかかわらず、歴史にも神話にも吉備が取り上げられなかったことが奇妙なのである。いったい吉備はどこに行ってしまったのだろう。

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