平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

幕末150 1863年 久坂玄瑞の攘夷実行

2017年01月02日 | 幕末

 天皇は開国に反対である。一方幕府は天皇の御心に反して開国を進めようとしている。これは不忠行為であることから、久坂は策を練った。京へやってきた将軍・家茂に攘夷を確約させ、できない素振りを見せたらそれを大義名分にして倒幕の旗揚げをしようというものである。計画の第一段階である家茂を京におびき寄せることは成功した。250年ぶりのことであり、将軍という鳥は朝廷という鳥かごにはいったということだ。朝廷は関白以下長州派で仕切られている。次の行動は天皇に攘夷祈願のために神社参拝を行ってもらい、それに将軍をお供させることだ。3月11日賀茂川神社への行幸が実現し家茂は供奉を命じられた。更に天皇の石清水行幸が行われたのが4月11日。この頃、清河八郎は暗殺され、アンチ攘夷派の高杉晋作は長州藩と距離を置き、萩にいた。

 日本の将来のために何が正しい行動なのか・・・今だからわかることであるが、孝明天皇を説得して開国派に転向させることである。これを本気で実行しようとしていたのは勝海舟。海舟には軍艦があり坂本龍馬以下の開国派がいる。そこで側近の公家説得から始める。標的は姉小路公知、攘夷派公家筆頭の三条実美とは幼馴染で優秀な人物である。かくして西洋式軍艦・順動丸乗船の誘いをかけたのは4月25日。ところが5月20日に姉小路公知が暗殺されたのである。暗殺犯は薩摩藩の田中新兵衛というのが定説であるが、指図したのはもちろん久坂玄瑞であろう。この暗殺事件は勝海舟にとっては痛恨の出来事であった。この操練場は1年後には閉鎖され、海舟は無念に思ったことだろう。この思いは石板に刻まれ、神戸市の諏訪山公園にある。

 当時勝海舟の身を案じて坂本龍馬はガードとして岡田以蔵をつけている。以蔵は本来武市半平太の腹心であり、海舟のような開国派を殺すために連れてこられた人斬りである。これが日本の将来を大きく変えることとなる。勝海舟が夜の京都を歩いていたときに3人の壮士が彼らを襲った。岡田以蔵は刀を引き抜くと、その一人を真っ二つに斬ったという。残る2人は以蔵の勢いに辟易して逃げ去った。まさに危機一髪であった。姉小路公知は殺され、後に勝海舟の義理の弟である佐久間象山も暗殺されたことを考えると、海舟と龍馬の出会いは日本の幸運と言っていいだろう。

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