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幕末38 1843年田中光顕生誕

2013年03月03日 | 幕末

 1843年11月、土佐勤王党の田中光顕は生まれた。土佐勤王党のメンバーはほとんどが志半ばにして30歳前後で死んだ。そうした中で唯一生き残って天寿を全うしたのが田中光顕なのである。従って土佐勤王党の歴史等々を後世に語り継ぐ役割を担ったという功績は大きい。

土佐勤王党は武市瑞山が結成した過激尊王攘夷派で、約200名が血盟をもって参加した。1861年の結成以来約3年間の活動後、土佐藩主・山内容堂の命により切腹したことから党は壊滅した。延命を果たした田中光顕は明治政府の官僚となって従一位まで登り詰めた。まさに生き残ることに執念を燃やした男といってよい。田中光顕1843-1939は、若くして土佐勤王党に入った土佐藩家老深尾氏の家臣で、孫には動物カメラマンの田中光常がいる。土佐藩の浜田金治の長男として生まれ、武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾とともに吉田東洋暗殺の実行に関与した。しかし1863年八月十八日の政変を契機として土佐勤王党が弾圧されると謹慎処分となり、1864年に脱藩している。後に高杉晋作の弟子となって長州藩を頼り、薩長同盟の時には薩摩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行するなど同盟成立に貢献した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦い、後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加している。1867年、中岡慎太郎が坂本龍馬と共に暗殺されたとき、現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞き、「新選組か伊東甲子太郎の仕業である」と考えていたという。中岡の死後は副隊長として陸援隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。維新後は新政府に出仕し、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。日露戦争時に皇后が坂本龍馬の夢を見た際に下問を賜り、龍馬の写真を皇后へ見せたことから坂本龍馬が一気に時の人となった。1909年収賄疑惑で非難を浴びて政界を引退し、高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設、武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また収集された志士たちの遺墨、遺品は彼が建設に携わった各地の博物館に寄贈された。晩年は静岡・神奈川の別荘に隠棲し、97歳で没している。 

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