平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

出雲王朝20-出雲と東国 

2017年07月11日 | 記紀創世紀

 旧暦10月になると日本中の神が出雲にあつまってくるという。出雲に迎え入れられるのは10月10日で、稲佐の浜に海蛇に導かれてやってくる。翌日から17日迄は神様は大社本殿の東西に建てられた細長い社殿の19社に宿をとり、神議りという会議を行う。そのあと神々は島根半島にある佐太神社などを巡り、宴会などをして10月26日に故郷に帰っていく。

 神議りという会議については日本書紀の国譲りのところででてくる。大国主命が仕切っていた現生の祭りごとが皇孫に任せて、大国主命自身はもっぱら神事に司ると言い残して去っていった。この伝承と結びついて全国の神々は出雲に集まり、1年間の幽事を相談するのだという信仰を生み出し、人世上の諸般の出来事まで、すべてこのときの神議りによって決められると信じられるのである。かくして出雲系の神々は日本各地で祀られるようになった。

神有月には八百神が大社本殿の東西に建てられた細長い19社に宿をとり神議りを行う

大社本殿の西側

神有月には八百神が大社本殿の東西に建てられた細長い19社に宿をとり神議りを行う

大社本殿の東側

 東京都府中にある大國魂神社はまさに出雲の神を祀る神社である。大國魂とは大国主命のことであり、これにはちゃんとした歴史がある。武蔵の国造に出雲系の人物が任命されたためらしい。国造本紀によると、成務天皇の時代に出雲神の子孫にあたる兄多毛比命が胸刺国造に任命されたという記録がある。これを信じるならば武蔵国と出雲は強い縁で結ばれているのである。大和の三輪山はまさに大国主命が祀られているが、出雲国造神賀詞のなかでの記述はこうである。大国主命が国譲りの後自らの和魂を八咫鏡に取り付けて、大和の大物主と名を称えて三輪山の神奈備に、大国主命の子の阿遅鉏高日子根神の御霊を葛城に、事代主神の御霊を橿原に、加夜奈留美命の御霊を飛鳥にそれぞれ住まわせて皇孫の命の近き守り神として奉ったという。そして大国主命は杵築の宮に鎮座した、とある。つまり出雲は大和に無条件降伏し、屈服した敵の本拠地の守り神になることで恭順の姿勢を示そうと努めているようだ。

 しかし問題は初代神武天皇が大和に移った後も出雲に対して必要以上に気を使っているところにある。これが謎めく出雲と云われるゆえんである。大和建国後は出雲は没落していったが、大和朝廷と天皇家は出雲の神々を無視できなかった。出雲の祟りを鎮める逸話が記紀には数多いが、かつては絵空事とされてきた。しかし出雲が実在し大和建国に大いに関わっていたことがはっきりすると、これらの逸話が問われるようになった。

 出雲と東国の深いつながりは日本書紀の崇神天皇のくだりにでてくる。崇神天皇は皇位継承に豊城入彦命と活目尊のどちらかを皇太子にしようと占いをした。兄の豊城入彦命は三輪山に登り八回槍を突き出す夢を、活目尊は三輪山を登り縄を四方に張って粟を食べる雀を追い払う夢をみた。これを聞いた崇神天皇は弟の活目尊を皇太子に、兄の豊城入彦命は東国の治世を委ねた。何故出雲と東国が深くかかわるのかは不明であるが、近代に至ってもなお天皇家は出雲を無視できないでいる。倒幕後、明治天皇が東京に遷御されたとき、最初の行幸地を埼玉県の氷川神社とした。氷川神社は武蔵の国の一宮だから当然の選択であるが、格上の天皇家が格下の氷川に挨拶に行くことが不可解なのである。

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