岡田以蔵、一躍脚光を浴びた人斬り以蔵の異名を持つその人の初の命日祭が高知・真宗寺山の墓前で行われたという。 以下の記載は部分的に、5月12日16時6分配信 毎日新聞より抜粋させていただきました。 実はこの墓前に私も行こうとしてGWにかなり奮闘したのですが、調査不足のために目的地がわからなくなり、途中であきらめました。 従って残念ながら写真はありません。
幕末に“人斬り以蔵”と恐れられた土佐勤王党員、岡田以蔵(1838〜1865)の命日に当たる5月11日、高知市薊野北町1の真宗寺山にある墓前で、初めての命日祭が開かれた。龍馬ブームの中、高知を訪れる観光客が増えていることなどから、「地域の活性化につなげたい」と住民が企画した。映画や小説、舞台などで取り上げられ、根強いファンも多い以蔵。県内外から約60人が参列し、その生涯をしのび、思いを語り合った。 同市中心部から車で約10分。大型電気店裏手にある真宗寺山には、岩崎弥太郎らを門弟に持った儒学者の岡本寧浦や、幕末土佐の絵師金蔵、自由民権家で初代高知市長の一円正興など、高知を代表する先人の墓が点在する。 岡田一族の墓が数基並ぶ一角が以蔵の墓で、本名の「岡田宜振」が刻まれている。 以蔵の墓は処刑後間もなく真宗寺山内の別の場所に建てられ、昭和40年代後半に現在の場所に移されたという。
幕末に要人を暗殺した「人斬り」は多く、肥後の河上彦斎、薩摩の田中新兵衛はそれぞれ、佐久間象山や姉小路公知を暗殺した一件で知られる。 革命期には、政治目的を実現する手段として限定されたテロと、やみくもに政敵とおぼしき人物を暗殺する行為との間に確たる違いを見いだすことはむずかしい。前者はやむにやまれず歴史を動かすために仕掛ける行動であり、後者はときに自分も理由を分からぬままに人の教唆で殺害する陰鬱な仕業である。 前者の例が薩摩の中村半次郎だとすれば、後者の典型は土佐の岡田以蔵ではなかろうか。 足軽身分の以蔵を引き立てたのは、武市半平太にほかならない。武市は万延元(1860)年に以蔵を連れて中国と九州を回るが、やがて武市の結成した土佐勤王党に加盟した。 だとすれば、以蔵がしばしば武市の指示で暗殺を繰り返した点を考えると、勤王党の連帯責任を避けるための方便だったのかもしれない。以蔵は武市を尊敬していたにせよ、武市のほうは無教養のテロリスト以蔵に利用価値を見いだしていたのだろう。
政治には多少の犠牲者が出ることは避けられない。それにしても、武市の暗いニヒリズムは以蔵をますます狷介な性格に育てたのではなかろうか。以蔵に殺人の無間地獄から救われる機会があったとすれば、坂本龍馬の紹介で勝海舟の家に住みこみ、京都でも身辺警固に当たった時期であろう。 しかし、以蔵は武市と土佐のしがらみから逃れられず京都で捕縛され、政変の起きた土佐へ送られた。これを知った武市は、ある手紙に「あのようなあほう」は早々と死ねばよいと書いたように、自分が指図した暗殺の真相が露顕することを恐れた。 武市は、以蔵の自供で勤王党による暗殺テロの真相が漏れるのを恐れ、自分に信服した牢役人を使って以蔵に毒飼いをさせたという説も根強い。毒を盛られた以蔵は師の冷酷さに憤って万事を自白し、武市をも死出の道連れにしたという暗い説もあながち否定できない。
武市は吉田東洋暗殺で火ぶたを切った土佐テロリズムの元凶であるから、その政治責任は免れなかった。巨大な変革期にはどの国でも、政治とテロ、陰謀と暗殺、交渉と衝突などは入り組んで進行する。それでも、以蔵のように暗殺テロの専門家としてだけ、政治運動に関与した例は少ない。 薩摩の中村半次郎などは確かに政敵を暗殺した事実も一回ほど確認されるが、全体としては各藩にも知られた談判や周旋の士としても成長していった。2人の差は、西郷吉之助と武市半平太の個性の違いでもあろうか。 岡田以蔵、土佐の郷士の家に生まれ、江戸の桃井春蔵に剣術を学ぶ。武市半平太に従って九州などを回遊し、のち土佐勤王党に加わる。京都で薩摩の田中新兵衛らとともに天誅行動の急先鋒となり、多くの暗殺事件に関与、「人斬り以蔵」と呼ばれた。藩吏に捕らえられて土佐に送られ、1865年、処刑された。









