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蘇我氏と渡来人・東漢氏

2010年10月14日 | 奈良・飛鳥時代
 蘇我稲目以前の蘇我氏の系譜には韓子、高麗、満智などが散見される。 また、蘇我稲目は高句麗の女性を妻にしたという記録がある。 倭国から高句麗征伐に派遣された将軍・大伴狭手彦が高句麗王宮に乱入したときに、後宮女性を略奪して帰国後に稲目に献上している。 稲目は二人を妻として軽曲殿に置いた。 入鹿の別名は鞍作といい、仏師・鞍作氏の名である。 母または乳母が鞍作氏かどうかは別にして、蘇我氏が渡来人と密接なかかわりがあったのは事実である。 また渡来人の血は蘇我氏だけではなく、大伴氏・物部氏にも見え、百済の官人の名が現れる。 5世紀の雄族 葛城氏や大伴氏は大陸にしばしば使者を送り、多くの現地の人々を連れ帰っている。 しかし葛城・大伴・物部が没した後は、渡来人は蘇我氏の下に組織され、蘇我氏の手足として活躍する。  たとえば、秦氏は蔵に納める物の出納、東文氏と西文氏がその帳簿の記録に当たっている。 三蔵や屯倉の出納管理を担当した蘇我氏が、主家を越える権力を持つに至った理由を、松本清張は、蘇我稲目の時代から朝廷に収めるべき穀を帳簿上の操作により私したからである、といっている。 当時帳簿作成の技術は蘇我氏の配下にいた渡来人にしかなく、在来の倭人にはその能力がなかった。 日本人の官人は算盤や文字の読み書きもできなかったのである。 

 蘇我氏の配下にいた渡来人には東漢氏・鞍作氏・西文氏らであった。 彼らの多くは漢字を使いこなすことで倭人系の豪族には望めない高度な行政実務能力を発揮できた。 蘇我氏は6世紀以降、さまざまな政策を打ち出していくが、これらは渡来系豪族によって実行されたのである。 なかでも東漢氏は最も強大な勢力を誇った。  東漢氏は5世紀後半頃、朝鮮半島南部の安羅から大和高市郡に移住してきた。 東漢氏は当初大伴氏の配下におり、東漢直掬という人物が大伴室屋大連とともに雄略天皇崩御後の反乱を鎮圧している。 雄略亡き後、吉備稚姫と息子の星川皇子が反乱を起こしたのである。 しかし欽明天皇の頃、大伴金村が対朝鮮外交の失敗により失脚すると、東漢氏は蘇我氏に近づき、その配下となった。 東漢氏は飛鳥寺の建立にもかかわり、山東漢大費直という人が飛鳥寺の建築、土木事業の監督を務めている。  一方、東漢氏は軍事氏族としての一面もあり、馬子の命令で崇峻天皇を殺害した東漢直駒が軍事の総指揮をとった。 東漢氏の本拠は飛鳥の南・檜隈地方で、後に蘇我氏が進出し、飛鳥周辺に多くの邸宅を構えた。 稲目の小墾田の家、向原の家、軽曲殿がそれで、軽曲殿の近くにある見瀬丸山古墳(現在、天武・持統合葬陵)は 稲目の墓とする説が有力になっているらしい。 馬子の代には石川宅、嶋宅が加わったが、これらは東漢氏が開発したものであった。 

                                         東漢氏の技術が現在も豊浦寺跡 向原寺跡に見られる

    
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