平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

幕末164 1865年 薩長近接

2017年01月29日 | 幕末

 1865年後半から、幕府は軍勢を大坂に送ったにもかかわらず第二次長州征伐の勅許を求めてぐずぐずしていた頃、桂小五郎は井上聞多、伊藤俊輔を長崎に派遣していた。目的は対幕府戦に備えて武器を調達するためである。長崎に買い付けに行った青木群平が買い付け失敗に終わったのは幕府が兵器を長州に売らないように通達を出していたからである。そこで薩摩が武器弾薬や軍艦を購入して長州が代金を払って受け取るという坂本龍馬のアイデアによって井上、伊藤が交渉に入った。これにより薩長の関係回復も図れるというものである。仲介はもちろん亀山社中。井上、伊藤はそれぞれ山田、吉田と変名して長崎にはいった。留守をあずかる上杉宗次郎に会って薩摩藩との仲介を求めた。上杉宗次郎は本名は近藤長次郎といい土佐の饅頭屋だった男である。土佐の河田小龍に学び開国思想に目覚め、3才年上の坂本龍馬とともに神戸海軍操練所で学んだ。

 上杉は長崎の薩摩藩邸にいた家老・小松帯刀に二人を紹介し、次に武器商人・グラバーを訪ね、ゲーベル銃多数を買い込んだ。そしてその足で薩摩へ行って関係修復に努めることとなった。かくして長州は汽船・ユニオン号も入手したが、37500両だったというから、今でいう30億程度か。このとき上杉は井上の進言もあって、長州藩主から数百両の礼金を受け取った。後にユニオン号は桜島丸と名を変える。変なのはこの名前である。長州が金をだして購入したにもかかわらず、薩摩の地名桜島をとって命名している。どうやらこの船の使用権が薩摩や亀山社中にもあるという契約がなされたようである。

 上杉はもともと饅頭屋であるから、亀山社中ではなにかと蔑まれてきたようだ。そこに長州藩主からもらった礼金のことを、公金横領と誤解されて、結果腹を切らされた。墓は長崎の砲術家・高島秋帆の墓の裏手に建てられた。上杉は高島とは師弟関係であるが、同じ日に死んだ。

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