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刑罰論(死刑廃止論)

2006-09-18 01:09:32 | 随筆・論説
 刑罰論のことで言えば、死刑賛成の人は応報刑罰主義。死刑廃止の人は教育刑罰主義です。

 で、応報刑罰主義では刑事施設の運営は「目には目を。歯には歯を」での恐怖刑罰となる。他方、教育刑罰主義では刑事施設の運営は医療・教育・勤労施設のような愛情刑罰となる。

 が、犯罪者であることに変わりはないので、隔離施設であることには変わりはない。

 その意味は、一般市民と同様の自由は認められないということである。すなわち、教育刑では犯罪者に対し、医療・教育・勤労が義務化され、応報刑で犯罪者に対し、犯罪に見合うだけの恐怖と苦しみが義務化されるのである。

 さて、ここで次の3つの意見について考えて見る。

 ①死刑が回避された判決をきいて「私なら復讐する」、これが多くの人の感情ではないかと思う。裁判官が国民の感情からかけ離れて死刑を回避するから裁判員制度ができた。
 
 ②福岡県警が制作中の暴追ビデオの学校での上映を中止にする旨の申し入れが暴力団からあった。理由は、「組員の子供がいじめに会う恐れがある。人権侵害だ」とのこと。
 
 ③最高裁は山口・母子殺害事件の被告に対して下された無期懲役の一・二審判決を破棄し、広島高裁に差し戻した。理由は、犯行時18歳であるという事情だけでは死刑を回避するには不十分であるということだ。
 
 ①について、人が人を殺すことが必要なのは正当防衛のみだ。「黙って殺されろ」と法が命じれば弱肉強食の暴力を法が認めることになり矛盾となる。
 
 このため法は人が生きるために必要な人殺しを正当だと認める。しかし、死刑は正当防衛による人殺しではない。遺族に緊急性はない。死刑は国家権力を手段とする報復殺人であり、人命軽視の社会風潮に拍車をかけることになるから完全に違法となる。
 
 ②について、全国の小・中・高・大等の教育機関で徹底的に上映せねばならない。必修カリキュラムにするべきだ。なるほど、いじめは人権侵害だ。しかし、子供が親に対して、警察と学校教育で習ったことを根拠にして暴力団からの離脱を懇願していくように社会が運動していくのは正しい。

 だいたい、暴力団の親の行動自体が子供にとっては「虐待」ではないのか。人間である子供たちと社会が暴力団を恥と感じ、組員を更生させる社会運動は正当だ。

 ③について、最高裁の真意は、個人が死刑を法定する法律に違反する犯罪行為を実現した場合、死刑で処罰されても当然であり、それが罪刑法定主義だという所にある。
 
 なるほど、国民主権の立法手続きで制定された法律に従って裁判するのでなければ、司法官が気分・感情で個人が処罰する恐れがある。極度の絶対主義・官僚主義のぶり返しになる。
 
 だが、司法府には違憲法令審査権が認められているのは何故か。また、立法(法律)が万古普遍ではないのは何故か。それは「法」というものが単なる刹那的で狭い硬直的形式ではなく、歴史の法廷を要請しながら人間の自由を保障する力だという示唆だ。
 
 では、死刑は人間の自由を保障する歴史の力だろうか。死刑は正当防衛ではない殺人にあたる。しかし、死刑囚は殺人を犯した。つまり、死刑とは国家権力を手段とする人間の殺し合いである。司法は報復・復讐ではない。それを否定するのが「法」、すなわち人間の歴史の力ではないか。

 
 質疑応答

 ①「教育刑的な指導によって更正したとして、受刑者自身がそれで不足と思うことがありえるケースもある。その場合、被害者側の求刑を受刑者が受け入れるならば、それを適用してもいいとまで思う」

 回答
 
 この被害者感情が復讐・報復であり、応報刑を支える国民感情です。教育刑ではありません。司法は不要となるでしょう。

 ②「受刑者が自らの意志で「死刑」を望むならば容認するべきだと思う」

 回答 
 
 自殺幇助は明確に違法ですね。なお、自殺そのものも違法ですが、被害者なき犯罪行為・不法行為だというだけです。ゆえに、自殺対策としての社会のセーフティーネットを完全に整備せねばなりません。

 法という社会規範は人命と健康を互いに維持、増進することを認め合わねば、そもそも論じられません。

 人間として平等に生きるということであり、自然の死期に先立った死をどう回避するか、人間としてどう生きるか、ということから法なり社会規範は論じられることにります。どう人と人がどう殺し合うか、人が人をどう死なせるか、などという行為はそもそも違法なのです。人と人はどう共生するかと問いを立てる所が民主主義法学の入門だと考えます。


「刑罰の本質は、応報刑論と教育刑論がある。これが刑罰学派の争点でもある。

 応報刑論は刑罰の本質は応報にあり、正義の要求から犯罪と刑罰の均衡を求め、刑罰は応報以外のなにものでもないという絶対主義を基調とする。

 応報の概念については、法的応報説が一般的であり、法的応報説とは刑罰は犯罪に対する法的応報だとする説。
 
 法的応報の相当・均衡関係を事実的に見れば、タリオ(同害報復説)となり、価値的に見れば等価説となる。

 教育刑罰は刑罰の本質は教育にあり、犯罪者の再犯防止・社会復帰を目的として刑罰を科すとするものであり、相対主義を基調とする。

 応報刑罰を批判する立場から生まれたもので、犯罪にはなんらかの原因があり、その原因である危険性を除去することが最終的には社会防衛になるとする。

 現在においては、刑罰の本質は応報であるとしながらも、刑罰を威嚇の手段として利用することで、将来の犯罪を予防する機能と犯罪者の再犯を防止する機能を考慮する相対的応報刑論が一般的である」

 (菊田幸一・辻本義男著、『新犯罪学』参照。)

 質問

 山本さんによれば、再審の可能性奪うことの憂慮の背景には「刑事司法への懐疑的姿勢の欠如は国家への過度の信頼の表れでありこれは問題である」というイデオロギーがありますとのことですが、

 イデオロギーがなければ人間ではないので、イデオロギーがあることは確かですが、言葉とか論理からではなく、冤罪事件の事実から再審の必要性を論ずることもまた然りではないかと。

 で、冤罪事件というのは死刑事件だけではなくて、刑事裁判全体に言えることですので、冤罪・誤判を根拠にして国家の刑罰権を否定していけば刑事裁判システム自体が成立しないのでは?

 いわば懐疑主義というもので、庶民が裁判員になることを断る理由でもありますが、人が人を裁判できるのかどうかということです。

 さらには、山本さんの言うとおり「生命と自由とどちらを重んじるかは一義的でない」のだから、死刑だけを回復不可能な刑罰をすることには無理があり、自由刑と生命刑は共に人権を奪う回復不可能性を持つのであり、やはり、冤罪・誤判論を根拠とする死刑廃止論は刑事裁判そのものの否定へとなっていくのではないでしょうか。

 したがって、死刑廃止論の根拠に冤罪・誤判論は成立しないのではないでしょうか。

 回答

 誰が国家の刑罰権を否定しました?

 再審による救済の可能性が
 執行後の死刑<執行中の自由刑
 ってことわかりませんか??

 質問

 いや、わかります。

 ただ、誤判を根拠にしては死刑などの刑罰を否定できないのではないかという趣旨です。これでいくと、国家の刑罰権を否定することになるのではないかという質問です。なるのか、ならないのか、という質問です。

 で、救済可能性の観点から死刑を廃止するというのはわかります。しかし、それは誤判かどうかに関係なく、人間には救済可能性があるということではないでしょうか。

 この点、山本さんは「死刑廃止論者から主張される理由としてもうひとつ。受刑者の更正の機会を奪うということ(特別予防と言います)が言われます」といっていますが、賛成ですね。

 結局、山本さんの言うように、「死刑を廃止し無期懲役を頂点とする刑罰法規に改め、刑罰とは峻別された教育改善を厳格に見直すことで特別予防を図るべきである」となるのでしょうね。

 国家の絶対的応報刑を退けて、相対的応報刑を考慮しながら、教育刑へとマイルドに移行していくことが、山本さんの言うごとく、「私があえて持ち出したのはそういった世界からの批判にも耐えうる理論を構築したかったから」であり、「閲覧した読者が混乱する可能性なく」、国民合意で死刑を廃止していくただ1つの啓蒙の内容と方法の現実性というか団結性ということでしょうか。

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37 コメント

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はじめまして (おにやんま)
2006-09-25 01:07:17
「つまり、死刑とは国家権力を手段とする人間の殺し合いである」



 東西南北さんの上の言葉に同意します。戦争にしても死刑にしても、制度が人を殺してしまうことには反対ですね。冤罪で死刑に処せられた人に対して、戦争で殺された人に対して、責任を取ることはできないですからね。過失は常にあるのですが、人を死に追いやる過失だけは避けるべきです。



 ヤメ蚊氏のブログでは頑張ってたね。僕はあまり勉強していないので応援できなかったよ。これからも頑張ってね。僕は東西南北さんのコメントを見ているうちに、昔読んだ高島善哉さんの本とか、読み直そうと思いました。
ありがとうございます。 (東西南北。)
2006-09-25 14:21:00
 おにやんまさんへ



 冤罪、誤判、過失は裁判官が人間である限り、生まれないとは断定できない。もちろん、人間は間違えること以上に正確な判断をするのですが、裁判では一個の人間の人生を決めてしまう。



 違憲法令審査権である憲法裁判以外の民事・行政・刑事裁判では陪審制を導入し、裁判に国民主権主義を導入しながら、裁判所の情報公開を進め、三審制を堅持しながら、透明な裁判手続きを実現して、裁判の過失、誤判を防止していくしかない、と考えています。



 追記:死刑のみならず、誤判による裁判は人間の自由を奪うので取り返しのつかないことだと考えるので、誤判を恐れて刑罰権を放棄するのではなく、「死刑は国家権力を手段とする人間の殺し合いである」という見地から廃止せねばならないと考えます。
Unknown (おにやんま)
2006-09-25 20:11:14
なるほど。私の場合「死刑」というものだけ捕らわれているので、生産的な意見とはいえませんね。貴兄が追記でおっしゃていることは、「裁判制度に限らず国家の概念等も視野に入れて話さなければ、議論として発展しない」というメッセージと受け取りました。勉強していないことを見事暴露されて(自明のことですかね^^;)、むしろ晴れ晴れしいです。いやみではなく本心です。つまみ食い的な意見は言うべきではありませんでした。射程が狭すぎました。今の自分には体系的に国家や裁判を論じる力は到底ありませんでした。あと、相手の自尊心を大事にした上でメッセージを表現して下さったようで、全く何枚も上手で、参りました。



昨日のコメントでは、いつのまにか馴れ馴れしい言葉づかいになってしまい、大変申し訳ありませんでした。学生時代の友達と話すような感覚になってしまい、つい無礼になってしまいました。これからもたまにお邪魔します。
おにやんまさんへ。 (東西南北)
2006-09-25 21:14:05
 こちらこそどうぞよろしくお願い致します。



 人と人を殺すようなことがなくなる国際社会をどうやって創って行くか、という方向で生産的な意見交流をしていければ、と願っております。



 お互いの議論を切磋琢磨していく中で人間の認識は全面的、総合的な強固なものに発展していくという見地です。

Unknown (パルミーロ)
2006-10-02 16:00:25
はじめまして、パルミーロと申します。

「死刑」についてだけ議論すべきではない、というのはまさに、その通りです。

フランスの思想家ミシェル・フーコーが、死刑に関する電話インタビューに答えた内容が『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅷ』(筑摩書房)の379ページにあります。大して長くないので、引用しておきます。

「私の考えでは、問題は3つある。刑罰の機能の仕方という問題、精神医学―刑罰の関係という問題、死刑という実際的問題。

 最初の2つの問題に答えなければ、問題そのものの解決はありえない。自分が頭を隠しておきながら、その頭を切るかどうかを話題にするのは、ダチョウのような政治を実践することだ。確かに、私は刑務所システム全般の手直しには賛成だが、このシステムは社会システム自身と独立したものではない。すべてを変える必要があるのだ」。

フーコーは、この観点から、「誤審」や「残酷さ」といった見地からのみ死刑について議論するのではなく、個人であれ、公的権力であれ、誰かの生命を奪う権利はないという原則を提示すべきであると述べました。その意味で、コメント上から二番目の東西南北さんの「追記」の内容は、極めて重要なことであると言えるでしょう。
パルミーロさんへ (東西南北)
2006-10-02 20:12:21
 コメントありがとうございます。僕は学識がないので、誰がどのような著作でどういったのか、という知識はありませんが、フーコーという人も僕と同じようなことに問題意識を持っていたんですね。



 場所や時を超えて普遍的なテーマだったということですね。なんちゅうか、ロマンというのですか。



 今後とも古今東西の学識を踏まえたご意見をお聞かせください。



 よろしくお願い申しあげます。



 
フーコーのこと (パルミーロ)
2006-10-03 16:50:38
東西南北様、私のコメントに反応していただきありがとうございます。

フーコーについて少し述べておきたいと思います。

ミシェル・フーコー(1926-84):フランスの思想家。

コレージュ・ド・フランス教授。権力を、「支配―被支配」関係からだけでなく、あらゆる場において発生するものととらえた。主著『監獄の誕生』『性の歴史』等。

1981年フランス大統領選において、ミッテランおよび左派連合は、死刑廃止を重要政策の一つとし、5月10日、ミッテランが大統領に就任、同年9月8日、法相ロベール・バダンテールは、死刑廃止法案を国会に提出。同月18日、下院通過、30日に上院を通過・成立しました。前のコメントで引用したフーコーの言葉は、大統領選挙期間中の電話インタビューにフーコーが答えた際の内容です。彼はこれ以降も刑罰に関して積極的に発言しています。彼は、死刑のみならず終身刑にも反対しており、その理由として、死刑と終身刑は、ある犯罪人を、「矯正不可能」と認定するもので、それは司法の領分ではなく、精神医学の領分であり、犯罪人についての判断を医師に任せるわけにはいかない以上、刑罰にはすべて期限がなければならない、と主張しました。ちなみに、終身刑も存在しない国としては、私が把握している範囲では、ノルウェー(最高22年)、エクアドル(最高16年)、メキシコ(最高40年)、東ティモール(憲法で死刑及び終身刑を禁止。最高刑未確認)等があります。

まだ書きたいこともありますが、長くなりましたので、今日はこの辺で。なにかの参考になれば幸いです。
いや、ドラマみたいな話ですね。 (東西南北)
2006-10-04 00:22:19
 バルミーロさんへ。



 フーコー(1926-84)は1981年、フランスのミッテラン大統領へ電話で、死刑廃止と終身刑の廃止を思想家の観点から提言し、さらに、ミッテラン大統領に「社会のすべてを変える必要がある」とは、スケールの大きさに、ちょっと身震いしましたね。おお、すごいぞ。もっと言ってくれ。



 おもしろい講義ですね。連載でやってくれませんか。長くなっても全然問題ないですよ。



 特に、権力というものについて、一発、お願いできませんか。その他、社会哲学でも何でもやってください。他の記事のコメント欄でもどんどんやってください。



 学者というものはコレージュ・ド・フランス教授の思想家・フーコーのように実社会を動かす社会的な存在であるべきですね。元自民党参議院議員の竹中平蔵・慶大、経済学部教授みたいなのは迷惑ですが(笑)



 で、僕は終身刑を廃止することには原則賛成で、理由もフーコーの矯正可能性の問題と考えます。ただ、フーコーも言うように、社会全体との関係の中で具体的に決定することでもある、と思います。



 すなわち、今現在の、日本国の刑罰制度から死刑を廃止した場合、その代替刑として終身刑を導入しないならば、現行の無期懲役刑のあり方についても情報公開し、同時に国民的に議論していかねばならないと考えます。



 なぜならば、現行の無期懲役刑の場合では、20年を基準に仮出獄が認められており、重度の精神異常者については現状の社会と精神医学の限界下では、彼の人間力の回復にも限界があるとも言え、具体的な見極めの基準を国民合意で創りだすしか方策はないと考えるからです。彼を受け入れるのは社会です。



 なるほど、終身刑は隔離措置としての公共の福祉であり人権保障の社会性だとも言えなくもない。重度の精神異常者を受け入れる社会の方にも覚悟がいる。

 

 しかし、最終的には、社会というものは同じ矯正可能性を持つ人間としての寛容性と信頼性で成立しているのであり、同じ矯正可能性を持つ人間であるという原点に立ち返れば、犯罪人の人間性と人権を信頼し、重んずるような出獄基準を具体的に国民合意で決定し、無期懲役刑を公共の福祉論として導入していく必要があると考えます。
フーコーについて・再び (パルミーロ)
2006-10-04 15:30:10
どうも、迅速な反応ありがとうございました。

ちなみに、フーコーは、ミッテランに電話したわけではありません。大統領選挙キャンペーン中の、新聞社による電話インタビューに答えた内容が、上記のものです。一応訂正まで。



ともあれ、巷の、死刑に関する議論を見ていると、「冤罪」「残酷さ」「遺族の感情」「抑止力」「執行する刑務官の問題」などの問題ばかりがクローズアップされるわけですが、結局これらはすべて、「死刑という実際的問題」に収束するものばかりなんですね。おそらく、死刑を廃止又は恒久的執行停止を行っている国も、そしておそらくは終身刑をも禁止している国でさえも、フーコーの言った3つの点から議論したという国はないと思います。なぜなら、これら3つをすべて議論した場合、最終的に、「国家による暴力の独占がなぜ許されるのか」という問題に行き着いてしまうからです。



いかなる公的権力も人の生命を奪う権利はないという原則を提示して死刑を廃止するならば、戦争や軍隊の問題がただちに導き出される、と、フーコーは指摘しました。

死刑を廃止しながら戦争を遂行するということが、いかに馬鹿げたことであるかは、言うまでもないと思います。このような観点から、フーコーは、死刑についての論議においては、「国家が様々な形態の下で行使しているような殺す権利と言う問題を根本から改めて取り上げる必要がある」(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ』431ページ)と、述べました。



いずれにせよ、今のところ、主要国のなかで最も死刑廃止に遠いと思える日本においては、この問題をいかにして議論の俎上にのせるかが、他国以上に問題となると思います。
私的制裁の禁止。 (東西南北)
2006-10-05 00:52:43
 これは、国内戦争への発展による、議会制民主主義への破壊、挑戦を禁止するものではないでしょうか。



 市民には正当防衛権と急迫不正の革命権は認められているが、常日頃の市民武装勢力を違法とすることは議会制民主主義の擁護であり、正しい方向だと考えます。



 要は、必要性と国民合意の問題であり、今現在は議会制民主主義があるので、市民武装勢力は必要ではありませんので、国民合意も得られないでしょう。



 警察へ武装を集中させることは民主主義国家の姿ですね。憲法9条に通ずる道だと考えます。



 で、私的制裁を禁ずる理由も民主主義国家が当事者双方の仲裁役として、いわば暴力の連鎖を断ち切る社会的役割が在るからだと考えます。



 しかし、実際の国家は暴力の連鎖を断ち切ることを放棄し、むしろ応報理論むきだしの死刑なる刑罰を当事者に代わり執行しています。国家の民主主義上の社会的役割を裏切る行為であり、民主主義国家の社会的役割への市民の信頼を根底から不信へと向かわせ、民主主義国家の発展にとっては、極めて有害で挑発的な国家の暴力行使であります。



 国家の反民主主義的、反社会的、非社会的な権力行使は暴力であるから、国内の民主主義勢力、社会的勢力は団結して政治結社としての政党を立ち上げ、国家を民主化、社会化していく必要が在るのではないでしょうか。



 これが今現在の日本国における民主主義運動上の政治情勢判断であると考えます。
参考記事。 (東西南北)
2006-10-05 11:20:39
 バルミーロさんへ。



 9・18付けの記事「戦争・民族自決権(民主主義革命権)・政治テロ」をご参考にしていただければ幸いです。



 どうぞよろしくお願い申しあげます。
TBありがとうございます (山本)
2006-10-14 00:32:18
TBを頂戴してこちらを拝見しました。

大変申し上げにくいのですが、結論以外の部分で見過ごせない文章を読んでしまいました。

正直コメントするか迷いました。

しかしせっかく頂戴したTBを削除しない限り私のブログを閲覧された方がこちらを訪れ、私のブログに書かれたこととの整合性に疑義をもたれる可能性があるのでコメントに踏み切りました。

もちろん結論が同じと言っても当然理由が同じとは限りません。

意見は人それぞれです。

私が言っているのは事実として書かれたことについてです。



「死刑賛成の人は応報刑罰主義。死刑廃止の人は教育刑罰主義」とおっしゃっています。

しかしそんなことはありません。

事実私は相対的応報刑論に立つ死刑廃止論者です。

また、教育・改善刑論は「愛情刑罰」とは限りません。

人様のブログですので詳細は控えますが、むしろこの近代学派(新派)と呼ばれる考え方は行為者に着目する点で危険視されており、絶滅寸前です。

多くの死刑廃止論者も応報刑論自体を覆そうとはしていません。勝ち目がないので。



余計なお世話かもしれませんが、もし死刑廃止を訴えるにあたって啓蒙をお望みなら応報刑論に変更されることをお勧めします。

新派の考えに立ってその考えを理由として何かを訴えても、「そもそも新派の考え自体妥当でない」で終わってしまいます。

また、死刑の可否と刑罰理論でどの見解に立つかは一部を除き必ずしも論理必然の関係にはなく、刑罰理論を論ぜずとも死刑廃止を訴えることは可能です。



とってつけたように聞こえるかもしれませんが、許されるなら同じ結論を目指す者としてまたこちらにお邪魔させていただきたいと存じます。
はじめまして。 (東西南北)
2006-10-14 01:43:45
 そうですか。同じ結論なんですか。じゃっ、いいのやないですか(笑)



 実は、山本さんの反骨ブログの死刑廃止論を読んでみてから、TB致しました。



 2つTBしてたでしょう?①「死刑廃止論」と②「人間・階級社会・犯罪論」です。



 で、むしろ②の方が山本さんの記事への回答になるのじゃないかなと考えた次第です。



 というのも、応報刑罰は相対的であれ絶対的であれ犯罪抑止力としての一般予防措置をその核心にしていますね。



 しかし、刑罰は抑止力ではなく隔離・更正措置ではないでしょうか。相対的応報刑罰という言葉だと読んで字のごとく何か懲罰的な感じがしますから、教育刑論という言葉のほうが誤解がすくないだろうと使用しております。



 でも、内容は僕も山本さんもおそらく同じだと思いますね。刑務所に隔離されて教育を強制される時点で、その事実を更正措置というか自由を奪う応報措置、犯罪抑止力と呼ぶかだけの話だけですからね。



 で、いわゆる精神異常者の予防拘禁とか保安処分とか身体的特徴で犯罪者扱いするような教育刑罰を僕は主張しているのでなくて、犯罪行為を実行した者の隔離更生措置としての刑罰を主張しているわけです。



 死刑は犯罪者の人間としての更生機会を奪う国家権力を手段とする報復としての人間の殺し合いですから、僕のいう教育刑罰にはならないわけです。山本さんの言う相対的応報刑罰にもあたらないはずです。



 で、相対的応報刑罰も教育刑罰も結局は、犯罪を実行した者を隔離して構成措置を講じる内容は同じなわけでして、そのような刑罰が一般予防としての犯罪抑止力になるかどうかは刑罰論の本質、すなわち人間の問題とは無関係ではないでしょうか。



 そこで、抑止力と人間の関係になるのですが、この点につき、先ほどご紹介した「人間・階級社会・犯罪論」の記事になってくるわけです。



 山本さんが問うていたのは人間と抑止力の関係だと山本さんのブログを見て感じた次第です。



 結局、人間は抑止力で犯罪を実現しないのか、それとも人間は人間らしさゆえに犯罪を実現しないのかが問題であり、後者であれば抑止力論は幻想だというわけです。
Unknown (山本)
2006-10-14 03:01:17
>応報刑罰は相対的であれ絶対的であれ犯罪抑止力としての一般予防措置をその核心にしていますね。

いいえ、違います。

また、教育・改善刑論と相対的応報刑論は全く別物です。採点は教授にしてもらって下さい。



私が気にしているのは、誤ったことを正しいことのように伝えることで我々が啓蒙しようとしている人間を混乱させること、そして反対論者に我々について誤った評価をさせてしまうことです。

アカデミックな議論で気持ちよくなりたいわけではありません。

誤った評価を受けたり、啓蒙しようとした人間をケムに巻くような逆効果を生じるのならアカデミックな議論はむしろ忌避したいと考えています。

申し訳ありませんが、私は「話せばわかる」という幻想を信じませんのでこの辺で失礼いたします。
それぞれのやり方と言葉で同じ内容を伝えていきましょう。 (東西南北)
2006-10-14 12:45:59
 なるほど。言葉の定義は難しいものですね。ま、それぞれの言葉と気持ちで死刑廃止を訴えていけばよいと考えます。



 議論が混乱しても有権者は国民であり、結局は死刑存廃は国民の決めることですので、死刑廃止であれば問題なしかと感じています。



 僕はあまり込み入った言葉の定義とか言葉の歴史とかは知りませんが、事実として、教育刑論は隔離・更正措置の実態であり、応報とか復習とか懲罰とか言うと教育・更正とは逆の意味で、「悪いことしたらこうなるで」式の恐怖感に訴える抑止力のことになると思います。



 ともあれ、死刑廃止で一致していることは同じ人間として嬉しい限りです。
そう単純でもない (パルミーロ)
2006-10-27 21:23:48
 山本様、東西南北様。

 結論が同じなら経緯がちがってもよいか、といえば、そうでもないのです。というのも、結論重視・理論軽視は、実証主義的経験主義に陥る可能性があります。というのも、経験主義では、対立物の関連性を見抜けなくなる可能性があるからです。応報刑と教育刑は、たしかに対立物ですが、両者はまったく独立して存在しているわけではありません。

 たしかに、死刑廃止は、刑罰理論を交えなくとも主張することは可能です。経験的な事実を積み重ねることで、死刑の問題点は十分に指摘できます。しかし、以前に述べましたが、死刑を含む刑罰システムは、社会システム自身から独立して存在するものではありません。啓蒙と理論的詰めとは、同時並行で行うべきでしょう(「経験」で死刑廃止論者になった人間は、容易に「経験」によって存置論者に転化しうるのですから。以前、家族を殺されたことで、死刑存置派になった元廃止派弁護士は、(不謹慎を承知で書きますが)、まず「経験A〈それが何かは知らないが〉」で廃止派になり、「家族が殺された」という「経験B」で存置派になった、と言えるのではないでしょうか)。

かつて「実証主義的マルクス主義」の蔓延による「ロリア主義(「自称」マルクス主義経済学者アキッレ・ロリアによる珍妙奇天烈な「理論」とそれに類似する「トンデモ」理論のこと)」を批判したイタリアの思想家アントニオ・グラムシの言葉を最後に引用しておきたいと思います。

「・・・他方、あらゆる虚脱状態は、知的・道徳的無秩序をもたらす。必要なのは、最悪の恐怖を前にしても絶望せず、馬鹿馬鹿しい言動にも熱狂しないような、節度のある、忍耐強い人間をつくりだすことである。知性のペシミズム、意志のオプティミズム」。
なるほろ(笑) (東西南北)
2006-10-27 22:25:24
 ある経験によって死刑廃止派だった人間が、ある経験によって死刑存置派になった(笑)



 これはおもしろくて分かりやすかったです。対立する事実がある。例えば、人殺しと共生。窃盗と私有財産。名誉毀損と自己肯定感。



 現実社会は対立物の事実関係ですね。で、人間は人殺しであり、共生者であり、窃盗者であり、私有財産者であり、名誉毀損者であり、自己肯定者である、と支離滅裂しなり、「実証主義的経験主義」というものでは、死刑存廃論も人間の行うことだから、死刑は廃止されたり、存置されたりして、歴史は繰り返すということになります(笑)



 いろいろと思考した結果がこのような人間社会観では、なんか意味がないような気が(笑)「歴史は繰り返す」と言っているに過ぎないわけですからね。



 いやあ、おもしろいし、わかりやすいですな。



 結局、現実社会の事実関係は対立物が関係して存在しておるのであるから、一方の事実を真実として認識していくために、「必要なのは、最悪の恐怖を前にしても絶望せず、馬鹿馬鹿しい言動にも熱狂しないような、節度のある、忍耐強い人間をつくりだすことである。知性のペシミズム、意志のオプティミズム」ということでしょうか?(笑)



 いやあ、勉強になります、というかバルミーロさんは、めちゃくちゃ頭がいいというか根本を突いた発言をする人ですね。



 僕が学術の神というか、真の科学者だと感じているタイプです。思想家。哲人。



 いろいろと哲学上の問題を教えてくださいませ。



 ソクラテス・メソッドとかいう言葉がありますが、どういうことなのでしょうか。要は、賛否両論のディベートということでしょうか。となれば、ソクラテスも人間は人殺しであり、共生者であり、窃盗者でありうんぬんのエンドレスの陥っていたノイローゼだったということでしょうか(笑)



 理論の真実性というか、ある事実が真実だと言える根拠となる事実と理論の組み合わせとはなにでしょうか?

 
参考資料。 (東西南北)
2006-10-27 22:31:34
 教授の本を見てみました。 (東西南北)



2006-10-14 13:32:07



 コメントありがとうございます。山本さんと僕は結論は同じですが、言葉の定義が違うようなのでそれぞれの言葉の定義で同じ内容を訴えていきましょう。



 で、相対的応報刑論と教育刑論を教授はどのように定義しているかを見てみました。



 コメントしていただいてので、教授の言葉の定義はどういう「事実」かを確認しておこうということです。



 ま、言葉の個人的な意味ではなく、辞書的意味ですね。どちらも言葉の内容が大事であり、言葉の内容が事実だと僕は考えています。



 ともあれ、辞書的意味を確認すると、こうでした。

 

 「刑罰の本質は、応報刑論と教育刑論がある。これが刑罰学派の争点でもある。



 応報刑論は刑罰の本質は応報にあり、正義の要求から犯罪と刑罰の均衡を求め、刑罰は応報以外のなにものでもないという絶対主義を基調とする。



 応報の概念については、法的応報説が一般的であり、法的応報説とは刑罰は犯罪に対する法的応報だとする説。

 法的応報の相当・均衡関係を事実的に見れば、タリオ(同害報復説)となり、価値的に見れば等価説となる。



 教育刑罰は刑罰の本質は教育にあり、犯罪者の再犯防止・社会復帰を目的として刑罰を科すとするものであり、相対主義を基調とする。



 応報刑罰を批判する立場から生まれたもので、犯罪にはなんらかの原因があり、その原因である危険性を除去することが最終的には社会防衛になるとする。



 現在においては、刑罰の本質は応報であるとしながらも、刑罰を威嚇の手段として利用することで、将来の犯罪を予防する機能と犯罪者の再犯を防止する機能を考慮する相対的応報刑論が一般的である」



 (菊田幸一・辻本義男著、『新犯罪学』参照。)



 僕はやはり、教育刑論ですわ。教育系論は絶滅寸前で勝ち目ないのですか(笑)学説的には新しい説みたいですね。応報刑を批判する立場だと(笑)。まさに、僕の教育刑論と同じですわ。僕もこれで死刑廃止を訴えて行きますわ。



 なお、相対的応報刑論の本質は、一般的には、事実上、犯罪に対して、刑罰の相当・均衡させるタリオ(同害報復)なのであり、解釈上は価値等価なんですね。



 やはり、人間と社会と国家権力をどう認識するかの問題ですね。



 山本さんから言えば、イデオロギーの問題なのですが、僕からいえば事実関係ですわ。



 そいでは、今後ともおおいに議論することで死刑廃止の世論を盛り上げて行きましょう。



参考資料 (山本)
2006-10-27 22:33:45
 おわかりでないようなので繰り返して申し上げますが、私はアカデミックな議論で気持ちよくなりたいわけではありません。



 アカデミックな議論をせずとも死刑廃止を効果的に訴えることは可能です。他の多くのブログのように。



 にもかかわらず私があえて持ち出したのはそういった世界からの批判にも耐えうる理論を構築したかったからです。



 そもそも私があなたのブログに批判的なコメントを書いたのは、その内容が結論において同じであるにもかかわらず、その理由において私と同じ論点に触れておりその論点を論ずるに際して『誤り』を伝え、それが私の発言と抵触するから、当ブログにあなたから送られたTBを削除しない限りTBを経由しそちらを閲覧した読者が混乱する可能性があると思ったからです。



 閲覧者からの当ブログへの評価を守るための自己防衛でもあります。



 言葉の定義が違うという問題ではありません。



 結論が同じというだけで削除を躊躇した私にも問題があったとは思います。



 理由のみならず啓蒙という目的やその手段の重要性への認識(表現に誤りを含んでいても「いいのやないですか(笑)」と言えるか否かなど)も異なるのですから。



 私はエントリーで不必要にアカデミックな問題を論じたつもりはありませんが、その後の対応において不注意であったとは思います。



 教授に聞いてくれという皮肉を真に受けて教科書をコピペされても「おおいに議論する」気にはなりません。
参考資料 (東西南北)
2006-10-27 22:35:09
 なんかよくわからないので、質問しておきますね。 (東西南北)



2006-10-14 15:32:29



 ①再審の可能性奪うことの憂慮の背景には「刑事司法への懐疑的姿勢の欠如は国家への過度の信頼の表れでありこれは問題である」というイデオロギーがあります。



 質問:イデオロギーがなければ人間ではないので、イデオロギーがあることは確かですが、言葉とか論理からではなく、冤罪事件の事実から再審の必要性を論ずることもまた然りではないかと。



 で、冤罪事件というのは死刑事件だけではなくて、刑事裁判全体に言えることですので、冤罪・誤判を根拠にして国家の刑罰権を否定していけば刑事裁判システム自体が成立しないのでは?



 いわば懐疑主義というもので、庶民が裁判員になることを断る理由でもありますが、人が人を裁判できるのかどうかということです。



 さらには、山本さんの言うとおり「生命と自由とどちらを重んじるかは一義的でない」のだから、死刑だけを回復不可能な刑罰をすることには無理があり、自由刑と生命刑は共に人権を奪う回復不可能性を持つのであり、やはり、冤罪・誤判論を根拠とする死刑廃止論は刑事裁判そのものの否定へとなっていくのではないでしょうか。



 したがって、死刑廃止論の根拠に冤罪・誤判論は成立しないのではないでしょうか。



参考資料 (山本)
2006-10-27 22:36:31
 誰が国家の刑罰権を否定しました?



 再審による救済の可能性が執行後の死刑<執行中の自由刑ってことわかりませんか??

参考資料。 (東西南北)
2006-10-27 23:09:39
 いや、その観点はわかります。 (東西南北)



2006-10-14 16:19:36



 再審による救済の可能性が執行後の死刑<執行中の自由刑ってことわかりませんか??



 いや、わかります。



 ただ、誤判を根拠にしては死刑などの刑罰を否定できないのではないかという趣旨です。これでいくと、国家の刑罰権を否定することになるのではないかという質問です。なるのか、ならないのか、という質問です。



 で、救済可能性の観点から死刑を廃止するというのはわかります。しかし、それは誤判かどうかに関係なく、人間には救済可能性があるということではないでしょうか。



 この点、山本さんは「死刑廃止論者から主張される理由としてもうひとつ。受刑者の更正の機会を奪うということ(特別予防と言います)が言われます」といっていますが、賛成ですね。



 結局、山本さんの言うように、「死刑を廃止し無期懲役を頂点とする刑罰法規に改め、刑罰とは峻別された教育改善を厳格に見直すことで特別予防を図るべきである」となるのでしょうね。



 国家の絶対的応報刑を退けて、相対的応報刑を考慮しながら、教育刑へとマイルドに移行していくことが、山本さんの言うごとく、「私があえて持ち出したのはそういった世界からの批判にも耐えうる理論を構築したかったから」であり、「閲覧した読者が混乱する可能性なく」、国民合意で死刑を廃止していくただ1つの啓蒙の内容と方法の現実性というか団結性ということでしょうか。







参考資料 (山本)
2006-10-27 23:11:04
 >なるのか、ならないのか



なりません



 >人間には救済可能性



意味がわかりません



 >この点、山本さんは~



私は特別予防が失われることを死刑廃止の直接の理由としていません。むしろ直接の理由としては非力だと言ってます。賛成って??

私の文章ってそんなにムチャクチャかなぁ

なんかへこんできた…



 >相対的応報刑を考慮しながら、教育刑へとマイルドに移行



マイルドすぎます

私の立場から教育刑は認められせん。

というか東西南北さんは刑罰理論の体系を理解しておられない。

もっとはっきり言えば私は「閲覧した読者が混乱する可能性」の要因を東西南北さんのご自身の混乱に基づく発言であると言っています。

もし理解しておられれば新派と古典学派が平行線であるということも理解できているはずで、こんな議論(?)もなかった。

それに死刑廃止を訴えるのに刑罰理論は必ずしも必須ではない。

だからもう止めません?
Unknown (おにやんま)
2006-10-28 01:27:15
 バルミーロさん、はじめまして。



 経験によって、物事に対処する個人の判断が変わるのは、当然に思えます。



 しかしある加害者が死刑制度で殺された場合、全くその事件を経験していない無関係の人間が、死刑制度による新たな殺人に加担することになります(ヘゲモニーの構成員として、ということはできますかね?)。私たちは経験していないことに対して責任をもつことは出来ないと思います。その人間の「経験」というものについて、ロマーノ・グァルディニが『近代の終末』という本に書いています。私ごときが思想的なこと意見するのは生意気なんですが紹介させてください。



「人間の認識の範囲、意欲の範囲、作用の範囲は、それぞれ直接的な有機組織によってとらえられる領域をこえてゆく。それははじめは個別的な事例をとおしてであったが、のちにはその回数がしだいにおおくなり、ついにはすっかり外へこえでてしまう。いまや人間は感覚的に見ることはおろか、表彰することすらできないようなものを、たやすくかれの知的科学的な知識にする。・・・(途中省略)

 その結果として、自然にたいする人間の関係に変化がおこる。それは直接性を失って、抽象的で型にはまったものとなる。体験可能性を失って、即物的で技術的なものとなる。

 その結果として、自分の作ったものにたいする人間の関係にも変化がおこる。これもまたいたるところで間接的、抽象的、かつ即物的なものになる。人間はどこでも、それをもはや実感としてうけとめることはできず、かろうじてなお計算し、制御しうるにとどまる。こうして難問がうまれる。なぜなら、人間とはかれが体験しているものに外ならないからであるーしかるにかれの行為が、もはや自分にとって体験として実をむすぶことができないとすれば、かれはいったい何者であろうか。しかも責任とは、ひとが行為の結果をひきうけることを意味する。すなわち、そのときどきにおこった外界のできごとを、自己の内面に移しうえて、倫理的にうけとめることを意味するーしかるに事のなりゆきがもはや具体的なかたちをとらないで、公式と機械装置のなかに呑みこまれてしまうならば、責任とはいったい何であろうか。」(ページ80~81)



 要するにこういうことだと思います。母親の作ったセーターは大事に出来ても、海の向こうで会ったこともない人が機械で作ったセーターは大事にしようがないではないか。だって、前者のセーターをもし私が気に入らないと言って捨ててしまえば、母親とのギクシャクした関係が発生してそれを捨てたことの代償を受けることになる(そういう意味でそのセーターは彼にとって経験といえる)が、後者のセーターを捨てても、なんの代償も受けずにいられるんだから。ということを言っているのと同じだと思います。ところでそういった範囲を超えた経験ももちろん昔からあったわけで、それに関しては少なくともヨーロッパでは神が保障していたので問題はなかったのでしょう。



 神というものがなくなってしまった以上、経験を経験たらしめるには、理性を信頼するしかないですね。東西南北さんははっきりそれを根拠に据えて発言しておられると思います。なので東西南北さんの態度は正しいと思うのです。



 バルミーロさんも是非ブログを始めてください。私にはちょっと難し過ぎますが、勉強になります。現代思想の成果を社会にフィードするべく意見しておられるのは、凄いことだと思います。私は現状の社会や制度自体がまだよく分かっていないのですが、バルミーロさんは思想はもちろん、いろいろな社会制度にも詳しい方なので、凄いと思います。
おにやんまさんへ。 (東西南北)
2006-10-28 04:43:33
 おにやんまさん、ご無沙汰しておりました。こんにちは。



 「人間とはかれが体験しているものに外ならないからであるーしかるにかれの行為が、もはや自分にとって体験として実をむすぶことができないとすれば、かれはいったい何者であろうか。しかも責任とは、ひとが行為の結果をひきうけることを意味する。すなわち、そのときどきにおこった外界のできごとを、自己の内面に移しうえて、倫理的にうけとめることを意味するーしかるに事のなりゆきがもはや具体的なかたちをとらないで、公式と機械装置のなかに呑みこまれてしまうならば、責任とはいったい何であろうか。」



 ロマーノ・グアルディニさんの問題意識ですね(笑)



 例えば、日本人民の死刑執行対する責任問題で考えてみるに、こうです。



 まず、死刑執行の停止や廃止の意思を表明している諸個人には、完全に責任はないのではないでしょうか?



 次に、死刑執行や存置の意思を表明している諸個人ですが、死刑囚に対しては責任が間違いなく発生すると考えますが、国家権力の死刑執行と存置の制度が、死刑執行・存置賛成の諸個人の意思を規定している面があるから、国家権力に対しては、責任はないと考えます。要は、諸個人は国家権力の死刑制度に騙されていた面があるわけです。



 すると、死刑囚及び諸個人に対して、全面的な責任があるのは国家権力の意思を決定している集団に属する権力者ということになります。



 以上をまとめると、こうなりました。



 ①死刑囚に対する責任は、国家権力の最高意思決定機関に属する者が完全に負うているということ。



 ②死刑執行賛成・存置派の諸個人も国家権力に対しては騙されていたと抗議する権利を持つのであるが、同じ諸個人である死刑囚に対しては、その責任を免れないこと。但し、権力者の制度に騙されていた面をがあるので情状を酌量するべきであること。



 ③死刑執行停止・廃止派の諸個人は死刑囚に対しても、国家権力に対しても責任はなく、国家権力へ抗議する権利を持つことです。
Unknown (おにやんま)
2006-10-28 12:21:19
 二度同じ事を書かせてしまって申し訳ないです。



「死刑執行や存置の意思を表明している諸個人ですが、死刑囚に対しては責任が間違いなく発生すると考えますが、国家権力の死刑執行と存置の制度が、死刑執行・存置賛成の諸個人の意思を規定している面があるから、国家権力に対しては、責任はないと考えます。要は、諸個人は国家権力の死刑制度に騙されていた面があるわけです。」



 これは戦争反対・死刑制度廃止を求めて積極的に活動しておられる東西南北さんだから言えることです。死刑制度や戦争によって、国民として、人を殺害した場合に「国家に騙されていた」として責任が追求されないのでは、いつまでたっても戦争などの国家の暴力は終わらないような気がするんです。ここは厳しく情状酌量の余地はないとすべきだと思います。国家が行った殺人行為に対しては、国民は責任を負うと。死刑存置派は、実際、「自分が制度を利用して人を殺している」とは夢にも考えていないと思います。国家のすることを他人事としてみているのです。国家を自己のなかに内在化させることで、自己を積極的に不安定にし、国家を克服・解体する契機をもつことが必要だと思ってます。ダメかな?
いや、それは基本的に僕と同じですよ (東西南北)
2006-10-28 13:12:38
 主権者意識の自覚・主体性ということですね。しかし、15年戦争の最前線でアジア人民を殺戮した日本軍人は、アジア人民に対する責任を当然にして負うわけですが、国家権力の有無を言わさない暴圧の中で、いわば国家権力の道具として利用されていたというのが本質なので、最前線の日本軍人の自由な意思で決定してアジア人民を殺したということはいえない面がどうしても存在します。



 アジア人民からすれば、それは「あんたら日本人の殺す側のいいわけや」と言われればそのとおりですから、戦争に賛成した日本人民の責任は免れないと考えます。



 が、一般国民には無理やりにでも、戦争に賛成せざるをえないような暴圧が国家権力からかけられていたわけです。暴圧をかけて国民を欺き、従わない者には死刑を頂点とする暴力制裁で臨んだ国家権力者らの戦争責任と一般国民の戦争責任を同列で論じることはできない道理です。



 戦争に賛成させられた日本人民には、殺されたアジア人民に対して責任はあるのですが、そうした戦争犯罪を実現せざるをえない恐るべき背景があることも事実ですので、情状酌量は認めるべきでしょう。



 他方で、日本国家の権力者らについては完全に戦争責任が認められるわけで、情状酌量のかけらなど微塵もないわけです。



 アジア人民に対してはもちろんのこと、最前線で人殺しの道具にされた日本軍人に対しても、戦争で人権を抑圧された一般国民にたいしても、日本国家の権力者らの戦争責任は不可避なわけです。



 したがって、今現在、戦争責任論や死刑廃止論を含む政治論議をする意義は、社会生活における諸悪の根源は国家権力にあるという認識を固めていく方向で死刑廃止論なり戦争責任論を展開していくことで、まっとうな主権者の主体性としての人格は徐々に完成へ向かっていくのだと考えております。
Unknown (おにやんま)
2006-10-28 23:05:25
返事ありがとうございます。全くその通りですね。15年戦争を、日本国民が過去のものとして相対化し克服したのだということを、これから国民一人ひとりで表現していかなければならないですね。
いやあ、一致できてうれしいです。 (東西南北)
2006-10-28 23:27:01
 今更になって、日本国憲法は「おしつけ」られたというとうな人物が日本政府にあるし、野党議員にもいるわけです。



 結局、十五年戦争を日本政府の戦争責任として、自主的に反省したわけではないと表明しているわけです。「おしつけ」われたから、いやいや反省して、憲法という「反省文」を書いたんだということでしょう?



 こんな現状ですから、日本国民一人一人が、自らの魂の認識として自主独立したうえで、三権の権力者と公務員に対しては、憲法を完全に実施させるように要求していくことが、アジア人民への反省を態度で示すことになると考えております。



 日本国民は憲法を完全に実施させねばならず、憲法を実現する常日頃の労働と生活と政治運動をすることが人格の完成へ向かう道だし、民主主義と戦争放棄の軌道であります。



 教育基本法改定、憲法改定など不要であります。



 



 
死刑根絶のヒント (真鍋)
2007-04-25 04:18:52
「殺人事件の被害者は、誰一人として自己の意思で殺されたわけではない。
 一方、すべての死刑囚は、自己の意思によって死刑となるような、重い犯罪を回避するという選択肢を選べた。」

 岡村 勲 
 全国犯罪被害者の会代表幹事・元日弁連副会長



「死刑になるかもしれないと知っておきながら
 なぜこのテキサスで人殺しなんかしたんだ?」

 ジョージ・W・ブッシュ
 第43代米国大統領・当時テキサス州知事
 (※死刑に反対する人権団体の抗議に対し)
はじめまして。 (東西南北)
2007-04-27 00:58:51
 コメサンクスです。犯罪被害者の救済を国家の財政出動をしてでも福祉的に実現しながら、死刑の犯罪抑止力は幻想だと草の根から対話運動していき死刑賛成派の議員を落選させることですね?

 最大の刑事政策は福祉政策であるということです。そいでは、今後ともよろしくです。
そこの(・_・)σアナタ (さくやこの花)
2007-06-12 21:54:10
「つまり、死刑とは国家権力を手段とする人間の殺し合いである」

この定義をした時点で、筆者が法を根本的に理解していないことに気付いた(・_・)σアナタ 

たいして偉い発見でもないですが褒めておきましょう。
さくやこの花さんへ (東西南北)
2007-06-12 22:06:41
 はじめまして。どうもです。

 「この定義をした時点で、筆者が法を根本的に理解していないことに気付いた(・_・)σアナタ」

 法とは人間の幸福を実現する社会規範である、と定義すれば死刑は法ではないですね?しかし、法とは国家権力を背景とする強制力である、とすると死刑は法ですね?要は、法の定義を国家権力の側から規定するか、人民の側から規定するかで相対的なのでしょう。

 でわ。 
質問ですが・・・。 (doidoi)
2009-10-18 19:01:39
 ざっと当該ページを拝見いたしました。結論的には「死刑廃止」について納得できませんでした・・・。勿論当方の法的理解力の問題は否定いたしません。ただ感じますことは・・・皆さんが仰る内容は徹底して「法」の立場に基づいており、「違法か?合法か?」のお話になっております!その法自体、「社会秩序」を保つことを目的として人間が創ったものです。ですからその目的を達成するための「最善の選択」がなされねばなりませんし、それを達成できないあるいは阻害する場合は法自体の見直しも必要とされるべきです。
 昭和30年代、昭和40年代・・・と10年毎の死刑執行の件数のデータを見たことがあります。昭和60年代に向けて極めて顕著に死刑執行件数が激減しております。(それ以降徐々(非常に緩やかに)に増加傾向にありますが・・・)このことに明確な因果関係があるかどうかは説明できませんが、今日の凶悪犯罪の増加・殺人の低年齢化に何か意味があるのでは・・・とさえ感じております。
 もし皆さんが今後も「死刑廃止」を目指すのであれば、少なくとも「被害者のご遺族」にそのこと(「死刑廃止」)をご納得頂けるような説明がなされるべきだと思います。(特に殺人の再犯の場合です。)それが実現可能であるなら私も再度「死刑廃止」を考えてみたいと思います。
 最後に、「死刑は国家権力を手段とする人間の殺し合いである」ではなくて「国家権力を手段とする復讐の連鎖を断ち切るもの」だと思います!
 勝手に訪問させていただき、好きなことを欠かさせていただきましたので、不快なこととは存じますが、一つの意見としてお聞き下さいませ。ありがとうございました。

 そして一番気になることは、皆さんが「法的論争を楽しみ、異論を唱えるビジターを論破することにより優越感を味わっておられる」と言うことです。非常に「不愉快」です!
 
doidoiさんへ。 (東西南北)
2009-10-20 18:59:34
 はじめまして。

 まず、論破という点ですが、死刑執行を停止するか執行するか、という問題を議論していますので、単なる議論ではないという点を理解してください。

 死刑執行に反対しないということは、直ちに執行もやむをえないということになります。これが議論の責任です。

 次に、死刑は人間が人間を殺すことですから、完全に殺し合いです。復習の連鎖を断ち切るためと問いう目的があったとしても手段としての人殺しを正当化することはできません。

 次に、再犯についてですが、再犯しない場合もあるのであって、再犯するかもしれないということで人の生命を断絶してはならないということです。

 再犯があったとしても、それは具体的な予測は不可能なのであって、あくまでも一般的な犯罪防止策にか講じることはできません。刑事政策の限界です。さもなくば、予防拘禁復活となり思想弾圧を招くでしょう。

 最後に、死刑執行は、紛れもなく人間による人間の殺人であって、正当防衛でもないにもかかわらず、人命を断絶する行為であるから正当化できません。

 無期懲役刑の運用を改めることで対応するしかないでしょう。

 
Unknown (通りすがり)
2009-10-20 20:47:26
私は、山口母子殺人事件の福田孝行に対する死刑判決を支持します。
自分も・・・ (すーちゃん)
2009-10-21 05:02:40
福田孝行に対しては死刑しかあり得ないと思います。

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