考えるための道具箱

Thinking tool box

舞城王太郎は、村上春樹ではないか?

2005-01-24 23:37:45 | ◎書
と、愚にもつかない仮説をたててみる。もちろんこれは、「ピンチョンは、サリンジャーではないか」という風評を下敷きにしているわけだ。

先週、仕事がかなりキツかったにもかかわらず、この数年めったにかかることのなかたひどい風邪をひいてしまい、どこかの三門越しに川がみえるすれすれの恐怖を味わったのだが、そんなさなかにもかかわらず、『煙か土か食い物』『熊の場所』を枕元においてしまったため、「恐怖」というものを深く考えざるをえなくなりなり、結果として妄想に点火し、肥大が加速している。

もちろんサリンジャー=ピンチョン説については、すでに『サリンジャーをつかまえて』(イアン・ハミルトン)などにより、ゴシップ以外のなにものでもないことが明らかにされている。にもかかわらず、この説がある程度の信憑性をもってしまうのは、両者が隠遁者であることはもちろんだが、それ以上に共通するのは両者を貫く「人間をとりまく得体の知れない何か」の追求というテーマだろう。

ピンチョンの場合は、それは端的に「陰謀」という形で、市井の個人を翻弄していくということになる。結果、個人はその「陰謀」に強いオブセッションを感じながらも、それを受け入れ、対峙していくなかで、ある種、偏執狂化していく。かたや、サリンジャーは(サリンジャーについては深読みしていないのでえらそうなことはまったくいえませんが)、普通の生活に突然切り込む「狂気」を描き、そのなかで、個人は自棄したり、ときには自裁していく。どちらの場合も、もの凄く恐ろしい「得たいの知れない何か」を書き出していて、両者ともその「恐怖」は人の中に潜むものであることを明示している。

「恐怖」の克服にあたっては、ピンチョンの場合は希望的にいくつかの方法を提示しているかにみえ、サリンジャーの場合は絶望的な諦念を提示しているかにみえるが、しかし、前者は結局のところ業のような抗えなさを露呈することになるし、後者は最終的な答えは出さずに一抹の光の可能性を残す。ここにあるのは、どちらがどうか?という判断はつけることができないものの、まさに、ダーク・サイドとライト・サイドの関係だ。
ダーク・サイドとライト・サイドは最終的にはどちらが正しいかもわからない。少なくとも、その世界に足を踏み入れてみる必要はある。これがつまり、ピンチョンとして答えが出せなかったものをサリンジャーとして書き、サリンジャーとして答えが出せなかったものをピンチョンとして書く、ということになる。そうしながら、相互を滋養にしながら、「得たいの知れない何か」への耐力を見出していく。こういった2つの顔の関係性は、あってもおかしくはない。

翻って、日本の二人を考えてみたとき、隠遁者である舞城と隠遁者的である村上という関係以上のものが見出せそうな気がしてきた。「得たいの知れない恐怖」に対抗するための答えを見つけたかのようにみえる舞城と、その答えをもたもたと見つけ出せないかのように見える村上。動的で俗っぽい物語の中に静的な時間を埋め込む舞城と、静的でクールな物語の中に燃える欲動を配置する村上。そして、暴力、NDE、異界などの共通項。

さて、いかがなもんでしょう。風邪が抜けきったら、考えてみたいテーマですね。まあ、どこかの人が考えつくしたあとかもしれないけれど。



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