考えるための道具箱

Thinking tool box

◎『経済成長という病』。

2009-04-29 19:02:47 | ◎読
いまこの時間の帯のうえに自分がいるということを認め、その位置を少し俯瞰して眺め、歴史の教科書を記述するようにクールにドライに理解する必要があるんじゃないだろうか。平川克美氏の『経済成長という病』を読んで、そんなことを考えた。

これはいま私たちのおかれている状況をうまく評論してみようとする企みでもないし、もちろん人ごとのように客観視するためでもない。いっぽうで、この危機の因果を分析して来るべき未来に備えようとか、まことしやかにささやかれているチャンスをしっかり見極め、掴むために、といった不遜な動機でもない。そんなことの不毛さは、平川氏が明示している。

<なにごとであれ、それが将来どうなるのかについて確定的に語ることなどできはしない。それは、世界が複雑にできているからだということではない。現在の世界を導いてきた原因と考えられるものを拾い出すことはできても、それが確かに原因であったと証明することが原理的にできないような世界に私たちが生きているからである。
事故であれ、紛争であれ、戦争であれ、それらに至るまでにはいくつかの相関する出来事が先行して起こったと述べることは可能である。しかし、どこまでいってもこれらの相関関係が、因果関係に変わりうることはない。ましてや、未来の出来事を予想するために参照すべき過去の事例を見出すことなどできるはずもない。>


有史においては、このたびの経済と世界の危機は、たとえそれが100年に1度の大事であったと認められたとしても、わずか一瞬の泡沫に過ぎない。通史の記述という限られた字数のなかでコンパクトにまとめられたとき、この時代の日本や世界はどのように語られるのだろうか。主観や意見が省かれたとき、一連の事象はどう記述されるのだろうか。そして、捲られたページに書かれた、次の時代への接続詞は「しかし」なのか「さらに」なのか「よって」なのか。そして、クールに時代の意味をとらえ、浮き足立つのでもなく、立ち止まるのでも引き返すのでもなく、自分が信じるものをくっきりとしておきたい。
こういったことに思いをめぐらせる必要があるんじゃないか、ということだ。

先の引用に続き、平川氏は語る。

<要因と結果の間の相関関係を決定付けるのはロジックの精度ではなく、信憑性の強度である他はない。私が信憑というのはそういう意味であり、語りえないことを語りうるには、どこかで信憑を味方に付ける必要がある。>

信憑を支える信を明確に腹に持つ。そして、「本当のことを言うと殺される。けれども俺はこれからは本当のことしか言わない」。この決意が大いに後押しされた。

『経済成長という病』に与えられた達観は、もうひとつある。先の話を受けることにもなるのだけれど、それは、自分がほんとうに信じない言葉、自分のものではない言葉や考え方を、イージーに使わないということだ。とりわけこの20年の間、時代のムードにあおられ、そんな言葉を幾度となく使ってきた。たとえば、こんな言葉だ。

<多様性。国際性。市場性。実効性。自己責任。自己実現。これらは一連のマインドセットであり、グローバル化する世界の中で、市場競争に打ち勝つために必要な経済合理性を担保する思考方法を構成する特徴的なワーディングなのである。>

これらの言葉を金輪際使わない、ということではない。共同幻想に身をおいている以上は、物事を動かすために避けられないことも多いだろう。しかし、そういった局面においても、これらの言葉を使う不面目と含羞を自覚しておきたい。たかが言葉、の問題ではない。言葉についての軽率と不確かさによる累は、古井由吉が小文「言葉の失せた世界」で指摘するとおりだ。

<おそらくその道のエキスパートたちが集まって、なぜ、初めから破綻ふくみと知れるはずの信用拡大へ走ったのか、といまさら呆れる人がいる。……つられて、言葉のはたらきも失せる世界があるのかもしれない、と私は考えた。
端的な話、初めにサブプライムローンなる言葉があり、信用貸しの危険度を示す用語であるらしいが、これを低所得者向けの高利金融という実の見える名で呼んでいれば、それ自体すでに破綻ふくみであり、膨張によってのみ維持され、いずれ限界に至るということは、意識からはずれかなかったのではないか。このように実体をむしろ塞ぐ用語の、しかもつぎつぎの新造に、実業と言われる世界が描きまわされたその結果が、このたびの破綻ではないか。(『図書』5月号)>

#
『経済成長という病』には、他者、多様性、人間分類への戒めについても、きわめて道理になかった議論が展開されている。つまり「本当のこと」だ。それについては、また別途……と言っても約束は果たせそうもないので、いくつかの寸鉄を引いておく。

<人間はもともと多様でわけのわからない存在だと、常々私は思っている。自分のこともよくわらかない。わけのわからない人間を異人として排除するのが日本の社会のひとつの特徴である。……どうしてか。そうでないと、人物判断の処方箋が書けないからである。評価ができない。標準化しないと、生産性が上がらない。標準化の名の下に、効率化の名の下にこの傾向に拍車がかかる。>

<影のない人間を、私は信じない。いや、影のない人間がいるこということが信じられないのである。ほんとうは、軽薄も貪欲も、高貴も下劣も、馬鹿も利巧も、一人の人間の中に棲んでいたものである。自分が自分であることを確認するということは、他者の中にあるこういった要素と対話することに他ならない。そうやって人間は、自分の中の多様性を発見する。
「わけのわからなさ」には意味がある。ひとりひとりが、分割されて、お互いに交通することをしなくなるということを称して「多様化の時代」というなら、それは人間の本質的な多様性というものの価値を断念した時代という他はない。>

<リアルなものとは時間的・空間的に無限の多様性をもつ世界である。時折相手はえもいわれぬ表情をする。この表情には形容する言葉がない。それでも、それが何を意味しているのかについて、私たちの感覚は補足することができるのである。受話器の向こう側から届けられる声にも、この変化の残滓を聞き分けることはできる。しかし、多くの場合それは声が大きいか小さいか、高いか低いか、ノイジーかクリアかといった二分法的な差異でしかない。それはほとんど音声データのカテゴリーであり、現実の縮減モデルなのである。
問題はこの先にある。この習慣を繰り返しているうちに、人間は往々にして、縮減化されたモデルによってしか、表現することができなくなる。あるいは他者をカテゴライズすることに慣れきってしまう。>
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