浦西孝浩の活動日記

活動の記録

浦西慶一の生きた時間を振り返って

2016-02-16 17:11:14 | 日記

浦西慶一の生きた時間を振り返って

 1981.5.22 ~ 2016.2.10

葬儀の時に、慶一の生きた時間の一端を紹介させていただきました。

慶一は二月に入り、ちょっと痰が肺に詰まった感じがしているので予定していた常呂厚生病院の外科の診察のついでに、大事を取って山下院長に診てもらおうね。と9日に打ち合わせをして、その受診当日10日の朝、心筋梗塞による急性心不全で、いつもの優しい寝顔のまま次のステージへと旅立ってしまいました。

慶一は昭和56年5月に北見赤十字病院で生まれました。生後まもなく障がいの可能性があると医師に告げられ、幼少期は病弱だったこととリハビリにより三歳頃までは入退院の繰り返しでした。そして当時暮らしていた別海町から昭和59年4月に実家である常呂町に移り住みました。 

学齢期は障がいがあるので網走養護学校に在籍し、自宅に先生が来て学ぶ訪問学級から始まり、中学三年の秋からは網走市の呼人にある学校へと夫婦、交代で車を運転して高等部卒業まで通学、同じ障がいを抱える仲間たちと学びました。在学中の95年の秋には、亡き父の友人である土佐の茂さんの畑で養護学校訪問学級の仲間たちと土に触れジャガイモの収穫を楽しんだ懐かしい思いでもあります。

 

慶一は、寝たきりで歩くことも座ることも、そして会話もできない、食べることも、排せつも、人の手を借りなければ生きることはできない四肢体不自由児ではありましたが、その障がいがあることで、実は私たち親に多くの人たちとの出会いを創ってくれました。そして私や家族、そして関わる周りの人たちに多くの気づきを、楽しい思い出とともに与えてくれました。

養護学校高等部の頃、97年には町内福山地区のみなさんと一緒に山から一本の柏ナラの大木を切り出し、野山を駆ける鹿の皮を使って13個の太鼓をつくりました。

 

その中のひとつを今日、祭壇に飾らせていただきました。平和の象徴・ピース太鼓です。実はこのピース太鼓の制作に、慶一と親子で加わり、とんとんと太鼓の筒を削りました。そして完成したピース太鼓は、「けいちゃん」あなたです。と制作者の砂川正和さんと沢田としきさんからプレゼントされたものです。今では我が家の宝物です。

太鼓の内側にメッセージも

 

養護学校を卒業後は、在宅の暮らしに変わりましたが、週に一度の美幌療育病院でのリハビリにより体調維持に努めながら、週に数日、地元の夢ふうせんのヘルパーさんに来てもらい、人とふれあう生活を送っていました。

そして20代

二十歳の成人式。学校は違えど同学年の地元の子どもたちが、一緒に成人を祝おうと我が家まで迎えに来てくれたのですが、その時は、よほどのプレッシャーだったのか。朝からまったく眠りから覚めずでとうとう式は欠席し夕方、目が覚めるというプレッシャーに弱い一面を私たちに教えてくれました。本人にすれば人には人には知られたくない苦笑いな想いでかもしれませんが、実は、このことが、その後、同級の女の子との年に一度の交流につながりました。ちょうど、明日はバレンタインデーですが成人式に一緒に参加をと呼び掛けてくれたmikuさんからは、そのご、毎年、バレンタインの時、毎年、当日か前日にチョコレートが届いています。

 

 

2008年5月 信頼を寄せる在宅介護士のカズさんと慶一、私の男3人で、沖縄の水族館で大きなサメを見上げる冒険珍道中もできました。

 

STVテレビで慶一の日常生活を放送したこともありました。

 

2012.5.5には 北見地区農道空港で 4人乗り軽飛行機で大空散歩。母と妹を連れてチャレンジ!

飛んで、飛んで、ワオ〜ッだったね。

青い池 姪の佳笑と

サロマ湖2014年秋 サンゴ草群生地 

サロマ湖ウルトラマラソン50キロ出場記念の大根と。今年は父もチャレンジ予定。

 とうさん、キヨシロ〜がテレビに出てるぜ〜!!と、教えてくれた。

2015年は札幌に暮らす学生の妹のところと常呂を母と行ったり来たりが多かったのですが、戦後70年を迎えた昨年は、私たち親二人が参加する美瑛町のマラソン大会で妹たちと家族一緒に応援してくれたり、九月には、母がお気に入りのシンガーソングライターの沢知恵さんの「こころの教室ライブ」を最前列で母と一緒に楽しんだりもできました。

沢さんの歌は、どれも 「われ問う」。慶一が何を私に、社会に問いかけていたのか。それを抱きしめてのこれからだな。しばし上昇気流の風と出会うまで沢さんの歌を聴いて充電。

 

慶一の生きた時間は、ちょうど戦後の半分ほどです。少しずつ国の障がい福祉も前に進んではいますが、法律だけでは人の心は動きません。

横浜の日本最初の重症児の通所施設「朋」の初代施設長・日浦美智江さんが教えてくれたデンマークの諺

「見えないものは思わない」

訪問の家・朋は、今年、30周年を迎えたそうです。一人はみんなのために。みんなは一人のために。慶一と同じような重度重複障がいの人たちが横浜市栄区の文化を創ってきた。すばらしいです。

 

慶一は、障がいが重くても、周りの人たちの支援をいただきながら、自分のできる範囲で同じ地域の人、全国各地の人と出会い、そのご縁を大切にして常呂に暮らす楽しさと喜びを味わっていました。

 

今年に入ってからは、1月23日に北見市内で上映した障がい者のドキュメント映画「ぼくは写真で世界とつながる」の制作スタッフを我が家に招いての懇談の場にも加わり、挿入歌「あおぞら」を唄うCHIHARUさんのミニライブを母とともに楽しめたことができました。その歌詞を今、目で追ってみて、どれだけ旅たちへのはなむけになったことだろうかと、振り返って思います。貞末さん、梨木さん、chiharuさん、ありがとうね。葬儀では出棺の時にchiharuさんのCDから「あおぞら」と「春」をBGMに流しました。

貞末さんにやってもらったんです。

 

 

先ほど紹介した慶一も参加した太鼓づくりの時のお話ですが

その指導をいただいたアフリカンドラム奏者として、当時は日本の第一人者として活躍していた今は亡き砂川正和さんは、西アフリカに伝わる太鼓、一般的に「ジンベ」と呼ばれる太鼓の語源について教えてくれました。

本来の名前は「ジェベバラ」と言い、その語源はモノとしての固有名詞ではなく 「調和」 を意味するそうです。太鼓を中心に集いコミュニケーションを図る人の輪。人と人との関わりを語る時、自分と同じ人は存在しない。能力や考え方の違いもあれば、同じことをやっていても人それぞれ感じ方は違います。障がいも含め、人それぞれの個性を、ひとつの命として認め合い、助け合う中で、今、生きる「場」は調和して形づくられている。同じことをする人や同じことをできる人ばかりが集まっても地域社会は成り立たないんだよ。・・・・そんなお話を太鼓づくりの最中に砂川さんは教えてくれました。

 

慶一は、働いてお金を得ることはもちろん、人との会話もできませんでしたが、私たちの背中を押して人と人をつなげて良い方向に導く。そんな目には映らない大きな役割を確かに担ってくれていました。そのことを、私たち家族と、みなさんと同じように「普通に今を生きながら」やってくれていました。

こうやって慶一の生きた時間を振り返ってみて、あらためて私は親として育てられ、今、いろいろな立場で活動することができていることを実感しています。私には過ちも失敗もあります。反省し、立ち直ろうとする力を与えてくれたのも慶一であり、かけがえのない家族です。

 これからは、何よりも慶一に優しかったおじいちゃん、太鼓や絵で出会った砂川さんや沢田さん、そして同じように、障がいにより生きる時間の短かった仲間たちとともに、天上の国で太鼓を囲み、唄い、踊り、楽しむのかもしれません。

そして同じ障がいを抱える人たちへと、オホーツクのあおぞらのような優しい光を放って見守ってくれると思います。そんな慶一のちからいっぱい生き切った34年の人生でした。

 

最後に、先ほど紹介したミクさんからのメッセージを紹介させていただきます。

 慶一君へ

 こんなに早く慶一君に手紙を書くとは思っていなかったです。いつもずぼらな私が、今年に限って一週間も前にチョコを贈ったのは何か知らせてくれていたのかな・・・。一年に一度、あなたにお手紙を書くことが私にとって何よりの時間でした。誰に宛てるよりも素直になれる気がしたから。いつも受け止めてくれてありがとう。

ホワイトデーにチークをくれたのを覚えていますか?とてもすてきな色で大事に使っていました。「慶一君って友達にもらったんだよ」って自慢したら、後輩が羨ましがって一度、そのチークを貸したことがあったんだ。彼女もとても気に入って今でもそのブランドのものを使っています。慶一君のことも覚えていた。「運命のチークを知るきっかけになった人だから忘れない」って言ってたよ。

慶一君、人は自分の知らないところで誰かの人生に影響を与えるもんなんだね。そして、これからも慶一君の生きた証がたくさんに人の心に残り続けていくのだと思います。もちろん、私の心にも。

会いに行けなくてごめんなさい。

どうかこれからも天国で見守っていてね。慶一君に笑われないように私も頑張って生きていくよ。今まで本当にありがとう。

 

いただいたチョコは、14日に慶一に変わり、家族みんなでいただきました。美味しかったよ。

 

初七日に 「わたし前例になる!」と、前向きな車いすと気管切開の歌姫 京都から青野浩美さんと、関西重症児応援団長の鉄人ランナー 李国本修慈さんが来てくれました。

2015年6月。美瑛マラソンに参加した鉄人 李国本さんと温泉を楽しむ。

今年も一緒に。を、予定していたんだけどな〜。

この室内専用いすのオーナーは、もういません。

みなさんに、障がいの有る無しに関わらず、身近に暮らしていた一人の青年の人生、存在を、こころに置きとめていただければと思うところです。

 

葬儀でお話したことを中心に慶一の生きた時間の一端を紹介させていただきました。

 

慶一に贈る最後の曲は、一緒に唄いながら酒を飲もうかと話していた歌

スカンピン (鈴木慶一作詞・作曲)

 

俺たち、いつまでも、星屑拾うルンペン

夜霧の片隅に、今日も吹き溜まる

湯水のように、金を使ってみたい

愛する君のために、いついつまでも

明日はジゴロかペテン師か

爪に灯をともし

暗い夜空に手をかざして

わが身を占えば

俺たちいつまでも悲しみ集めるルンペン

破れた恋や夢を今日も売り歩く

サア、煙草に火を点けて何処へ、何処へゆこう

サア、煙草の煙をくゆらせて、何処へ何処へゆこう

スカンピン、スカンピン、俺たちは

スカンピン、スカンピン、いつまでも

 

俺たちスカンピンのブルーカラ〜〜!!

 

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1 コメント

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Unknown (井上 聡)
2016-02-17 12:14:09
美幌の井上と申します。先月の連絡協議会の式典には大変お世話になりました。 この度の訃報にただただ驚いております。
慶一様のご冥福を心からお祈り申し上げます。

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