しろさんが帰ってきて緊張が解け、風邪気味な私です。
解離性同一性障害の私にとって、1日中ひとりで何日も過ごすことは恐怖でもあります。
なぜかしろさんが夜仕事から帰ってくると自分に戻り解離する事が無いからです。
昼間ふっと記憶のない時間があり、家の中がめちゃめちゃになっていたり、ベランダの手摺りに登っていて気付いたり、寒いのに裸になっていたり、泣いていたりしているのですが、しろさんが家にいる時にはそれらの症状は出ません。
緊張するせいなのか、見張りの人がいるからなのか、なぜだかよくわからないのですが。
幻覚や幻聴だけで済んでいます。
何事もなかったかのように過ごす事が出来ます。
しろさんが何日も帰らないと自分が自分でない時間が際限なく続くわけで、何をしでかすかわからない状態です。
自分の事が怖いです。
我に帰った時に何が起きているのか、誰になっていたのかがわからず、ただ荒れた部屋を黙って片付けるしかなくて・・。
1日中じゃなくても、家に誰かが居てくれるというのは私にとってとても重要です。
出張中めちゃめちゃだった自分が、夜しろさんが帰ってくると自分のままでいられます。
助かります。
その分しろさんは私の解離状態を見ることはないので病気をなかなか理解してもらう事が難しく、言葉で伝えるしかないのですが、私も記憶がすっぽ抜けている状態なのでうまく説明が出来ずにいます。
しろさんや猫たちに今は害を与えていないだけ有り難いのですが、いつか居る時に何かしでかしてしまったらと考えると身が凍ります。
出張中行かれなかった病院に、週明けは必ず行こうと思っています。
薬も切らしてしまったし、先生にも話したいことはたくさんあります。
なんとかこの病気と向き合っていかなければ・・。
これ以上酷くならないよう、そして膿を出し切ってしまうことが今年の目標でもあります。
私が病気だからずっと出張を断っていてくれたしろさんですがどうしても家を空ける事になってしまい、でもそれがきっかけで見えてきたものもあります。
解離性同一性障害はひとりで暮らしているとどんどん悪くなる気がします。
リセットする機会がないからです。
それをどうにかしてひとりでもやっていける方法を見つけたいと思います。
今朝、無事にしろさんが帰ってきました。
駅まで迎えに行きましたが、会った瞬間とても嬉しかったです。
安心しました。
ひとりで家にいるのは、強迫性障害が酷い私にとって非常に辛いものがあります。
毎晩何時間もかけて家の中をぐるぐると、戸締りやらガスの元栓やらを何度も何度も確認して回る作業が続いていました。
買い物に出かけても心配で、2、3件回らなきゃならないところを1件づつで戻ってきたりしていました。
家が燃えてたらどうしようとか、元栓しめたかな、鍵は本当にちゃんとかかってるだろうかと不安で不安で仕方なく、取り憑かれたようにまた家に戻ってしまいます。
しろさんが家にいる間は、それが軽減され一回りくらいで済むのですがひとりだとどうにもなりません。
そういった面でも疲弊していたので、帰ってきてくれて本当に安心しました。
よかったです。
今日はすごく寒いので、シチューを作ります。
前回コーンスープみたいに薄いシチューになってしまったので、今度は頑張ります。
料理がさっぱり出来ないので、ちょっと勉強しようかと思っています。
出張中に、産まれて初めて「ゆで卵」を作りました。
何度も失敗して、やっと出来るようになったところです。
私をとても心配してくださり、応援してくださったみなさん、ありがとうございました。
またしろさんはタイへしばらくしてから行かなきゃならないけれど、ちょっとの間は安心です。
本当にありがとう。
しろさんの出張が1日か2日延長する事になりました。
トラブルがあったことを聞き、励まして電話を切りました。
本当はだいぶ私もしょんぼりしていますが、しろさんの方が現地で頑張っているので仕方ありません。
ここまで来たんだから、少しくらい延びてもなんとか頑張ろうと思っています。
ちょっと鬱が酷くなっていて、今日も通院日だったのに先週に引き続き行かれませんでした。
ひとりだとダメですね。寝たきりになってしまいます。
行かれない時でどうしても薬が無い時は、しろさんに有給休暇を取ってもらって病院に連れて行ってもらっていたので、今みたいにひとりの時で自力で動けない状態だと薬が無くても通院できずにいます。
残っている薬を半分に割って夜だけ少しづつ飲んでいます。
しろさんをいかに頼りにしていたかも今回よくわかりました。
ひとりじゃ私は病気と闘う事も生活もままならない。
どれだけ助けられていたか実感しています。
情けないけれど、これが実態です。
ひとりでも大丈夫になりたいけれど、まだまだ時間がかかりそうです。
とりあえず今回の出張はいつ帰ってくるかわからないけれど、1日づつ日にちを重ねて行くしかありません。
もう少しだけ、頑張ります。
しろさんが帰ってくるまで、あと半分になりました。
どうにかやっています。
猫たちがいてくれるのが大きいかな。
特に、完全なお父さん子だった翔ちゃんが、私から逃げなくなったどころか私の布団に潜り込んできて一緒に枕をして寝ているようになりました。
いつもしろさんにしていることです。
ぽっちはいつも私と寝ているんだけど、翔ちゃんよっぽど淋しかったのかな。
翔ちゃんが家に来たのは、しろさんの「生き物と暮らしたい」という強い気持ちからでした。
私はまだ1年以上経ってもまぁちゃんへの喪失感と、まぁちゃん以外の猫は考えられないという気持ちでいっぱいでしたが、しろさんの想いを汲んで翔ちゃんを決めました。
でも、どうしてもかわいがれなかった。
決して虐めたりしたことはないけれど、小さな翔ちゃんを抱いたり遊んであげたりすることがどうしても出来なかった。
まぁちゃんとは違う!という思いばかりが溢れ、まぁちゃんを想って逆に泣いてばかりいました。
今翔ちゃんは私の膝の上に居ます。
しろさんが帰ってきたらまた変わるだろうけれど、今はごめんねの気持ちでいっぱいです。
私の気持ちの整理をちゃんとつけて、翔ちゃんを小さい頃にもっとかわいがってあげていればよかったなって思っています。
ごめんね、翔ちゃん。
明日の朝も、一緒に寝ててくれるかな。
しろさんが昨日の朝から海外出張です。
帰ってくるのは2月8日の予定。
長いです・・。
普段から日常生活のほとんどをしろさんの介助を必要としているので非常に困っています。
食事の用意もしろさんがしてくれていたし、お風呂に入って洗ってもらっていたし、大変です。
朝のトーストを焼くことは出来ます。でもそれだけ。
今朝、しろさんから電話があって「病院へ行くように」言われて、通院日だったので行きました。
先生も、猫たちがいなければ出張中入院させるんだけれど・・と言っていましたが、ぽっち達のごはんとトイレ掃除があるので家を開けるわけにはいきません。
しろさんが帰ってくるまで、無事に猫たちが元気に過ごしていなければ・・と責任重大です。
明日はなんの予定もないので、1日猫たちとぐずぐずしていようと思っています。
明後日はリハビリ。だから、明日の夜は何としても自力でお風呂に入らねばなりません。
ヘルパーさんを頼めたらいいのにな。
自分の為のこととなると全くやる気が起きず、なにも出来ないので食事や外出やお風呂なども無理になってしまい、どんどんひきこもりがちになり落ち込んでいきます。
まだ2日目なのに、この家の静けさや妙な広さに居心地が悪く、辛くなっています。
なんとか頑張らねば。
昨日、親不知を抜いてきました。
1か月ほど前から歯茎が腫れていて、奥歯との境目が痛かったのですが歯茎が腫れている状態だと抜歯は出来ないとのことで昨日になりました。
親不知って大きいんですね。抜けた歯を見てびっくりしました。
そして、今日になったらぷくーっと頬が腫れて・・
口が開かず、うまく食事が出来ません。
消毒しに歯医者さんに行ったんだけど、あとは傷み止めの薬のみ。
来週抜糸です。
抜こう抜こうと先生と相談しつつ先延ばしにして何年も経ってしまっていたけれど、やっぱり若いうちに抜いておくべきだとつくづく感じました。
歯茎が下がってしまったらもう元には戻らないと言うし、抜いた後の歯茎が戻るのにも時間がかかるでしょう。
早く腫れが引いて、なんとか歯茎が戻ってほしいと願うばかりです。
妹がタイへ行ってしまってから1年が経ちました。
自分でも気付かないうちに「責任」のようなものが「重圧」となっていたのかもしれません。
妹は生前の父ともメールをしたり、母とも連絡を取ったりしていました。
私は全くしていなかったけれど。
でも、妹が行ってしまってからは、「今度は私がしなきゃいけない」という思いが強く出てきました。
親を気遣っていた妹は海外ですから、そうそう国際電話が出来るわけではありません。
代わりに私が母の様子を把握するため連絡を取らなきゃいけないなぁと思っていました。
週に何度かは母に電話をし、スカイプで妹に様子を知らせたりしていました。
しかし、母は電話で毎回「お金が無い」と言うようになりました。
私は以前から母に生活保護を受けたらどうかと薦めてきました。
母の年金は2カ月で2万円しかないからです。
実家を売った時のお金を父と折半したお金を切り崩しながら今まで生活をしてきていました。
私は、自分が生活保護課に何度も通ったこともあり制度もよくわかっているので、母に説明をしながら電話でも何度も保護受給を薦めてきました。
最近特に「お金が無い」と言うようになったので、24日から母宅へ行ってきました。
緊迫しているのなら、実際に会って顔を見ながら説明した方がいいと思ったからです。
でも、母からの答えは予想どおりでした。
プライドが高く、世間体が第一で、見栄っ張りな人ですから、やっぱりねって感じです。
「役場の人たちにバレるじゃないの」「兄弟に知られるじゃないの」
兄弟は、わかります。けど、役場の方々にまで、なぜ?
知られるのが嫌なんだと、その一点張りでどうしようもなくなるまでこのまま続けるそうです。
どうしようもなくなったら、あんたに言うかもしれないけど・・と言っていました。
言われても困るんだけどね。
父に養ってもらってもらい、自分で働いて生計を立てると言う事をした事が無い人なので誰かがどうにかしてくれるという考えしかないようです。
そして、いつ死んでもいいとばかり口にします。
母は、私が杖をついて歩くのを嫌がります。
両膝とも半月板損傷しているので階段が辛く、エレベーターに乗ろうと言うと自分だけ階段で上がっていきます。別行動です。
みっともないと言うのです。杖をつきたくてついているわけじゃありません。
私の着ている服、持って行った化粧品、下着に至るまで、全て「これいくら?」と聞きます。
答えると、全否定します。もっと安いのにしなさい!私の口紅は1本200円なのに!と。
母はもともと超高級化粧品を使っていたので、それが不満でならないらしく私に八つ当たりです。
人はそれぞれ価値観があり、出来る範囲があり、その中でやりくりしながら好きなものを買ったり趣味にお金をかけたりそれぞれ楽しみを見つけて生きています。
それはみんな違い、違って当たり前のこと。
自分の価値観でしかモノを見れない母といると、まるで私はお人形さんのようです。
全部を母と同じものにすれば母は満足するのかな。
結局今回も、母とはうまくいきませんでした。
母宅へ行く時には精一杯元気で、言う事を聞いて、いい子でいるよう努力しているんですがダメでした。
メッタ打ちに否定され、全て自分が正しいんだと主張してくる母にかないません。
自分のすることは人もすべきだ。自分が出来ることは人も出来るべきだ。
かと言って、自分の不得意な事は決して会話には出してきません。
父が、「社宅で母がうまくやっていけなかったから家を買った」と言った意味がよくわかりました。
牛乳を飲めば半月板損傷も狭窄症も治るはずだと言い、牛乳の嫌いな私に無理やり飲ませ、牛乳嫌いな来客にもまるでコーヒー味の牛乳のようなコーヒーを出し、自分の話ばかりをして聞き役にはならず、途中で口を挟み会話を自分の方へ持って来て喋り続ける。
これじゃダメだなと、第三者にもそうなんだと悲しい思いがしました。
元々折り合いの悪かった私と母ですが、虐待の過去を許したい(消化したい)思いがありなんとか仲良くしたい気持ちと、妹の為もありこうして今回も行ってきましたが願い叶わず。
残念な旅となりました。
いつか、うまくいく日は来るのかな。
母が自立した生活をしてくれる日は来るのかな。
昨日はまぁちゃんの月命日でした。
いつも通りまたたびのお香を焚いてろうそくを灯していました。
なぜか誰もいない部屋に小さな影が横切った気がしました。
ぽっちかなと思ったけれど、ドアが閉まっているのでこちらに来るわけがありません。
やっぱりまぁちゃんだったのかな。
まぁちゃんはうちにいてくれてるのかな。
そうだといいな。
なんだかほっとしました。
今週は、3日病院へ行きました。
鬱が酷くて助けを求めに行っていました。
だけど病院に行って帰ってくるだけで半日かかるのでぐったり疲れています。
疲れながらも、どうにもならなくて先生に助けを求めてしまうのです。
未遂の衝動に駆られて、いけないとわかっていても抑えきれず、このまま家にいたらまずいと思い、病院へ出掛けます。
今は苦しいけれど、どうにか乗り越えなければ・・
がんばります。
事件があったのは15年8月中旬でした。
会社に休職届を出したのは16年8月末でした。
その後も夜、毎日会社に呼ばれ朝まで仕事を続ける日々が続いていました。
昼夜逆転の毎日です。
年が明けた2月の朝、以前の上司にそれまでも相談していたけれど、もう辛いと話しました。
そのまま指示通り、所長(被告)の机の上にやり終えた仕事と、私の持っている仕事を全部置き、もう休職中なのでもう呼ばないでくれと書き置きし帰ってきました。
翌日、所長に呼ばれ、会社に出向きました。
そして、私はあなたを訴えると言いました。
それから、自宅前での待ち伏せが始まりました。
なんとかして家族にばれないよう裁判だけはやめてほしいと懇願するためです。
しかし一切応じず、私は弁護士に相談しました。
そこから、訴訟は始まりました。
私はその年の3月中旬から精神病院へ入院しました。
入院しながら、弁護士とのやり取りでした。
退院したのは7月末。
それまで2カ月おきに退院をしてはいたのに、1日自宅へ戻っただけで家にはいられないのです。
そして病院へ逆戻り。
その繰り返しでした。
自宅は、働いていた時は絶好の場所でした。
自転車でも10分かからず、会社の窓から自宅が見え、昼休みには毎日帰ってまぁちゃんとくつろぐ事が出来、会社の隣には大型スーパーがあり、街の中心だったので通勤もとにかく楽でした。
それが裏目に出て、家にいてもカーテンを開ければ目の前が会社、買い物に行くにも会社の前を通らなければならない、洗濯物を干すのも辛いしカーテンも開けられない、外出もままならない。
今でもそうですが。
7月に退院してからも自宅へ戻る事が出来ず、私はしろさんに引っ越しを頼みましたが分譲マンションを買ってしまっているのでそうなかなか簡単に引っ越すことなど実質的には無理で、無理ならば離婚し離れた街で暮らす事を決めました。
裁判が結審したのが19年11月末。2年ちょっとの歳月でした。
家を出てからも、まぁちゃんが心配で時々様子を見に来たり、裁判中はしろさんと話したりしていました。
結審の翌月12月末が休職期間満了でした。
復職するか、退職するか。
裁判には勝ったのだから堂々と復職することは出来ます。
それに、あまりにひどい極貧生活。
意地悪な生活保護課の担当者によって保護を受ける事が出来ず、暮らしぶりは酷かった。
それでもここに住むという勇気は出ず、わずかな障害年金で一人暮らしをし、そしてお金が無くそこも引き払い路上生活へと転じて行きました。
私は、食べることにも困り、怖い怖い夜の路上での寝泊まりよりも、会社の方が怖かった。
私は退職することを選びました。
そんな暮らしぶりのまま年末TBSのドキュメンタリーに出た後、まぁちゃんの容体が悪くなりました。
もう年を取っていたし、体も思うように動かないとしろさんから連絡を受けました。
私はそれでも帰る事を迷いつつ、時々まぁちゃんの所に通っていました。
しかし耳も聞こえなくなり、急速に衰えて行くまぁちゃんを見ていたらそんな事を言っている場合じゃない、何が一番大切なんだ?と20年5月にしろさんの家に帰りました。
そして、まぁちゃんは結婚記念日だった6月16日に亡くなりました。
それは、その日をまぁちゃんが選んだのは、元に戻れと、ここにいろと言っているように思えました。
そのまましろさん宅に今も居続けています。
あれからずいぶん時間が経ちました。
だけれど、私はこの環境にどうしても慣れる事が出来ません。
未だにカーテンを開けられないし、洗濯物を干す時には下を向いてすごい勢いで急いで済ますし、ひとりで近所に買い物に出る事が出来ません。
発作を起こし、汗がだらだら滴り、過呼吸になり、モノひとつ買えないのです。
今、まぁちゃんが亡くなってから絶やした事のない生花がしおれてきています。
買いに行きたいです。行きたいんです。でも、買う事が出来ないんです。
この家はまぁちゃんとの思い出がたくさん詰まっています。
だけれど、事件からもう8年も経っていると言うのにこんな状態です。
しかも今会社は移転しそのビルには入居していないのに、症状は変わらないのです。
思い出はあるけれど、病気が苦しすぎて環境を変えたい。
本当は、中国地方じゃないところに転居したい。(今被告は岡山にいます。)
わがままでしょうか。甘えでしょうか。
このままここに住んでいたら、病気が良くなることはないような気がしています。
久しぶりの更新です。
今日はまぁちゃんの月命日なのでお参りに行ってきました。
3年目の命日だった6月16日にもお参りに行ったんです。
でも、雨だった。
初めて雨だったの。
なんだか違うなと思って、ここに来る時は必ず晴れているから違うなと思って、
7月の16日にもお参りに行きました。
ずっとブログを書けずにいたのは、5月の終わりから躁状態に転じてしまい今月までずっとテンションが高くて苦しい状態が続いておりました。
7月には一時帰国した妹が1週間ほど泊りに来たり、東京に買い物に行ったり、行動的な期間を過ごしていました。
今は落ちてきて、だんだん物欲も行動力も無くなって来ています。
やっと落ち着いてくれてほっとしています。
疲れと反動でどーっと鬱にならないよう、どうにか保とうと必死です。
がんばります。
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