おやぢの好きな、バリ娘~♬

https://www.youtube.com/watch?v=kxXV10_JIMQ

12月20日(日)歌合の判者を務める

2015年12月20日 | 公開

 終日「歌合」の催行に参画する。早めに会場へ向かうも、うっかり快速に乗ってしまい、引き返すはめに…。

 お呈茶もあったが、なにしろ束帯を着るので、着付けは一番最後。白衣のみで席入りしたら、お正客をさせられる。(・_・;)

 判者って、大変なのだ。左右のチームから読み上げ、詠唱される和歌を聴きながら、その場で判定をくだし、その理由を古文で述べるのだから。そんじゅそこらの国文学者にも、こんなパフォーマンスはそうそうできはしまい…と、いささか自讃しておく。

 オ―ディエンスも多く、皆に分かるように判定しなければならない。笑い声もあがったから、そのあたりも成功だったと思う。

 私は和歌の研究者だが、「場」のもつニュアンスというものは、記録されたテクストのみからは、想像力を立ち上げるに限度がある。おそらく、ご批判の向きも多かろうけれども、実施にやってみることで、どのような愉悦が生じたのか、少し確認できたように思った。

 もしかしたら、こうした行き方こそが、注釈的な帝大のアプローチ、書誌と古記録からのKOのアプローチとは異なる、独自のアプローチを拓くものではないのかな…と思った次第。いったい、何が楽しかったのかな?という視点である。

 いやはや、勉強になりました。A師匠、ありがとうございました。

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

12月20日(日)池波正太郎のエッセイ

2015年12月20日 | 公開

  池波正太郎のエッセイが好きで、ここのところ電車での移動の折は、読んでいることが多い。「(念には念を入れて…)食べているつもりだ。死ぬるために食うのだから、念には念を入れなくてはならないのである。なるべく、(うまく死にたい…)からこそ、日々、口に入れるものへ念をかけるのである」(「食べる」)なんて、あなた、グッとくる文章ではありませんか。

  「自分が、ほんとうに好きな店を見つけて、月に何度か足を運ぶようになったら、その店へ、自分の気持をしめしたほうがよいだろう。・・・この客の気持は必ず店の人に通じる。通じないような店なら、何も行くことはない。人の好意というものは、かたちに出してあらわさないと通じない。これは男女の愛情にしてからがそうだ。いかに胸の内だけにおもいつめていてもダメだ」(「新年の二つの別れ」)と、これまた至言、外でもの食う要諦と申すべけんよ。私にとって…「高七」「すゞ金」あたりが、そういう意味での「好きな店」にあたることになるのだろうね。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加