湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

徳川家康の勘・・・歴史の考察

2017-02-13 18:41:59 | Weblog
武田を亡ぼした後の織田信長は
徳川家康に対し、ほとんどストーカーです

信長は、富士山見物と称し
家康の領国である駿河、遠江、三河を案内させています
その後は、安土城に呼んで、饗応し
さらに、京都、本能寺で茶会を開くからと
京、大坂に家康を留め置いたのです

つまり、武田の滅亡から本能寺の変に至るまで
織田信長は、徳川家康に関わり続けているのです
ちょっと、異常な感じを受けます

富士山見物は、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶を伴い
極めて少人数で、武装せず
家康を信じきって、物見遊山をしたのです
ただし、明智光秀は、常に、信長の隣に部屋を取らされていました

一体、織田信長は、何を考えていたのでしょう?

おそらく、毎晩のように
信長と光秀は、その日見た地形や砦について話し合い
家康領の攻略方法を検討していたことでしょう

明智光秀は、自分が総大将となり
細川藤孝と筒井順慶を率いて
家康領に攻め込む未来を考えたことでしょう
まさに、そう思わせるのが、織田信長の狙いでした

一方の、徳川家康は
まことに奇妙な感じを受けていたはずです
自分の所領を検分されるのは気分がいいものではありません
しかし、それにしては、信長一行は丸腰の少人数です
殺そうと思えば、いつでも簡単に実行できます
信長は、完全に自分を信じ切っている・・・どうしたことか?
こんな変な戦の下見があるだろうか?
家康は、考え込まざるを得なかったはずです

徳川家康は、独自の勘により
織田信長が自分を殺す気が無いことを分かっていました
明智光秀が必死になって送ってくる信長情報を
醒めた気持ちで受け止めていたのです
だからこそ、信長の命に従い
わずかな人数で、堺で遊んでいられたのです
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-02-13 19:56:42
家康さんは信長さんを信じつつ落ち着かぬ日々が続いたのでしょうか。

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