無意識日記
宇多田光 word:i_
 



こどもが生まれて初めて「日常」というものができた、とは至言というか何というか、今までなかったのならそいつぁ波瀾万丈な人生だったんだなと言いかけたがこどもが生まれる前の2010年以降は好きにしてればよかった訳で、つまりヒカルにとって日常って誰かに強制されるもんなのか。

それを考えると、ミュージシャンにとって日常は必要かという話になる。普通の人にはない人生の起伏を糧にして音楽に還元するのであれば。

一方で、こどもが生まれなかったら復帰もなかったとも言っているし、表裏一体痛し痒し、か。

確かに、ヒカルが仕事として音楽を作る事が日常になったら、壊れる。作曲家も色々で、それはそれはワーカホリックに年中書いている人も居ればたまに戻ってきては集中的に作業して仕上げる人も居る。凄く大きなスパンでいえばヒカルの「日常」はかつては「締切のない期間とある期間を行ったり来たり」だったともいえるし、それはもう受け止め方の差としかいえず、やっぱり強制性が定性的な違いなのかなと。

クリエイティブと言っても週刊漫画作家とか狂気の沙汰だし毎月ラノベ単行本をリリースする化け物も居る。いちいちそんなのと比較していてはキリがないが、たとえばこち亀の秋本治の規則正しい執筆生活を知ると週刊漫画の狂気ですら日常化出来るのだなと痛感する。相対的に過ぎる。

こちらにはヒカルの日常は伝わらない。宇多田ヒカルは、したがって、日常とは成り得ない。音楽をはじめ情報化できるカルチャーは常に飽和状態だから、本人さえ困らなければ供給不足は有り得ない。しかしその中で"満足"("hapiness")を得るのは至難の業だ。

日常とは充足か充足への諦めか。二択に絞る事自体欺瞞だが、「満足したらそれで終わりですよ」と不安を煽る人と「小さくても満足を手にしないと前に進めない」という人と両方居て、どちらもそれで成り立っている。ヒカルの得た「日常」は渇望を与えるものだったのか満足を与えるものだったのか。わからないが、音楽家である以上その点を纏めて歌にしてくれればそれでよい。何だって歌の題材になる。ひとつはきっと『二時間だけのバカンス』で、もうひとつは…どれだろ。もうひとつ、あるらしい。思い出したらまた書く事と、致しましょうか。寒くなって、きましたね。

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