無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ヒカルは長年(18年間)打ち込み系シンガーソングライターという独自の地位を築いてきたから、聴く方もそのつもりで聴く。これはヒカルの世界であってヒカルの歌であってヒカルの言葉である、と。耳を傾けるのは純粋に宇多田ヒカルとの対話である、そう無意識下に植え付けてきた。

故に、過度なコラボレーションはファンの不興を買う。前作でも幾つかコラボレーションがあった。人選からして特別感のあった『二時間だけのバカンス』や、ほぼバックコーラスのみの参加の『ともだち』などは大丈夫だったが、KOHHの語りを存分にフィーチャした『忘却』は大変な抵抗にあった。

『忘却』はヒカルが『Fantome』においてフェイバリット・トラックとして挙げている曲である。リスナーと作り手の感想は頻繁にズレるものだが、『忘却』の場合はそれが甚だしかった。KOHHが云々以前にまず「こちらは宇多田ヒカルの歌声が聴きたいのだ」という大前提としての価値観があり、それをまず反故にした上でKOHHの個性の強さが問題になった。まずは声自体の違和感に始まり、次にその歌詞の感触の違いから来る異物感に襲われ、最終的には「ゲロ」の一言によって汚物感に変わる。斯くして嫌いな人は徹底的に嫌いなトラックが出来上がった。

しかし本来コラボレーションとはそういうものだ。汚物感にまでもっていったのはKOHHの責任だが、異物感まではそもそもそれがコラボレーションの狙いである。違うものと混ざり合う事で生まれる新しい何かに期待してコラボレーションは為されようとするのだ。

バンド・サウンドというのは、恒常的なコラボレーションである。前回書いたようにリーダーに忠実な部下ばかりの集まりは最早バンドというよりソロ・プロジェクトだ。個々が自分のパートに一家言を持ち、それらをどう折り合わせていくかが醍醐味なのである。バンドにとって妥協や軋轢は殆どにおいて必然であり必要なのだ。

では果たして今回の『Forevermore』はバンド・サウンドと呼べるのだろうか。呼ばなくても何ら問題はないしどう呼ぼうが聴こえてくるサウンドに違いは出ないのだがそこら辺は一度考えてみる必要がある気がする。次回に続こう。

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