無意識日記
宇多田光 word:i_
 



LGBTの話題となれば当然『ともだち』の話に、と思うのが人情だが、こちらからすればあの歌の歌詞は、ヒカルには珍しく「ありがち過ぎる」というのが第一印象で、そこから印象があまり変わっていない。勿論、ヒカルからすれば「それが狙い」なのだろう。

その昔カナダのエクストリームウルトラテクニカルデスメタルバンドCryptopsyのメンバーがインタビューで「余り先進的になりすぎてファンがついてこれなくならないように配慮している」と言ってるのを聞いて「あんたらみたいな暴虐無尽なバンドでもそんな事考えるのか、もっと自分勝手にやってるもんだと思ってたわ」と感じたのだが、ミリオンヒットを連発するドメジャーの宇多田ヒカル様ともなればそこらへんの「進み過ぎない匙加減」に関しては、まさに当代随一その道の匠と言って差し支えないだろう。

そのヒカル様が、「ともだち」でLGBTを取り上げる際に「まずはこれくらいから」と見立てたのだから、恐らくこれで正しいのだ。私の方がリスナーとしてやや焦りすぎ、前のめり過ぎなのだろう。

私は最早性をグラデーションとして捉えている。LGBTはもうRGBみたいなものだ。Red・Green・Blueの光の三原色がグラデーションを描けば万物の総天然色を表現できる(いやただ単に人間の視覚の都合なんすけどね)ように、LGBTもその濃度や割合などで万物の性を表現できるような尺度へと進化すべきだ、みたいな事を考える。「男女」なんてのは、多様な世界を敵味方に色分けするような味気も色気もないもので、その両端点の間に無数に広がる多様な性をこそ味わうべきだろう、眩いよ、という風にもう思っている。確かに、現実に較べて、些か急ぎ過ぎてるわな。漸く同性婚を許してくれる人が、多数派とまでは言わないまでも存在感を示せる程度の声の大きさになってきたところなのだ。急がば回れ、急いては事を仕損じる、である。

その意味で、『ともだち』は、私としては自分をある意味で"正気に帰らせる"為に有用な楽曲として聴いているのかもしれない。そうだよ、世間は今これくらいだよ、と。確かに。ついつい、このあと日付が変わるや否や百合姫をポチって読み始めようなんていう人間は、自分がまだまだニッチな極少数派である事を思い出すべきなのだ。世の中、同姓愛を気持ち悪いと思ってる人はまだまだたくさん居るのだと自分によく言い聞かせつつ、百合姫7月号を楽しんで読んできますね☆

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