無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Fantome』というアルバムタイトルは、皆さん御存知「Fで始まってeで終わる」タイトルである。『First Love』、『FINAL DISTANCE』、『Flavor Of Life』。この代表曲3つの系譜だ。しかし、『Fantome』というタイトルの曲は(まだ)存在しない。名の通り幻の曲である。

そもそも、アルバム『Fantome』の収録曲は総て日本語表記だ。これは、今までのヒカルのアルバムにはない傾向だった。なのにタイトルだけは外来語というこのバランスは、未だに気になっている。

英語と日本語の両方を母語として育ったヒカルにとって、英語は所謂我々が感じるところの"外国語"にはならない。我々が日本語曲の歌詞の中に英語がきたときに感じる「うわ外国語だ」という感覚(私がよく覚えてるのは小学校3年生の時に聴いた"Get Wild"だなぁ。"It's your pain..."のくだりは随分聞き込んで聞き取ったよ…)を、ヒカルは英語を聴いた時には感じない。外国語ではなく、母語だから。

ヒカルが「うわ外国語だ」という感覚を感じられる最初の言語は、フランス語なのだろう。『ぼくはくま』や『Hymne a l'amour〜愛のアンセム』でのフランス語の使い方は、如何にも"外国語として"という感じがする。我々がこれを聴いて「うわ外国語だ」と感じる感覚を、今度はヒカルも感じれているのだ。

『Fantome』という語は、そういうナイーブなエキゾチズムを運んできてくれてるように思う。「Phantome」にしてしまっては、我々の感覚でいえば「幻」とタイトルをつけるようなものだ。ヒカルからしたら、その"感覚"は要らなかったに違いない。

というのも、日本語タイトルな楽曲ばかりのアルバムに日本語のタイトルをつけてしまうと、いよいよ何か「Pop Musicであること」を捨て去ってしまっているように感じられるからだ。いや、普通の人なら構わない。今まで英語タイトルの曲で次々と大ヒット曲を生み出してきた宇多田ヒカルというブランドがあったればこそ、外来的な感覚がどこかに残っていなければならない。もしアルバムタイトルが日本語だったなら、この作品は極私的な私小説的側面で塗り固められたイメージに帰着していた気がする。『Fantome』という字面と響きは、宇多田ヒカルの名をPop Musicのフィールドに(思い)とどまらせた。「Fから始まってeで終わるヒット曲」を3曲持っているから無意識裡にそう思わせれた、とまでは言わないが、このタイトルでなかったらヒットのありようは随分と変わっていただろうな、とは思う。次のアルバムのタイトル表記も楽しみであるよ。

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