無意識日記
宇多田光 word:i_
 



世の中には「他人の人生を邪魔する事に自分の人生を賭けている人」というのが一定数居て。特に創作物の規制などは傍目から見ていて「ほっときゃあんたの人生に一切関わりないよ」と思うようなものでも踏み潰しにかかる。こちらからすると「よっぽど暇なんだな」以上の感想が出て来ないのだが、本人達は至極真剣そのものだ。

なぜあんな事ができるのかとふと立ち止まって考えてみると。恐らく彼女たち彼らの人生自身が、「他の誰かから介入されて生きてきた」からに他ならないのではないか、と気が付いた。つまり、そもそも人生の生き方として他の生き方にピンと来ないのだ。「人生とは他者を妨害するものだ」という観念が、聞こえないくらいの低い周波数の通奏低音としてずっと人生に鳴り響いているのではないか。

アニメやマンガやゲームは、昔からずっと規制のやり玉にあげられてきた。まずそれを支持する者たちが「大人しくていじめやすい」人種であったから、というのも基底としてあるのだろうが、そうだったらもっと享楽的にいじめるのではないか。あの、攻撃する方の必死さは、まるで親の仇のようだ。

小さい頃、親なり誰かなりから、「アニメやマンガやゲームは害のあるもの」として遠ざけられて育ってきた人種を想像する。そういう人たちがそれによって空いた暇で必死に勉強して高学歴を手に入れ、何かを規制する側に回れるほどの財力なり権力なりを持った時、「昔年の恨み」とばかりにアニメやマンガやゲームを叩いているとすると…あの必死さも合点がいく。

困った事に、彼ら彼女たち(が仮に実際に存在したとしても)にそういう自覚がほぼ全く無い事である。親なりの言いなりになってやりたい事もせずにやらなければならない事ばかりを押し付けられるのが人生だと、もう最初っから決められてしまっている。勿論そこから途中で脱却できる人も居るが、そういうののキッカケって自由に生きているアニメやマンガやゲームの登場人物たちだったりするものだ。彼女たち彼らには、そういう機会すら封じられていた。今更自由な生き方と言われても、言われのない怒りと嫌悪感しかわいてこないだろう。アニメやマンガやゲームに携わる人たちが楽しそうな表情をしているのも癪に障る。その上、自分たちの方が社会的立場として有力だから、彼らを見下すのは造作もない。賤民の賤業だとして断罪するのに躊躇は要らないだろう。

問題なのは、その言われのない怒りというものが、彼ら彼女たちにすら生まれるという事実である。生まれた時から抑圧される人生を言前の基底として生きてきても尚その人生を肯定できず、自由の謳歌に対して怒れる、即ち嫉妬できるというのは、人間の自由に対する希求力が教育や環境では抑えられないほどの根源的な力として生得的に備わっている事を意味する。それをみると、彼女たち彼らもまた自分と同じ人間なのだなと実感して、どうしても彼ら彼女たちの事を嫌いになれないのだ。でも規制の力がこちらにも実際に及んできたら、きっと私は隠さずに嫌悪感を示すと思うけれど、なんだかそれがとてつもなく悲しい。自分よりずっと社会的立場が上の人間たちに憐れみをかけざるを得なくなるというのが。


憂鬱な月曜日の朝に相応しい憂鬱な話題でした。こういう時はルー子さんの一言で脱力するのですっ。さぁリツイートしてこようっと。

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