無意識日記
宇多田光 word:i_
 



長年のファンなら、光が既に作家としてのペンネームを決めているのは御存知だろう。それがどういったものであるかは明かされていない。皆さんそれぞれに想像している事だろう。

私も、ずっと光の書く小説なり何なりに期待し続けてきている。「エミリー・ザ・ストレンジ」の翻訳、「ぼんじゅーる!くまちゃん」の執筆、「点-ten-」と「線-sen-」の編集など、近い仕事はしてきたが、今のところそれらは総て宇多田ヒカル名義での活動である。内緒のペンネームが白日の下に曝されていない以上、未だ光の作家活動が本格的に始動した形跡はない。一体いつになるのやら。

ただ、今ではないとは思う。理由は、今、音楽以外の(プロフェッショナルな)活動を始めたら「歌から逃げた」ように思われるからだ。特に、日本人商業音楽作曲家については本当に厳しい時代である。アイドル・ソングやアニメ・ソングを書かない限り、リスナーが居ない。そして名曲は生まれない。それは個人の力量を飛び越えて、市場をアテにして活動するタイプにとって必然ともいえる、悲惨な状況なのだ。聴衆と作曲家の間に信頼関係が無くては、ヒット・ソングは生まれないのである。

そういう状況でヒカルが歌わなければ、ますます受難の時代を印象づける事になる。ただでさえこの5年、新しいアー写が無いのだ。「これであと10年は戦える」と言い切れる絶品曲桜流しですら、アニメ映画の主題歌という立ち位置から向こうには行っていない。第一これ、Pop Songと言うのは憚られるしね。私がGoodbye Happinessを当時「最後のJ-pop ソング」と言った気持ち、わかって貰えるだろうか。昨今の大ヒット曲「Let It Go ありのままで」も結局は映画の歌で、それは桜流しと同じ状況である。映画を見た人と見ていない人の間に物語の断絶・隔壁がある。ただ歌を聴いて、"この歌が"流行ってるねと言ってみたいものだ。


それは置いておくとしても、作家宇多田光の作品が楽しみなのは変わらない。その為にまた5年、いや10年音沙汰無しでもいい。ビクトル・ユゴーのように何年もHikki籠もって「レ・ミゼラブル」のような傑作を書いてくれるというのなら幾らでも待とう。いや、幾らでもは言い過ぎた。せめて10年以下にして欲しいかな…タイミングによっては私の寿命が尽きてしまうかもしれないし。私より年上の人はその危惧幾らでもリアルだし。

掌編小説(ショート・ショート)中心なら、そこまで待たなくていいかな。どこぞの雑誌に不定期連載なんぞを持ってさ。鳥居みゆきくらいの作品なら書けるだろう(それって結構ハードル高いんだがまぁ)。やるとなったら気合い入れてくれるだろうから、取り敢えずその時期に老眼が酷くなってない事を願おう。いや電子書籍版買ってスワイプして読みますけども。

その前にまず、歌だ。商業的には成功しても失敗してもいい。受難の時代に挑戦したという事実と、そこから感じられる気概が重要なのだ。私には珍しく精神論だが、その意味で、"日本市場"が再び活況になってからの復帰では遅い。なんかずるいしそれ。いやずるくないか。うまくやったな、ってだけか。救世主になってやる、とかそういう風に力むところまで行く必要はないと思うけど、こんな時だからこそ私の歌を届けたい、という願いなら全く不遜に感じない。それをやってから、またその後で作家業にチャレンジすればいい。今はまだ、その時じゃない。

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んもう、東京五輪エンブレム問題は連日トップニュース扱いなんだね。こちらとしては珍しく時事問題の話をする事になってしまっている。

元々は、@hikki_staffツイートで、今回エンブレムを担当してる人はFlavor of Lifeのジャケットを手掛けた方なんですよ的な事を触れていたから、あぁじゃあおめでたいことなんだねという感じだったのだ。先述の通り、私個人はFoLのアートワークに関してはピンと来てなかったから(当時の日記でも当たり障りのない取り上げ方しかしていない)それ自体には特に感慨もなかったのだが、騒動になったあたりから「あーどうしよ」となった。いやまぁ、相変わらずデザイン自体には興味はないのだが。

一方で、今回のスキャンダルはこの日記でずっと取り上げている「マス・メディアの怖さ」と「当世インターネットとの付き合い方」という2点において"格好の"反面教師例となっていて、その点は興味を惹かれる。他山の石とはそういう事だ。

今時、ここまで両方に疎い陣営も珍しい。というのは、Windows95から20年、テレビ放送が始まってから60年(だっけ?)である。それだけの年月を経ていれば、ある程度の年齢にまでいった人ならマスメディアともネットメディアとも無関係な人生を送っている筈なのに。ここにきて関わりをもつというのが因果というか何というか。

本来何の問題もなかったのだ。デザイナー同士で賞を分け合っているうちは。それが、半世紀ぶりの五輪自国開催という"異常事態"に直面して、本来交わらない筈の世界同士がかかわり合ってしまった。そうなるとどうしたって"力のある方が勝つ"話になってしまう。本来、勝ち負けなんてどうでもいいのだが。そんなのは五輪競技中に追究すればいいのだ。で、今は力較べの段階だ。

若い人は知らないかもしれないが、恐らく、五輪組織委員会はここからが強い。スケープゴートを作り問題をはぐらかし、いつのまにかなかった事になっている。「あれだけ報道があったのにいつのまにかうやむやになっちゃったね」「そういえばそんなこともあったなぁ」という反応が返ってくるようになる。エンブレムは撤回されたが、それは「どっちゅことない」話でしかない。マスメディアやインターネットも、力比べで必ずしも勝てるとは限らない。

まぁだからそれはいいとして。関係ないし。我々は、ちゃんとネットやマスメディアとの付き合い方の方を学んでいこう。単純にいえば、世界の"悪意"の存在を認める事だ。充実した人生を送っている人は「そんなことしてなんになる」とすぐに口に出すが、なにかにならなかった人生をなんとかして受け入れる為にはなににもならなかった結果に囲まれて「自分のせいではない、これが普通なのだ」と言い聞かせなくてはならない局面にもなるのだ。自覚的か否かにかかわらず。そういった心理を理解しなくてはいけない。いや、理解したくないならそれも構わないが、無防備だよ。

どうにも、心の優しい人にそういう"勘違い"が多い。毎度言っている事だが、集団的意識と集団的無意識は自然現象と捉え、「そうなっているからこう対処する」と考えるべきだ。台風が来たら家屋でやりすごそう、という風な。それを「台風に"こっち来んな"と言ったら逸れてくれる筈だ」と言うのは、呪術師の時代なら兎も角現代では通用しない。無謀にも嵐に立ち向かって撃沈するのはもういいだろう。ただ、力があるなら台風に台風をぶつけて打ち消す事も将来は出来るようになるかもしれない。それまではしのぎ方を覚えて対処した方がいいと思うよ…。

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