無意識日記
宇多田光 word:i_
 

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「チャック・ベリーはどうしようもない男だからいいんだ」という話はここで飽きる程してきた。アーティストとして人間の表現の限界に挑戦する、という生き方は立派だし尊敬するけれど、ロックンロールってそんなに偉いもんじゃないよね、というのが私の根底にある。だから、いい。

イチローがピート・ローズを皮肉って「記録を破るならデレク・ジーターのような人格者がいい」と言っていた。野球道を究めんとする求道者らしい物言いだ。スポーツの事に関しては深入りする気はないが、球を投げて打って捕って走ってという遊びが競技になりエンターテインメントになりやがてアートに…というのは、それでいいの?という気がしなくもない。昭和生まれとしては、仕事帰りの飲んだくれたおっさんが野次を飛ばしながら楽しむのがプロ野球、というイメージもあったりするのでの。まぁそれは他所の話だからいいや。

人間、偉くなると「先生」と呼ばれる。教授や教師にはじまり、医者や弁護士や政治家などなど。それはそれでいいとして、ロック・ミュージシャンで、レッスンでもないのに「先生」って呼ばれたら何だかこそばゆそう。嬉しいかなぁ。


我らが(って何様)宇多田のヒカルさんは、そういう、「先生」と呼ばれそうな権威めいたものからは随分と遠い所に居るキャラクターを貫いてきている。お蔭でBBAとか姐さんとか呼ばれてきていた。で、今回オフィシャルが打ち出してきたのが「パイセン」である。年齢を重ねてきて随分と年下のファンも増え、敬われるポジションもしっくり来るようになってきた。だからと言ってそれこそ「先生」みたいな立ち位置でファンの相談に乗るのはちょっと違う。じゃあ「先輩」かなという事だろうが、見切り発車なんだろう、キャラクター作りが間に合っていないよね。まぁなんでもいいんだが。

「私は自分が最も忌み嫌っていた権威に、今度は自分がなってしまった」と嘆いたのはアルバート・アインシュタインだが、これからパイセンはますます尊敬されている。井上陽水のような親子程も歳の離れた大先輩からも敬われてしまう立場だから、全員素になってしまうと頭を下げ続けるしかないのだが、ヒカルはそれを望んでいない。アインシュタインのように嘆く日が来ないように来ないように、振る舞っている。

実際、ポップ・ミュージシャンであるならば権威になるのは願い下げだ。次にリリースする曲が売れなかった時に周囲を含めて一緒に悔しがれなくなったらもうそれは死である。敢えて売れそうにない曲を出した場合は別だが、ずっとそれを続けてたらもうポップ・ミュージシャンじゃあないので、いつかどこかで売れて欲しいと願う曲を作ってどこかで勝負しないといけない。まぁ、音楽家はいつでもどこでも勝負に勝たなければいけないがね。自分自身を含め、世界のどこかに居る誰か具体的なリスナー1人以上に納得して貰わないといけない訳で。ポップ・ミュージシャンはその相手が「なんとなく不特定多数」なんだな。

「次の曲を売る」という時に権威は邪魔である。酷い時はまともに音を聴いて貰えない。周りはイエスマンばかりでまともに聴いてくれないし、遠くの方の人は「宇多田? まだやってるんだね。『First Love』は素晴らしいよね。」と言ったきり興味を持ってくれない。そうなったら多分もう周りからは「先生」って呼ばれてるだろうね。


そこらへんのヒカルの美学を訊いてみたいものだ。惨めな姿になっても相変わらず歌い続けるか、程良い所で身を引いて皆の美しい思い出になるか。惜しまれる中引退するか。相変わらず、きっと先の事は考え(るようにはし)ていないのだろうけれど、チャック・ベリーみたいに歌は歌えずギターもまともに弾けない状態になってもやり続けてると、喜んで観に来てくれる人が居るという事実も世界にはまたあるという事は言い添えておきたい。勿論、ベストは80歳90歳になっても現役で居られる事だが…いやそれは我々にとってのベスト、かな。肉体が衰えて歌えなくはなっても、作詞作曲はできるかもしれないもんね。それを今から期待するのはちと酷に過ぎますけどなっ!(笑)

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80年代が30年以上前、という感覚に慣れないうちにもう2016年まで来てしまった感がある。こちとら幼少期(大体小学生)どっぷり80年代だったのでどうにもピンと来ていないが、今を生きる子たちにとって80年代とは自分たちにとって1950年代みたいなものなのだ…と計算してみて暫しの間呆然とする。

自分たちにとって1950年代といえば大昔だった。テレビはまだ各家庭になくあっても白黒で、街頭テレビとかテレビのある家に皆で集まるとかそんな感じ。映画だってまだまだカラーは少なかった。何しろ戦後すぐで高度経済成長前である。家電三種の神器もテレビ洗濯機冷蔵庫の時代だ…合ってるかな?

音楽の事を考えるとそりゃあもう大昔。ビートルズもストーンズもデビューしていない。プレスリーがスターだった時代だ。そりゃもう大昔である。うち半分はロックンロールすら無いという。紀元前みたいな感覚だ。今の子たちにとっては、「80年代ボンジョヴィが大ヒットしてねぇ」と言えば自分たちが「50年代にプレスリーが大ヒットしてねぇ」と言われるのと同じなのか。こりゃ参った。

しかし、いうほど劇的に変化してないよね?というのがこちらの本音である。ボンジョヴィが今でもそんなに変わらず活躍している、という事からもわかる通り、ビッグアーティストたちが10年20年30年と活躍期間が伸びている。ビートルズだってレッドツェッペリンだって10年前後で消えていったのに。そう考えるとストーンズって異常ですね。エアロスミスが解散してもまだやるつもりだろうか…。

なので、自分たちにとっての「30年間の昔」と今の子たちにとってのそれでは、単純な比較が出来ないかもしれない。ここ15年の音楽の話題といえばフォーマットや流通形態の変化の話ばかりで、肝心の音楽の方はドラスティックな変化がない。たぶん、今の子たちは、そういう変化が起こり得る事すら知らないんじゃないか。

YouTubeを漁れば幾らでも過去の映像は出てくる。しかし、どうやって漁らせるのか。個々が好き勝手では潮流は生まれない。教育機関とかマスメディアとかの権力が動かないとどうにもならない。

それでいい、という考え方も出来る。もう音楽史は個々人のもので、統一した世代の見解とか必要じゃないんじゃないか、と。

ジェネレーションギャップは思わぬ方向からやってくる。その言葉自体、こちらから持ち出すものであって、既にギャップが生じているのかもしれない。埋める必要性すらウヤムヤな、コミュニケーション不全が起こる。それ位違うかもしれないし、逆に、こっちが吃驚するくらい何も変わらないかもしれない。実際に対話してみないとわからない。

32歳でこどもを生んで育てる、というのはそんな差を日々感じながら過ごす事だ。日付はわからないが、そろそろダヌパが誕生日を迎えてひとつ歳をとる。まだ喋り始めてはいないだろうか。音楽家の母として、どんな接し方をするのやら。自分が育ってきた90年代の音楽を聴かせた時、どんな反応をするか。まだきっと10年後の話だが、今から常に、その風景の見え方の違いを考慮して生きていく事は、きっと無駄じゃない筈だ。

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6月最終週。2つ。1つは「とと姉ちゃん」、13週目なので土曜日で折り返し。『花束を君に』が聴けるのもあと半分。もう1つ。「NEWS ZERO」続投、かな、『真夏の通り雨』。次の曲の情報が私の耳に入ってきていないので。もし決まってたらごめんなさい。でもこの曲とタイアップしておきながら真夏を通り過ぎない訳ないか。そだよね。

いずれにせよ2つのタイアップは節目を迎える。更に3ヶ月、となる筈だが、ヒカルの方は新情報を出すならここだろうか。ダヌパをはじめとしてここらへんから関係者に誕生日が多い(父も母もプロデューサーも親友もみんなみんな7月!)為ヒカルも大忙しだろうけれど、だからこそうまくいくというものだろう。今のうちにこの2曲を徹底的に消化しておきたい。間も無く"新曲"という冠が取れるかもわからないのだから。

とはいえ、こんなにも"馴染んでしまった"新曲も無いのではないか。2016年春夏の時事風俗と共にある『真夏の通り雨』だけでも鱈腹なのに、「とと姉ちゃん」の『真夏の通り雨』の方は週6回、人によっては12回だったり18回だったり24回だったり30回だったりする。日曜日もチェックすれば更に増える。鱈腹どころか耳胼胝である。いやはや、凄い回数だ。

これだけ馴染んでしまうと、この2曲についてよぉくよぉく知っているような感覚に襲われる。間違ってはいないし悪い事でも何でもないのだが、ヒカルの手腕はそれだけなのかと訝るのもファンの楽しみ方のひとつではなかろうか。

もっとも、確かに、今そうやって深入って聴き込む気分にならない、という気持ちもわかる。そういう人は一旦離れて、またアルバムに収録された時に新鮮な気持ちで向き合えばよい。流石に10月より前にアルバムが出る事は無いだろうから(あったら次の報告は「宇多田ヒカル今秋アルバム発売決定!」である。幾ら何でも急過ぎる…この沈黙ぶりからすればなくはないけどさ…)、「とと姉ちゃん」からも「NEWS ZERO」からも離れていられる時間が幾らかやってくる。そこが狙い目だし、3ヶ月後ともなれば次の新曲(の情報)も出ているだろう。そういう時間配分を妄想するのも、ファンの楽しみ方のひとつである。


…こんな事などを書きながらこの2曲の解説から逃げている私は意気地無しなんだが(たははは…)、こんな風に書いてしまえばちょっとはちゃんと向き合えるかなという希望を抱いてみたかったりする。ううん、根性無し。いや私の事はいいんだ(自分の日記のくせにな)、ヒカルの曲が洗い流してくれている不満や不安に気を取られないようにする、それだけだ。ややこしいけれど、生きてる間はそう過ごす位しかもうないのだ。

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UKのEU離脱に伴い、スコットランドの独立話が再燃しているという。前回の独立を問う国民投票においてUKがEUに加盟していた事実がどれだけ前提として共有されていたかが大義名分の分かれ目になる。向こうの情勢などは知らないが、これを機にUKの分裂となればいよいよ歴史の教科書に載る出来事となるだろう。

そうなってくると気になるのはHikaruの動向だ。ロンドンに居を構えてるらしい事は伝わってきているが、果たして今後どう振る舞うか。ただの離脱だとすれば、どちらにせよパスポートとVISAにまみれた生活を送ってきているだろうから「手間がひとつ増えた」程度になるかもしれないが、スコットランドのUK離脱EU加盟だとすると、少し揺らいでくるのではないか。

そもそも、「自身の音楽的ルーツはスコティッシュと共鳴する」と言わんばかりに、イギリス特集でもイングランド特集でもアイルランド特集でもケルト特集でもなくスコットランド特集を1時間放送したのはHikaru自身だし、つい最近そのスコットランドと関わりの深いCocteau Twinsのアルバムをオール・タイム・フェイバリットに選んだのもHikaruである。目下の情勢を注視していない訳ではあるまい。

家族のある身だ。そうそう簡単に移住云々を言い出すとも思えない。何より、スコットランドを選ぶのであれば国際情勢など関係なく既に決めている筈だ。恐らく動かないだろう。しかし、スコットランド独立となると、何らかの拠点というか繋がりを作っておきたくなる気持ちはあるかもしれない。それに沿って動くかは兎も角。

現実としてHikaruがロンドンを選んでいるというのならロンドン自体に魅力を感じていると考えるのが自然だ。となると、現実の問題として考えるべきは寧ろこの情勢下でロンドンがどう変わるかだろう。

ニューヨークや上海と共に、世界市場の一翼を担っているロンドン、だが私は経済の事はわからないので触れない。ただ、経済状況が商業音楽に対してどんな影響を与えてきたかというのは、様々な書物に載っている。

70年代中盤のオイルショックや90年代初頭の湾岸戦争の頃、たくさんのアーティストが契約を切られた。シンプルに言えばオールドウェイヴがニューウェイヴにとっと変わられた。レコード会社とて一企業だから、経済情勢がそういう節目を形作る事もある。

今回は色々と事情が違う。イギリスが珍しく本土について決断した、つまり国際問題であると同時に国内問題であるという点と、もうひとつ、今のレコード会社が既に国際企業体であるという点だ。

詳しい分析は省いて物凄くおおざっぱに言えば、それらの要因によってロンドンの音楽シーンの雰囲気が様変わりする可能性は否定できない。ビートルズ以来半世紀にわたって小さい市場ながら世界的影響を行使するトレンドセッターとしての役割を担ってきたこの都市が、その役割を終える事になるかもしれない。まだまだ先の事はわからないが、昨日まで不変だった事が明日も変わらないとは限らない。まだ気は早いが、10年後位に、何がどうなっているかまた見てみる事にしよう。今はまだ語るには早過ぎる。

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毎日々々「とと姉ちゃん」で『花束を君に』を聴いていると、歌の方を聴くだけでどうしてもドラマの方を思い出してしまって…という現象がきっと起こるだろうと勝手に予想していたんだけど、こうやって70回目を迎えても、私はそんな風になっていない。皆さんはどうだろうか。私は、『花束を君に』の音だけを聴いている時に、あんまり「とと姉ちゃん」を思い出さない。

いい事なのかどうなのか。ようわからん。逆はちょっとある。「とと姉ちゃん」の事を考えていると、いつのまにか『花束を君に』のメロディーを口遊んでいる、というのはね。

これはやっぱり、私の中で、歌の存在感の方が大きいからだろうな。単純な話。毎日、アバン終わりに入ってくる歌の包容力。どんな展開であっても泰然自若。変えてないから当たり前なんだが、「そうそう、それでいいのよ」と毎回包み込んで受け容れてくれるような、あの感覚な。それはもう、この歌独特のものだろう。

なので、もっと違った場面でも観てみたい、というのも本音だ。極端な話、どんな場面なら似合わないんだろうかこの歌は。吉本新喜劇でも笑点でも深夜1時の臨時ニュースでさえもアジャストしてきそうだ。いや、流石に緊急地震速報の後とかは無理かな。しかし、冠婚葬祭どの場面でも大丈夫という感覚は強い。悲しくても嬉しくても響く。こんな歌は珍しい。

動画サイトには、ファンの皆さんによって、『花束を君に』の様々なバージョンが沢山アップロードされている。私が見知ったものだけでも、ギターの弾き語り、ピアノインスト、ボーカロイド、合唱と本当に幅広い。これが今という時代なんだなぁと実感すると共に、様々な場所で様々な人が様々なアプローチで歌っても、こう、一本芯が通ったように、どれもちゃんと『花束を君に』なのだ。曲の力。

そして、しかし、それでもやはり、ヒカルのように歌えている人は誰も居ない。上手い下手以前に、そもそもの歌のイメージが違う気がする。皆が側面から、自分の目に見えるように歌っている感じがするのに対して、ヒカルは、この曲を、全方位から眺めて、総ての方向から包み込んで声を出している。そう表現せざるを得ない程、特異且つ最も真正面からのアプローチである。

その為、『花束を君に』のオリジナル・トラックは包容力の自乗となっている。もっと言えば、曲と光がお互いを包み込み合っている。「描く手を描く手」のようにトポロジカルにイメージするのは難しいが、お互いがお互いを受け容れ合っているといえば、少しは通じるかもしれない。ドライに言っても、お互いがお互いの理解者である。

そんな風な見方で作曲を語るとしたら、ヒカルの最高傑作は結局『くまちゃん』なんだろうなという結論になる。ヒカル自身は『ぼくはくま』を最高傑作と言い(言ったのはもう10年も前だから今でもそう思ってるだなんて強弁はしない)、実際それは曲なんだし『くまちゃん』は曲じゃないんだからそれでいいのだが、お互いを受け容れ合うその非位相幾何学的な構図の達成ぶりという点に関しては、『ヒカルとくまちゃん』の2人(1人と1匹なのだろうか)の関係性はいちばん美しく、また不可能である。そう考えると、人生経験を深く積んだ33歳の宇多田ヒカルが『花束を君に』を歌い作る事に何の不自然も無い。そこまで卓越した歌なのだ。こんな歌を主題歌にもった「とと姉ちゃん」は、本当に幸せ者だわ…。

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パイセンの「言葉」、昔より頻度は随分と減ったが、未だに我々の許へと届けられている。立場上、日常と直結するような話はしづらいと思うが、そんな中でしっかりと残る言葉を紡いできた。

Twitterは言葉が流れていってしまうからやる事はない、と最初は断言していたパイセンだが、現実は寧ろ、Twitterに載せられる事で"口承"され、生き残って人々の許に届く機会が増えたように思う。Twilogもあるしコピペもある。未だに私の許には@utadahikaruからのリプライツイートへのRT&Favの通知が届く。毎日生きた言葉が交わされる中で生き残っていく言葉もあるのだ。そのうちまた誰かがコピペして復活する言葉もあるだろう。なかには、出典を騙る人も出てくるかもしれない。それも含めて、言葉は生き残る。響き合いながら。

今すぐは無いだろうが、そのうち歌の歌詞より有名な「宇多田ヒカルの名言」が定着してしまうかもしれない。著名人なら珍しい事ではないが、ヒカルからしたらどんな気分なのだろう。

現実には、ツイートにかける時間の何千何万倍もの時間と労力をかけてヒカルは歌詞を書いている。そちらを評価されずにツイートの方がとなると所謂"複雑な気分"かもしれない。しかし、それもまた、歌詞を書く修行(だわなぁ)を通じて培われた日本語能力のお陰ともいえる。心に沁みる一言は、その人の生きてきた人生の端点に生み出されるものだ。何だろう、それはそれで、という気はする。歌詞を書けてしまったんだから、という自信も生み出す。関係ない、と言い切れるなら、それはそれでよし。同列に語る事自体、違うのだし。

ただ、今や歌詞は工芸品というか陶芸に近く、その独特の造形を味わう為のものになっている。これだけ作り込んだ挙げ句に出来上がるのが「ヒカルの素の声」なのだとしたら、その技術の程度はとんでもないものとなるだろう。未々先は長い。ヒカルからの言葉をもっと浴び続ける必要がある。

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私は自分で勝手に「20世紀の名リフ・ベスト3」というものを決めている。次の3曲がそれである。


第1位 ピンク・フロイド “エコーズ”(PINK FLOYD "Echoes")
第2位 マイルス・デイヴィス“ソー・ホワット?”(MILES DAVIS "So What ?")
第3位 ブラック・サバス“黒い安息日”(BLACK SABBATH "Black Sabbath")


何故この3曲なのかは、実は聴けばわかる。どれもYouTubeにあるハズだから検索してみよう。

この中で“エコーズ”についてだけは、解説が必要だろう。というのも、この曲は演奏時間が23分にも及ぶ大曲なので、リフと言ってもどのフレーズを指すのか、特定できないからだ。

私が「20世紀のベストリフ」と太鼓判を押すのは、楽曲の節目節目に流れるあの「フィンッ……!」と鳴る音の事だ。たった1音。その音が鳴り渡った瞬間、聴き手は一瞬にして“エコーズ”の描く壮大な世界の中に引きずり込まれる。まさにその音は「こだま」、"An Echo" である。こだまが何度も鳴り渡って"Echoes"が構成される。単純至極極まりない。「楽曲の主題となる、曲中に何度も繰り返されるフレーズ」という"リフ"の(広義な)定義に照らし合わせて、こんな完璧なフレーズはあるまい。名は体を表し、体は名を成す。20世紀の至宝と呼ぶに相応しい。


『真夏の通り雨』を聴いていると、何度もその"Echoes"が頭をよぎる。理由は単純で、この曲には随所に(時にはハイレゾ×ヘッドフォンでないと聞き取れないような極々細い小さな)"風の音(かぜのね・かざね))"が配されているからだ。素直な連想。

風の音というのは特異な音である。「音」とは、いつも言うように、予兆である。人は、音が鳴った方に振り向き、目で何から音が出たかを確認する。それがひとつのシークェンスだ。しかし、風の音は違う。音が鳴っても何もそこに見えない。風に乗って何かがやってくる事もあるかもしれないが、それが鳴らすのは風の音ではない。風とは、人にとって、純粋な「音」だけの存在なのだ。いわば、音楽にとって最も純粋な主題とも言える訳である。

『真夏の通り雨』では風の音は主題ではない。副題でもない。いや、フレーズ(節)としての役割を与えられていない、ただの効果音である。鳴ると効果的だが、この音が鳴っていなくたってこの歌の魅力は些かも揺るぎまい。はっきり言って、要らない。

しかし、しかしそれでも、私はこの音を聴くと堪らない気持ちになる。ヒカルの音楽が、ピンクフロイドの音楽のように、人の心のみならず空間と時間すら包み込む強さと優しさを身に付け始めた、その象徴となる、その目印となる音色だからだ。こういう音遣いが出来るなら、まだまだこれから成長出来る。私にそう感じさせる音色。『真夏の通り雨』にうっすらと塗られた風の音は、私たちの未来への道標(道導・みちしるべ)、導き手でもあるのだ。堪らなくなるのはそういう訳なのです。皆さんももう一度、よぉくよく、聴いてみて下さいね〜。

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昨日の「とと姉ちゃん」第69回は唐沢演じる花山回と言っていい内容か。やっぱり見事な存在感だが、話のつくりとしては物足りない。相変わらず雑である。本来なら、「如何にして花山に常子の賭けに乗らせるか」が主題になるべき所を、「何の疑いもなくあっさり承諾」でほぼスルーしてしまったのはうただけない。そこがいっちゃんムズいトコやろがい。プロット自体の意図はわかるが作りが雑、というのはこれからもずっと続くのだろうか。こちらとしてはまぁ許容範囲というか気にならない程度なので、このまま行って貰っても構わないが。

しかし、芝居は皆うまいもんだ。あの大地真央の画面からはみ出しそうな大仰さも含め。スタジオで演じてる時も「その筋は無理があるだろ」と内心思っていたとしてもしっかり演じきっているのだろうな、と妄想に基づいて評価してしまいそうになる。特に常子のキャラクターが場面々々でバラバラだが、高畑充希の芝居でどうにかこうにかやりくりしている感じ。主人公だろうに、どうしてこうなった。

しかし、こうやって唐沢が登場した事で漸く、文字通り「役者が揃った」感が出てきて、いよいよここから盛り上がっていくだろう。視聴率も相変わらず結構高いようで、Webの愚痴勢はぐぬぬ感拭えないだろうが、幾ら脚本に文句をつけようが、ここはテレビだ。画面に華があり、出てくる声に活気があれば、たった15分の連続ドラマ、スイッチを消さない理由としては十分である。唐沢の言い回しにはそれだけで朝慌ただしい人たちを「なんだなんだ」と振り返らせる力がある。実に頼もしく心強い。もうこのまま主役扱いでいいんじゃないかな。


今作もアバンから主題歌の流れなので、今は唐沢から宇多田という豪華なリレーが聞ける訳だが、なるほど、コメディタッチのアバンからでも自然に入っていけるものだ。『花束を君に』には、さわりのほんの一小節だけで人を笑顔にしてしまう不思議な力がある。喜劇との相性もバッチリだ。寧ろ、私にはそっちの方が『ふるきよき朝ドラの主題歌」のイメージが強い。いや、オープニングテーマが歌になってまだ30年も経っていませんが。ともあれ、これからますます、この歌の輝きは増していくに違いない。毎日観て聴いていて、本当に幸せである。…って言われてもヒカルはどう思うかねぇ…。

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こうやって蒸し暑い日々を過ごしていると、この後梅雨が明けて本当の真夏がやってくるのだなぁ、という予感が沸々と沸いてくる。そう、『真夏の通り雨』のある初めての夏が、やってくる。

折しも、でも何でも無いけれど、今年から8月11日が「山の日」として休日となった為、何だか日本のお盆の風景が少し変わりそうだ。休みが一つくっつくだけで、連休を取る人も増えるのだろうかな。

「真夏」というと、日本だと灼熱とか真っ盛りとか、そんなイメージだろうか。人によっては高校野球に風鈴に西瓜とか、そんな風景を思い浮かべる。サザンやTUBE、なんて言う我々はおっさんおばはんだろうか。人それぞれの真夏があるけれど、『真夏の通り雨』のそれは、ひたすらにお盆の時期を言うしかない。

かく言う私も同時期に(2日違いで)祖母を亡くしているので、どう言ったものか、似た時期に似た気分になるのかもしれない。いや、こちらは大往生だった(100歳ですから)ので、悲しいというより「お疲れさまでした」とかそういう気持ちなので、当時『後悔の念が募るばかり』と言ったヒカルの気持ちとは寧ろ正反対くらいに捉えた方がいいかもわからんね。

祖母とは近所(ってほどでもないか、車で5分位)だったので、学校帰りに茶飲みに足を運んだりといった感じで接していた。私は老人と茶を飲むのはお手のもので、そう考えるとこの喋り始めると止まらない性格がいちばん似ていたのは祖母かもしれない。兎に角快活でよく喋った。その割に照れ屋で礼儀正しい性格だったので下品な感じはなかったな、そういえば。歯切れのよい働き者で、私が3歳の時に「甘いお菓子より塩辛いものの方が好きだ」と言ったら何故か嬉しそうにしはってて、はて、何がそんなに良いのだろうと思っていた。目の前には甘い和菓子がたくさん並んでいた。


…しまったな、こういう日記は2ヶ月にとっておけばよかったかな。ヒカルも、でも、きっと、同じ時期に故人を偲ぶのだろう。『悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。』という一文は、いつ読んでもぐっとくる。愛息もすくすくと育ち、そろそろヒカルも笑って思い出話を語れるようになっているだろうか。たとえなっていたとしても、日常のふとした瞬間に、母がもう居ない事を思い出して悲しくなるかもしれない。それだけでも遣る瀬無い。身の置き所が見当たらなくなる程に、切ない。

『真夏の通り雨』は、相変わらず救いだ。一言で言えば慈雨である。どんな感情も、歌として掬われたら救われる。それしかできない、そうとしかできないとも言えるんだが、「声が出るから歌える」という身も蓋もない物理的理由と身体性を呼び醒ます時、やっぱり思い出の中だけでは生きている事にならないと気がついて、愕然とする。その絶望もまた歌に掬い取られる。『思い出たちが ふいに私を 乱暴に掴んで離さない』―嗚呼、その表現の見事さに言葉もない。私は、未熟だ。


真夏が来る。夏至を通り抜けて、日本のあの蒸し暑い夏がやってくる。この歌と共に初めて迎える日本の夏。確かに心を、私や貴方や誰かの心を、ぎゅうっと締め付ける。

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唐沢さん凄いなぁ。決して撮り方は巧くないのに画面に出てくるやいなや「私に3度も同じ事を言わせるな!」と一喝しただけで全部持っていきやがった。もう彼の出ずっぱりでいいと思います。ほんの数十秒で「その人にしか出来ない演技」を見せつけられるなんて、役者って稼業は奥深いもんですな。

そういえば昔ヒカルは唐沢さんと朝まで呑んでたなんて話していたっけな。Hey!x3だったか。ヒカルの性格からしてずっと連絡を取り続けるなんて事はないだろうが…ってあの頃からもう10年前後経ってるのか。やり方が変わってても不思議じゃあないね。ヒカルがLINEで既読無視、いや未読無視を連発してる所が目に浮かぶようだが、そこは人間活動経験者、なんとかやっているでしょう。

とはいえ何かの折に唐沢さんから撮影現場の雰囲気なんかを聞いている事もあるかもわからない。主題歌提供者ってドラマに対して距離感を測るのが難しそうだ。最初に曲を渡してしまえばあとはもうノータッチ、普通の視聴者と変わらない立場になるのに、(朝ドラの場合だと)毎回15分の1は自分の歌声だし、要所々々で編曲されたインストも流れる。離れているのに演出の一翼を担い続けるという不思議な感覚がありそうだ。もっとも、ヒカルは観ていないような気がしますが(笑)。

それでも、いや、だからかな、唐沢さんからドラマの話を聞くのは楽しいに違いない。彼自身も御覧のように途中参加だから出来上がった空気の中で如何に…って彼は自分で空気を作ってその色で染め上げてしまえるか。実際にそうするかは別として。兎も角、外から見たドラマも内から見たドラマも知っている人間として唐沢さんがヒカルにストーリーを語る。なんともいい構図だ。

もどかしいのは、だからといって今更自分が何かを付け加えられる訳ではない、という事だ。毎日自分の歌声は流れる。作品に貢献する。しかし、ヒカル自身に今出来る事はない。サントラは別の人が手掛けているし、カメオ出演する訳にもいかないし…。戦後の高度経済成長期まで描くなら、テレビの映る場面なんかで藤圭子役で出演するのはアリかもしれんが…。

という訳で、今はもう他の曲を作っているヒカルにとって、たとえ未視聴であっても「とと姉ちゃん」は"過去の作品"の1つでしかない。その温度差は拭い難い。だから、という程でもないけれど、今後も『花束を君に』の貢献具合を日々確認していけたらなと思う。

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昨日の「とと姉ちゃん」みたいなのが、視聴率的にはいちばん危うい。無難で、特に起伏が無く、「つ、次どうなるんだろう?」というワクワクも薄い(無い訳ではない)。こういうのが続くと本気で皆この作品の事を忘れるようになり話題にしなくなっていく。それ位なら、脚本がハチャメチャだとか演出が雑だとか叩かれている方がマシである。

特に最近は、インターネットのお陰で「変な作品を皆でツッコんで楽しむ」という文化が定着している。不合理で突拍子もない展開をテレビで確認しつつスレを開きハッシュタグを辿る。悪趣味だと言ってしまえばそれまでだが、今まで楽しめなかった作品の新しい楽しみ方を見いだしたという面では進歩だ。行き過ぎると不快になるが。

なので、「とと姉ちゃん」も叩かれているうちはまだ視聴率は安泰だろう。「ああ、そんなのあったっけ」とか「最近見なくなった」と言われたら要注意。最悪なのは「いつのまにか見なくなった」だ。視聴を止めた事にすら気づけなくなったら存在感の無さは末期的だ。月曜日の第67回はそんな危うさを感じた。

…と思ってたんだけど今日火曜日の第68回は唐沢寿明登場回だったの? ある意味最高のタイミングかもしれない。あまり普段使いたくない表現だがまさにカンフル剤になるだろう。というか殆ど主役だよねこの人出ちゃったら。


主役といえば。どうにも最近常子のキャラが魅力的でないなと思う事が増えた。よく観察してみると、どうも行動原理と高畑充希の演技の方向性が噛み合っていないようだ。脚本の描く常子は行き当たりばったりで、寧ろ天真爛漫というくらい何も考えてなくて、いうなれば「愛すべきバカ」の立ち位置だ。それをしっかりものの妹2人が横から後ろから支えていく…たぶんこの構図は暫く、いや、最後までかな、変わらないだろう。バカだがパワフルな常子が起動力となって様々なトラブルを起こしながら出版業界を掻き回す、みたいなプロットが想像される。(私STERAとか読んでないから)

一方、高畑の演技はこなれ過ぎる程にこなれている。余裕綽々で、細部まで気配りが利いていて、極端に言えば周りが馬鹿にみえるくらいに利口に立ち居振る舞っている。一言でいえば"小癪な演技"だ。これは、上記の常子像から大きくズレている。勿論高畑も、常子のバカっぽいところをバカっぽく演じているのだが、それが上手過ぎて、「賢い人が馬鹿を演じている」ようにしか見えない。まさにそのまんまである。要するに適役じゃないのだ。天然には天然がいちばんなんだな。高望みだけれども。

…昨日の第67回もそうだったんだよな…滝子に「人の役に立つ雑誌を」の助言を鵜呑みにしてそこから何も自分で考えられないだなんて「バカ丸だし」である。これが天真爛漫キャラなら「素直な性格で猪突猛進の馬力もあって」という風に見えるのだけど、高畑では演技派過ぎるんだな…。

しかしこれも、裏を返せば、常子が劇中でどんどん成長していけば、高畑の小癪な感じと徐々にシンクロしていく事が期待される、という事でもある。そのアジャストがうまくいけば、第1話冒頭のシーンに無事辿り着く事が出来るだろうて。


考えれば考える程、「とと姉ちゃん」は後半戦型だ。今でも十分楽しめている"肯定派"の皆さんには、これから更に楽しくなっていくだろうと言えるし、文句ばっかり垂れている"否定派"の皆さんには、「いやいやまだまだこれからよ」と言える。予想がハズれたらごめんなさいだけれど、半年間の長丁場だし、長い目でみてやって貰えませんかね。あ、土曜の午後に前半の総集編があるんだって。そから合流するのも、アリですよ。

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浜崎あゆみの「アルバム全曲先行試聴」が話題になっていた。てかそういう記事を読んだ。サブスクリプション云々という話になるとややこしくなるばかりなので割愛して。「ヒカルのアルバム発表の仕方ってどうなるの?」というのが当面の興味だろうか。

前に梶さんがツイッターで「アルバムはCDでも出します」とかいう趣旨の発言をしていたのでその点に関しては問題ないだろう。遅かれ早かれ今まで通りの方法でなんら問題はない。

問題なのは「遅かれ早かれ」にこだわる場合だ。「一刻も早く聴きたい」という人にとったら、配信やらストリーミングやらはどうしても気にかかる。そこを整理しておかないと、何も悪い事してないのに不興を買うという芳しくない展開になる。

折しも、『真夏の通り雨』と『花束を君に』が有料配信でゴールドを獲得したという報も貰った。プラチナでなくてガッカリした、と言っていいのかどうか。10万DLと25万DLのうちのどこか、という事になる。『花束を君に』は半年間地味に積み続けるのでまだわからないが、ひとまず、“売れていない訳じゃないが爆発的という訳でもない”という捉えられ方をされそうな雰囲気だ。

かなりの数の人が「配信はどうもなぁ。』「フィジカルが欲しい。」と思っているとしたら、アルバム売上にそのまま反映されるだろう。そう考えると、アルバム周りでややこしい事はしない方がいい。「配信はよくわからん」「物足りない」「苦手」という層に「安心」を与えるのがCDアルバムだ。


ここで開き直るのは結構勇気が要る。「何の工夫もしないだなんて単なる手抜きじゃないか?」という不安がよぎる。当然だと思う。そこをシンプルに出来れば、安心した人たちがぐわっと買ってくれる。そう算段できるほどナイーブでもない。

取り敢えず、色々やるんなら全部同日がいい気がする。次善策だが、その日に誰もが「自分の選択肢がある」と感じれてくれれば、問題ない。何かひとつのフォーマットが有利を被るとなれば、途端に混乱が起こる。選ぶのもストレスだが選べないストレスより遥かにマシだ。でもやっぱり、選ばなくていいのがいちばんだ。朝ドラの主題歌を担当したのだから、そういう目線が常に必要になってくるだろうな。

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流石にそろそろWikipediaに手を出した方がいいかなぁ、とふと思った。『宇多田ヒカル』の項目、先日チェックしたら『真夏の通り雨』と『花束を君に』のページがなかった。今はもうあるのかもしれないがね。昔編集してくれてた人たちはもう居ないのだろうか。折角やってくれているのに邪魔しちゃあ悪いと思って一切手を出さなかった。あたしゃ癖も灰汁も強いからね。誰が書いたか一発でバレちまう。それはよくない。

とはいえ、誰かがやってくれるというのなら相変わらず手は出さないつもりだけど。やると大変な手間暇だというのもわかってるし私は何だって途中で投げ出す癖があるからその癖がまた出たら大変迷惑だし。まぁ、私がやるんだなと思ったらやります。思う前にやり終えてた、ってのが理想だけれど。


最近のグーグル先生はパーソナル・カスタマイズが進みまくっていて、グーグル漢字変換は言うに及ばず、普通の検索結果ですら皆と共有できるかわからない。私がWikipediaばっかりチェックするからかもしれない。でも、何かを検索して商用サイトとオフィシャルサイトの次に並ぶのはWikipediaの該当ページだ。相当の人がこれを読むに違いなく、そして、そこから先には殆ど進まない。

先日「マンボウ」について検索した。あのデカい魚のマンボウだ。すると、2番目だかに「マンボウが如何にすぐ死ぬか」とマンボウ=スペランカーとでも言いたげなページが出てくる。曰く、「まっすぐにしか泳げないから岩に当たって死ぬ」「海面からジャンプしたら水面に叩きつけられて死ぬ」「目に水泡が入って死ぬ」「食べた魚の骨が喉に刺さって死ぬ」「仲間が死んだショックで死ぬ」「仲間が死んだショックで死んだ仲間を見たショックで死ぬ」等々。普通なら「ほんまかいな」と疑うところだが、これを鵜呑みにしてしまっているような人が昔は沢山居たようだ。(鵜を呑み込もうとして死ぬ、というのはなかったな…)

実際はその多くが嘘らしく(全部とは言い切れない)、その噂が広まってしまった事を受けて専門家が一つ々々検討を加えてくれたページがちゃんとあって、それで真偽の程度が確認出来るのだが、そちらの検索結果は(私がその時ググったタイミングだと)3番目であり、その根も葉もない噂を書いたページより検索結果としては下だ。多分、多くの人が3番目までに目を通す事なく噂を信じて生きているのだろうなぁ。と。

なお、その噂を広めた張本人という方が名乗り出ていて、そのツイートも確認出来たりするのだが、そこまで辿り着くにはかなりの深追いが必要だ。まぁ私は常に次から次へと検索する癖がついているのでそんなに時間はかけていませんが。


という感じなので、検索結果として常に上位に来るWikipediaのページの充実は大切である。本音を言えば誰かにやって欲しいので名乗り出てくれれば有り難いが、というか名乗り出なくても「気が向いた時に寄って集って」がWikipediaのコンセプトだから気が向いた人が気が向いた時に編集してくれりゃいいのだが、その為には私みたいな人間が「一切口を挟まない」と宣言した方が何かと都合がよい気がしている。「面倒だから」という本音を隠す為の言い訳に過ぎないのだが、それでもそれが真を突いている気がしてならないのであった。


Wikipedia本体自体があと何年保つのか、という興味も勿論ある。人間のやる事だから、また中世欧州のような暗黒時代(と云われている)に突入しないとも限らない。しかしそんな事考えても仕方無い。今重要だろうと思える事をやるだけだ。今Wikipediaは重要なので、何とかした方がいい。まぁ何というかそれだけですよ。

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イチローが大リーグに移籍したのは2001年。当時はまだまだWebニュースという形態も盛んではなく、特にスポーツ方面はネットとの絡みが遅れていた(今や世界中の試合が生中継で観れたり観れなかったりするが)。まだまだ主だったメディアはテレビやスポーツ紙・スポーツ誌だった。

そういう、それなりに権威づけられていたメディアの記者たちはこぞって「イチローは大リーグで通用するか」というテーマについて語り書き立てた。しかし、そのどれも、私個人の予想より評価が低かった事を覚えている。パンチョ伊東氏ですら、だな。あの人かなり盛る人(また髪の話して…ないぞ)だったんだけど。

で、その私個人の予想というのはシンプルで。「最初から打率3割打撃10傑安打200本は堅い」というものだった。そう、実際の1年目は「打率3割5分首位打者安打242本」という成績だったので、現実は私の予想を上回った。つまり、私が目にしたどの予想をも上回る活躍を見せたのだ。如何にイチローが過小評価されていたかがこれで(ちょっとだけ)わかるというものだろう。日本のパ・リーグで無敵の7年連続首位打者を獲っていてもこうだったのだ 

また、日本人は、やはり日本のリーグはアメリカの大リーグに劣ると思っていたのだ。既に野茂や佐々木が投手として活躍していたにもかかわらず。

そう考えると、日米通算記録を云々というのは「どの口が言うか」という気がしないでもない。ピート・ローズの言う通りである。何故あんなに盛り上がるんだか。新聞なんか号外も出したらしい。

という20年来のイチロー・ウォッチャー…でもないか、94年からぼちぼちイチローのプレイを見ている人間としては、4256安打と4257安打がどうのというより、その日5打数で2安打打ったというニュースの方が嬉しかった。あとから動画をチェックするのが楽しみで。彼のヒットは一本々々が興味深い。様々な条件の中で如何にしてヒットをクリエイトするか。その創意工夫と、その結果として生まれる美しさが、この20余年変わらぬイチローの魅力である。他のバッターはヒットを「無理矢理にでも作り出す」という情熱に欠けている。(私個人が)彼しか見る気にならないのはそのせいだ。

記録で盛り上がるのは誕生日を祝うようなもので、ただ節目だからだ。本来価値があるのは日々の1つ1つである。誰しも毎日生きている。今日という日を生きている。今日を生き切らなければ明日は来ない。ずっと寝て過ごしてたっていいさ。それで明日が迎えられるなら。

それでも現実は非情だ。ある日突然断たれたりする。毎回次の記録、次の記念日を目指すから頑張れる。しかし結局、日々を疎かにしない事が、そこに辿り着く道なのだ。祝福は後からやってくればいい。

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