無意識日記
宇多田光 word:i_
 

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NY時代はバレンタインし損ねてた(というのか)って光がツイートしているが、照實さんに渡した後「食べていい?」と聞き返した萌えピソードはNY時代じゃなかったのか。まぁいつでもいいんだけど。

一応大ざっぱに言って、バレンタインもキリスト教の行事のひとつという事になるんだろうか。概ね無宗教の日本人にとっては大概どうでもいい話だが、キリスト教の誕生日にはケーキでなくカレーを食べハッピー・ハヌカと先に(でもないか)言う光が、この人間活動中にどういうスタンスに変化するか、或いはしないのかというのは興味がある。

様々な土地に赴くなら様々な宗教・宗教観と出会う筈だ。特に英語圏であるならばキリスト教は依然幅広く普及しているだろう。聖書から名前をとったアルバムの一曲目で悪魔について歌うという仕掛けは、ある意味売れすぎなくてよかったのかもしれない。

少しばかり長めに生きてきて思うのは、人はいちどイメージを作り上げたら10年だろうが20年だろうがそのまま引っ張り続けるという事である。未だに宇多田ヒカルはタメ口で、なんて事を言う人々が絶えない。99年の夏休みの間だけの話だったといってもいいのに拘わらず。これは、ヒカルがあんまりメディアに登場する機会が多くないのも関係はあるけどね。例えば今明石家さんまについてブラックデビルや阿弥陀婆の人だよねと訊き返してくる人は希有だろう。毎日テレビに出てイメージを上書きし続けて、やっと過去は過去になるのである。

そういう意味において、熱心なファンを除いてはヒカルは海外ではまだイメージ自体を持たれていないし、日本ではあまり日常に溶け込んでいるとも言い難い。寧ろ日常にあるといえるのは、99年の夏休みのヒカルの方なのかもしれない。それはもう一生ついてまわるのかもしれない。テレビに毎週出るようになったりしたら別だけど。

こうなってくると、人間活動が長引けば長引くほど、99年夏の宇多田ヒカルだけがイメージとして生き残っていく。別にそれは悪いことでもないんだけど、時計って止めたまんまではいられなくって、文字盤のうち目立つ所以外は顧みられなくなっていくのかと思うと、なんとも落ち着かない感じが残る。

でも、なんだかんだ言って30前後の女性を15の時のイメージで見続けるのは無理がある筈なので(既にキビシイと思うんすけどね)、次の"イメージ・チェンジ"が地味にでも奏功する事を祈るばかりである。

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話がややこしくなっているのでもう少し平たく行こう。要は、なんでこれだけのミュージシャンなのに光は他のミュージシャン/アーティストたちとの交流が少ないのか、という話なんだが。

孤高のアーティストたるもの群れる必要もない、とばかりに独自の世界を創り上げる訳でもなければ、ではいろんな人と仲良くコラボレーションしているかといえば大抵自分で済ませてしまいひとの手を借りるでもない、なんとも中途半端な立ち位置なのだ。

他者との共作も共演も数多ある。が、どれも続かないのだ。いや、続いているのかもしれないが印象が単発的、という事かもしれない。コンサート/バンドマスターとして2004年から起用されているマット・ローディでさえ、「仲間感」が希薄なのは何故なのか。いや仲が悪いのとは違うだろうな。寧ろ、光は誰とでも仲良くなれる。皆に好かれる人間だ。が、仕事上の関係と割り切っているのか何なのか、そこから先が感じられない。

プライベートでは長い付き合いがあったりする。Making Loveの輝きは、その背景なくしては説明できない。が、音楽的にはどのコラボレーションも単発で、その後何か進展や発展があったときかない。TAKUROとは一緒にNYで出掛けたりしていたから続きがあった方だといえるが、他のコラボレーション―大黒摩季やら椎名林檎やらカイリー・ディーンやらNeyoやらFoxy BrownやらTimbalandやら、、、全員と仲良くする必要はないが(会った事ない人も居るだろうし)、なんとなくそれっきりでそこから広がっていった感じがしない。

勿論、これは光のポリシーなのかもしれない。ただ単純に、業界内の誰ソレと普段つるんでるとかを情報として発信しないように心掛けているのかもしれない。それならそれでまぁいいや。

問題は、音楽的な側面である。U3&EMIのメンバーの結束の堅さは素晴らしいが、多分光がプライベートでも会う人って居ないんじゃないか。要は、仕事上の関係が仕事上で完結している為、そこから誰と誰が知り合いになって、みたいな展開がないのだ。唐沢寿明と朝まで飲んでた、なんて言うから役者の友達がわんさか増えるんじゃないかと期待したりしたが、う〜ん、居るんだろうけれど…どうなんだろう。

やっぱり、光は人間関係に淡泊なのだろうか。こまめに連絡を取り合ったり、贈り物をしたり食事を共にしたり…いや、別に「そうあって欲しい」と私は思ってる訳じゃないんだが、なんとなく立ち位置が把握できない分、楽曲について考察する時もなんとなく落ち着かない。

ジャンルレスなPopsを続けてきた為、どうにも同調してずっと長きにわたってお付き合いが続く関係にないのだろうか。マットローディも、LIVEの時には、という感じ。うーん、曰わく言い難いこの中途半端感。どう説明したもんかの。

それが狙い、と言われてしまえばそれまでだ。一向に定まらない音楽的立ち位置こそが持ち味。今まで散々当欄でもそう書いてきた。ユニークなのに孤高にならず親しみやすい、しかしカテゴライズも難しい。宇多田ヒカルの音楽、というよりも、その時その時の楽曲の出来で勝負してきた。その集積がこの最初の12年、"First 12 Years"なのだ…といつものとおりまとめるには、今回の一連のツイートは違和感が有りすぎるのだ。何をこんなに戸惑っているのか、自分でもわからない。

このまま今週はこうやって一向にまとまらないエントリーばかり書き上げるのかと思うとゾッとするが、よく考えたら元々そういうblogだったな。諦めた。暫くはこんな調子になりそうなので先に謝っときます。こんなんでごめんなさいm(_ _)m

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『私は今「見る側」に立とうとしてます』―つまり、"まだ立ってない"ということなんだろうか。いちいち微妙な節回しに過剰に反応されても当惑するだろうが、気になる。

「見る側」というのがどんな立場なのか、推し量るのも難しい。見られる側との違いは、その当事者感覚のなさであろうか。無責任といってもいいかもしれない。何しろ、対象として何を見るかで事情が変わる。これが"見られる"だったら、見られる相手が誰であるのかは、人数が増えれば増えるほど曖昧になっていくだろうし、どうでもよくなってくるが、見る側に立つと、あと同じ見る側の人間が幾らいようと二次的な影響しか及ぼさない。見る対象が何であるかが大事になってくる。

ここが難しいのだが、見られる事を意識してキレイになっていくと中身が空っぽになるが、それは自立した1人の人間である事を意味する。平たくいえば社会人である。見る側に立てば、見られる事を忘れ、1人としての個は失われていく。見る対象に依存した存在となっていくからだ。ここが、ややこしい。

ひとことでいえば、誰よりも見られる立場に居ながら社交性を構築していかなかった、抗ってさえいたことが、話を難しくしているように思う。周りがなんといおうと気にしない、というのでもなければ、周りのいうことを気にして社会的人格を演じ続けたわけでもない、そんなバランス。両方への揺らぎ方が独特だったから、大衆性と玄人受けの両方が可能だったのだ。通常ならこんな状態は長く続かず、自我が分裂して精神が崩壊するところだがそれを乗り切ってきたのが光なんだ。

今見られる側から見る側に移行しつつあるというのなら、社交性についてどう考えているかは問うてみたい。社交性の究極といえば、日本でなら皇族である。基本的人権もなくプライバシーもなくそれでいてひっきりなしに外交に駆り出される。どこに行っても注目の的。見られる事自体が職業、いや義務というべきか呪いというべきか、本人たちの思惑はともかく、その立場を受け入れているように思える。苦行だろうなぁ。

何が言いたかったんだっけ。そうそう、見る側に移るのなら、人と人との関わりの中で自分自身が浮かび上がる機会が減る。一方、自らの内面と向き合う時間は増える筈だ。見る対象とは、1対1なのだし、更に向こうから見つめ返されることもないのならそこにあるのは自分だけの世界である。尚且つ、それは"社会的には"自立からは程遠い。社会人とは、関係性の中で消費可能な存在でなくてはならない。社交性である。社交性の究極としての皇族の機能がまさにそこに居て見られている事自体である事を想起すれば、そこに個人の内面が入り込む余地はほぼない。だからそれと対極するのが人間活動なのだ、といわれれば、その通りであることだなぁ。

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モバツイではツイートのRT数を見る事が出来て、今回の光の4つのツイートは20:30時点で各々時系列順に656RT、510RT、1184RT、2545RTとなっている。いやだからどうだということはないんだが。

何故今日の私が不機嫌かといえば、この様子だと光がアーティスト活動に還ってくる内的動機が目下の所何一つ見当たらないからだ。普通の職業音楽家なら暫く休んでいれば貯えが減るだろうからイヤでも復帰しようとするだろうが、光の場合あれだけ稼いでおきながら大きな買い物といえば車とギガント(とその棺桶)と噴水くらいしか思い当たらず、というか兎に角散財しないので金銭的理由で復帰するなんて可能性は低い。ここはお母様に頑張ってもらって無理矢理借金でも拵えて…。(危々)

何だか話が逸れた。十数年見られていた状態が、苦しかっただけならまだしもさびしい生き方だったとまで言ってしまうのならば、今の生活からそちらに戻ろうという心回路ははたらかない。敢えて苦しもうという求道者なら居るだろうが、敢えてさびしがろうとする人が居たらかなり奇特である。いや居るには居るだろうが、テレビやラジオやライブで人前に出てくるような職業は絶対に向いていない。つまり、光がどちらであろうと還ってくる心根は育たない。

音楽が好き、というのであれば自分で好きなだけ取り組んで、聴かせたいと思った人にだけ聴かせていればいい。別に不特定多数の人に聴いてもらわなくても構わないだろう。今がさびしい生き方でないというのなら、その生き方の中で出会った人たちに向けて歌ったり作ったりすればよいのだから。

考えれば考えるほど、今の光に戻ってくる理由が見当たらない。要は、この仕事を休む事で「物足りない」とどこかで思ってくれなくては困るのだ。そして、今はそれがない。アーティスト活動してた時はあれが足りなかったこれが落ちてたと云い、今はあれが足りてるこれを零さずに済んでいる、となればもう別世界の人だろう。「無期限活動休止/停止」の看板に偽りはない。

そうなってくると、やはり「EMIとまだ契約が残っている」という事実は本当に心強い。破棄するとなると違約金でも生じるのだろうか。いやそんな事よりもまず、光が約束を違(たが)えるというのが有り得なさそうだ。いつかきっと還ってきてくれるだろう。

ならば、一体どういう内容の契約なのかってのが気になってくる。普通の邦楽ミュージシャンの場合は年1回はフルアルバムをリリースする、なんていう忙(せわ)しい契約を結んでいたりするものだが、光の場合はそうではない。かといって、"本当に無期限"というのも考え難い。"10年で5枚"とかそんなタイプの契約だったりするのだろうか。何しろ、"本当に無期限"だと、何も作らずに契約金だけ貰って、なんてことに…まぁ光だったらならんか。

とまれ、この"契約"というのはヒカルが社会人である以上重要視するファクターであるのは間違いない。これを縁(よすが)に、人間活動を満喫している光を応援しつつ待つことにする。

あとはEMI本体が潰れぬよう祈るばかりでございます…。

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やれやれ、ロンドンからなねか何なのか、日曜深夜に連ツイしてくれるってのが「違うリズム」を示唆するな。いやまぁ何でもいいんだけど。

『全然自分のこと理解できてなかったし周りの人たちのことも「知ろう」としてなくった』
せやったら一体何やってたんやとツッコミたくなるが、140字をただ書いてある通りに受け止めても仕方がない。光は誰よりも宇多田ヒカルの事を知っていたし、周りの人たちの事も理解できていた。しかし、自分がどうあるかは知ってはいてもそれが何を意味するかまでは理解できていなかったし、すぐさま周りのことが見えてしまう状態ではそれ以上を知ろうとも思わなかったのだろう。ありゃ、文字通りにとっちゃったな。

見ることと見られることは常に対になっている。それはいいとして、光の場合あまりにも見られていることの比率が大きすぎた。要は割合の問題である。見られている分量に対しての中身の量が物足りなくなってきた、というだけで何も29の女子の中身が空っぽな訳もなく。今は見られ続ける状況から一旦離脱して見る側にまわってみている、と。

ただ、それは宇多田光さんの人生の為なのやら宇多田ヒカルというアーティスト或いは社会的立場の為なのやら、はたまたUtada Hikaruの為なのやら判然としない。寧ろ、そういった分裂状態自体をリセットしていると考えた方がいいか。元々、好きに暮らせばいいのだし休みたい時に休めばよかったのだが、見られている自分の体積が大きすぎて、見る自分の心が少数意見に感じられてしまっていたのだろうか。それはそれでフェアな気もするが。

元々私は"Pop Music"というものがよくわからない。渋谷陽一の発言をここでも引けば、Pop Musicとは「他者の音楽」であり、ならば見られている事は至上の事なので中身はどんどん空虚になっていくのがPop Iconの道な訳で、光の"リセット"はそれに逆行している。なら最初っからPopであることにこだわらない方がよかったのかもねぇ、と真正面から全否定をしたくなる―のが私の性格だ。ファッションの事なんてわからないし、何よりもピンとこない。それでもこれだけ光の作ってきた音楽に魅了されているというのが可笑しな話なのである。事実、素晴らしい。

折角光のツイートがあったのに私の嗜好の話をしても仕方がない。しかし、まぁどっちに転んでも受け止める準備は出来ている。要は面白けりゃいいのだが、苦しさやさびしさといった人生のフェイズに耐えられないというのなら、とても人間的ではあるなと思った。"人間活動"が実を結んでるってことだね。となると、やっぱりアーティスト活動に直接プラスになるという感じでもないんだわなぁ。はぁ。

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さてさて、『とっても気にしぃなあなたは少し休みなさい』以降この歌は他者へのメッセージソングに変貌していくのだが。あぁ、そういえば言うの忘れていたな。この、『とっても気にしぃなあなた』という節は、楽曲冒頭から斬り込んでくる『I don't care about anything』と対になっている。意味は「私は何も気にしない」だ。口ではそう言ってるけど、本当は気にしぃなんだよね〜、という感じである。

この、"口で言ってる"即ち"言及すること"と、"実際に(現実と照らし合わせてみて)そうであること"の違いがわからない人が世の中には驚くほど多い。それを炙りだしたのが、かの有名な"国家公務員"の件りである。(本当は"件"だけで"くだり"と読むのだが、それだと"けん"と区別がつかない。なので敢えてイリーガルな送り仮名をつけている。)

その歌詞を見てみよう。

『「タイムイズマネー」
 将来国家公務員だなんて言うな
 夢がないなあ』

これを読んで「国家公務員は夢のない職業なのか」と(多分その人がではなくて、最近ネット上の其処彼処で見掛ける、その人が夢想する今まで会った事もなければこれから出会う事もないであろう、架空の、想像上の人物であるところの)憤る人が居たらしいのだが、勿論私はそんな人に会った事もないしこれから出会う事もないのだろうが、まぁそんな人が居た事にしてみよう。何だ、犯人は俺か。

まぁしかし、よく歌詞を聞いて&読んでみよう。ヒカルは国家公務員になる事が夢がないだなんて言っていない。『将来、国家公務員だなんて言うな』と言っている。即ち、「"将来、国家公務員"と口に出して言う事」に関して夢がないと言っているのだ。この差は大きい。そう口に出すこどもに対して「周りにそう言わされてんじゃねーのか」と訝ったのが当時のヒカルなのだ。職業としての国家公務員を貶める意図は微塵もない。あクマで、「そう口に出して言うこと」に違和感を覚えているだけなのだ。

ただ、そうは言ってもやはりヒカルの主張というか趣味嗜好みたいなものは感じられる。将来国家公務員になれば終身雇用で安定した生活が得られるなんていいじゃないか、とこどもが考えていて、そう口に出したとしても、スレたガキだな〜、と思うか歳の割にしっかりした子だねぇ、と感心するかでそんなネガティヴなイメージはないんじゃないかと思うんだが、ヒカルは引っかかったんだよね。

思うに…と話は続く所だが今宵も時間が来てしまったようなのでこの辺で。ちゃお〜☆ うわぁ、あたし絶対ちゃお〜だなんて言わない、と言った時点で既に過去に2回ちゃおと言ってました宇多田ヒカルの提供でお送りしました♪ 

いや提供してくれてるのは毎日のこの日記の"話題"なんですがね。明日も更新すっかな〜。毎日いつも書き足りないんだよね。

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で、前回の悪意に満ち満ちた(?)まとめの中に入ってこなかったKeep Tryin'の歌詞のテーマは何かといえば、それは他者へのメッセージである。

歌の中盤で、独り言からメッセージに切り替わる節が出てくる。『大切な命 とっても気にしぃなあなたは少し 休みなさい』がそれだ。"あなた"である。その前段が『I don't care about anything クールなポーズ決めながら実を言うと戦ってた』だから、これは流れ上それまで独白していた人自身に対して言い聞かせていると判断するのが妥当だろう。(今まで実は)戦ってたんだから休みなさい、という自分自身に向けたメッセージ。ここにトリックがある。

実を言うと、巧まれた事に、キプトラはこの"あなた"に至るまで日本語では一度も代名詞、即ち私も僕も君も何も出てきていないのだ。途中に『一人が少しイヤになるよ』なんてのも出てくるから独り言で言ってんだろうなぁ、というのは窺わせはするものの、この人称の不安定さがあるからここでの"あなた"への移行がスムーズに行く。

どっちつかずの状態のまま、宇多田ヒカルさんの独り言を聞かされているような、聞き手が共感しながら自分の事として受け止めているような、そんなあやふやさを作り出した上で"あなた"と指さされる。これによって、ヒカルが自分自身に対して"休みなさい"と告げる独り言とヒカルが僕たちに向けて発するメッセージが重なる、同じになる。ここを経てから更に『どんな時でも価値が変わらないのはただあなた』と歌ってから最後世の数多の老若男女に呼び掛けるメッセージに飛び込む。十時のお笑い番組を一人で見ていた所からものの数分でこのスケール感にまで到達するのだ。それを可能にしたのがこの"代名詞・人称のトリック"である。前作のPassionが『僕ら』と『わたしたち』の物語だった所からこのキプトラ後半の「世界の総ての"あなた"に向けたメッセージ」へ。その間を繋ぐのが"いちども私を私と呼ばない独白"が繋いでいるのだ。これは光の世界観そのものの反映であり、多くの人々の支持を得られる所
以でもあるのだが、こうして読み直してみると余りに自然でここにトリックがあると看破するのは難しい。作り込んだ作品は不自然を通り越して極々自然になる。その事を自らの構造でもって示すのがこのKeep Tryin'という楽曲なのである。

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寄り道というからには本道がある訳で、今の場合はキプトラの歌詞の話だ。やはりここも気まぐれに戯れにおしとやかに(?)本道に戻ってみる事にしよう。

驚くべきなのは、今まで見てきたようにこれでもかと精緻かつ複雑極まりない音韻構造が与えられていながら、言ってる事はほぼ宇多田さんの独り言に等しい事である。普通、ここまで歌詞を巧んでしまうと言いたい事を一貫して描写するなんざほぼ無理な話だが、キプトラの歌詞は実にテーマがハッキリしていて読みやすい。ところどころ聞き取りにくいが。まぁそのうちの幾つかは今まで見てきた通り熊と、じゃないや態とのものもあるからね。

言いたい事が一貫しているのは、こんな風に歌詞を並べるだけでも見てとれるだろう。

『どうでもいいって顔しながら
 ずっとずっと祈っていた』
『ほんとは誰よりハングリー
 気持ちの乱れ隠しても』
『クールなポーズ決めながら
 実を言うと戦ってた』

これらの歌詞が、いずれも「外面は平静を装っているが、内面はえらいことになっている」という意味である事に異論を挟む余地はないだろう。一言で言ってしまえば「宇多田ヒカルはむっつりスケベです」という事だ。

もう一通り揃えてみよう。

『無い物ねだり
 ちょっとやそっとで満足できない』
『挑戦者のみもらえるご褒美欲しいの』
『何度でも期待するの
 バカみたいなんかじゃない』
『ほんとは誰よりハングリー
 気持ちの乱れ隠しても』
『無い物ねだり
 もっとだもっとだ満足できない』

これらも一言で要約すると、『宇多田ヒカルは欲求不満です』という事になる。『もっと欲しい』んですな。

更にもう一通り揃えてみよう。

『I don't care about anything
 (私は何も気にしない)』
『去年より面倒くさがりになってるぞ』
『ちょっと遅刻した朝もここから頑張ろうよ』

学生時代の遅刻癖まで披瀝してしまって言いたかった事は「宇多田ヒカルはだらしないです」といった所か。

これら3つを纏めると、『宇多田ヒカルはむっつりスケベで欲求不満でだらしがないです。』となる。一体何に関してだらしないのか小一時間問い詰めたいところだがそれは自粛するとして、これだけ自分を貶めておいて結局何が言いたかったかといえば『だからKeep tryin'』なのだ。

自分は周囲から飄々としていて何も気にしてないように思われてるけど、優等生で望ましいものは既に総て手に入れているように誤解されてるけど、その実感情の起伏は激しくてまだまだ足りないものも一杯あって、隠してるけどダメな所も沢山あるんだ、だからまだまだ頑張る事、やってみたい事が山ほど待ってる、だからKeep Tryin'と歌っている訳だ。

これだけ独り語りに終始する歌詞でありながら最後に老若男女に呼び掛けて説得力があるのは、正直に吐露しているからである。誰しも自分の本音を見極めるのは難しいし、それを人に向かって素直に告白するのは更に難しい。ヒカルは堂々とそれをやっている。堂々と胸を張って「胸を張れない私がたくさん居る」と歌うから皆の共感が得られるのだ。誰しも思っているけれどとても口に出さない、出せない事を言う勇気が、やはり希有なのである。

というわけで改めて歌詞の内容をまとめなおしてみると、「宇多田ヒカルはむっつりスケベで欲求不満でだらしがないので、いろいろやってみてます」という感じになるかな。いやはや今夜は眠れそうにない…(何故

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Give Me A Reasonの話が出たのでひとつ寄り道をしていこう。この曲は、幸せになろうと並べて聴くと面白い。

『やっと見つけた答は姿を変え
 私を惑わす Hey
 くやしいほど遠くから からかわれてるみたい』
『その続きを知りたくて
 賢者を訪ねた
 すると彼は言いました
「教えない」』

どうやら光にとって真理や真実、或いはそれを知る者というのは、彼女をからかっている、或いは試していると感じているようだ。

『ひとりだけの誓い ギュッとささやいて眠る』
『忘れそうになるその都度に
 また交わしたい静かな誓い』

ひとりだけの誓いだったのがひとと交わすものになっている。

『明日をみつめようとしないで』
『明日は今日よりも…』

この『…』の先がどうなっているのかが気に掛かる。

『振り返りながら来た道』
『もう立ち止まることを恐れないよ』
『寄り道もしたけど…』

曲が切り替わっている事を危うく見過ごす所だ。

『ほんとはワケなんていらない』
『言い訳は無用』

色々考えた挙げ句、大体同じ結論に達する。

なかなかの符合をみせている2曲、もっと言ってしまうと光の楽曲群には共通したテーマが一貫して流れていて、それがこの2曲を取り上げた時にも顕現した、という言い方もできる。作詞の間隔は3年といった所だが、その間に何が変化して何が不変であったか、今から考えてみるのも興味深いかもしれないよ。

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Give Me A Reasonをこの「おきるおとな、ねむるこども」シリーズに嵌め込むのは些かこじつけに過ぎるだろうか。確かに、これをオーソドックスなラブソングとして聴けば、たとえ夜の歌だとはいえ眠る事とこどもであることを直接結び付ける強い理由は見当たらない。確かに、それでいいだろう。話はそこで終わる。

話を終わらせない方向で考えてみる。このblogの読者ならお馴染みであろう、宇多田ヒカルの歌詞を読み解く際の必殺の処方をここで適用する。歌詞の上で恋愛の相手(恋人でも、好きな人でも)だと我々が思い込んでいる"you、君、あなた"を「母」と読み換えて歌詞を吟味するのだ。

これさえ踏まえれば、あとは歌詞を読むだけで事足りる。

『Give me a reason to show you
 いつか君に追いつきたい
 (won't you) Tell me why I should try to
 近づくほどに遠くなるみたいだ』
『Give me a reason to show you
 振り返りながら来た道
 (won't you) Tell me why I should try to
 もう立ち止まることを恐れないよ』

今までと全然歌詞の見え方が変わったと思う。あとは次に嵐の女神を続けて聴けばよい。何も恐れる事はないだろう。

こう解釈すれば、Give Me A Reasonの場面設定が夜で、"こどもからの声"を伝えていることがわかってくる。みてみよう。

『Only Sixteen 今夜』
16歳の夜である。尾崎とはちょっと違う。いやそんな余計な事はいい。こどもでもおとなでもないお年頃、というあやふやな口火の切り方だ。

『守られるだけじゃなく 誰かを守りたい』
これも、母との関係性の中から成長し自立しようとする娘の気概が感じられる。なるほど16歳の夜である。まぁこの"母"は特殊で、16歳前後3年間は人生暗かったそうだが、多分笑い事では全くないんだろう。いやそれもまぁ今はいいか。

『一人だけの誓い ギュッと囁いて眠る』
これも相手が恋人とかだと意味のよくわからん1行だが、母と自分を省みての決意なりなんなりを囁いていると解釈すれば筋が通る。こどもとしての誓いを胸に抱いているのでこれから眠るのだ。今から誓いをカタチにしようというよりは、その思いをまず胸に刻み込む為にここから夢をみるのである。

『If I had you この夜もコワクないのに』
もしあなたがいたら夜が怖くない、なんていう相手が居るのならそれは母親、そして語り手はそのこどもだろう。コワクとは"子惑"であり、母が居れば子は心が惑う事もないという意味である。流石にこれはこじつけか。

そして最後。決定打。
『ほんとはワケなんて要らない
 こどもみたいに声を上げて走ろう』
あれだけ理由をくれ理由をくれと歌い続けてきたのにワケなんて要らないときた。タイトル全否定だ。そして、こどもみたいに声を上げて走るのである。無垢への回帰。GBH的に言えばInnocenceと夢である。誓いを囁いて眠りにつき母を恋い慕い、夢の中でこどもに戻る。やはりこの歌もまた「おきるおとな、ねむるこども」シリーズに相応しい。

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嘘みたいなI Love Youに出てくる"夢"は、こんな具合である。

『見渡す限り広がる
 嘘の咲かない草原を
 夢の中で見たことがある』

"嘘の咲かない草原"という表現は興味深いが、今はそこに立ち入らない。ここで兎も角見てとれるのは、現実には有り得ない純粋な理想が夢の中にはあるという思想だ。

これはGoodbye Happinessの『夢の終わりに待ったはなし』&『So Goodbye Innocence』の組み合わせと、言っている事が近い。純真無垢。何らかの理想。

嘘愛では次のようにも歌っている。

『間もなく解き明かされる
 真実一緒に確かめよう
 目が覚めても悲しくない世界が
 二人を待ってる』

これも、裏を返せば目が覚めたときの世界は夢の中に較べて悲しいものだ、という含意がある。勿論それは常識的といえば常識的だが、こと光に関していえばそれは必ずしも当てはまらない。彼女が悪夢をみるからである。

真偽の程は定かではないが、いつの間にか腕に握り痣を作ってしまう位に彼女の悪夢は強烈なようだ。なべても、『夢も現実も目を閉じれば同じ』と歌う彼女である。常に悪夢をみるわけではないとしても、夢から覚めた時の感情が悲しみではなく安堵であるケースも多いのではないか。

何が言いたいかといえば、光にとって寝て夢を見るとか起きて現実を直視するとかいった表現は、結構な割合で比喩なのではないかという事だ。自身の実体験に基づいて、という側面よりも表現として伝わりやすい方法論として寝たり起きたりが繰り出されているという解釈だ。

比喩であるならば、歌詞に睡眠と起床覚醒が出現する場合、常にではないにしてもそこで何が喩えられているかについて注釈が必要になるだろう。「ねむるこども おきるおとな」というテーマもその比喩の解釈と注釈の一環であり、そこからKeep Tryin'やGoodbye Happinessに出てくる少年や男の子がどういった存在であるのかを解き明かすキーワードのひとつだと言う事が出来る。日常に最も有り触れた毎日寝たり起きたりという表現を用いて、真実や真理といったやや形而上学的な話題に切り込んでいく様は、光の「入り口は広く、出口は狭く」を実践する面目躍如な姿であるといえるのではないだろうか。

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ヒカルの歌詞を目にし耳にししていると、J-popってこんなに寝たり起きたりしてたっけ、という位寝たり起きたりの歌詞が多い。何しろ、ULTRA BLUEなんかは前半が夜から朝昼、後半が朝昼から夜へ、という区分が出来る程に歌詞に1日のうちのフェイズと睡眠と覚醒が出て来るのだから、という話までは今までに何度かしてきた。

で、今回は前回触れた通り、その寝たり起きたりと大人とこどもを結びつけて眺め直してみよう。

まずは"光"だ。『どんな時だって たった一人で 運命忘れて 生きてきたのに 突然の光の中、』『目が覚める 真夜中に』とある。これは有り体に言ってしまえば結婚決めましたという事だ。即ち大人になる合図である。身も蓋もなさ過ぎるが、かといって反論も難しい。何となく釈然としないが。

次は最高傑作"ぼくはくま"だ。『夜は「おやすみ まくらさん」 朝は「おはよう まくらさん」』、寝たり起きたりだから、こどもの話なのか大人の話なのか決まらない気がするが、これは間違いなくこどもの話だ。なぜなら、『朝は「おはよう まくらさん」 夜は「おやすみ まくらさん」』ではないからだ。これだとくまちゃんの起きてる日中の間の話になるが、この歌は夜寝てから起きるまでの話を描いているのだ。夢の中である。起きているのか寝言なのか、まくらさんを抱き締めながら『ママ』と呼び掛けるから切ない。これが昼間の話なら「ただいまーお腹空いた、晩御飯まだ?」な話になってしまう。この差は大きい。この歌はこどもが母を乞い焦がれる歌なのだ。(恋い焦がれる、が正しいが)

それならば嵐の女神だ。『小さなベッドでおやすみ』するのは当然こどもだ。言うまでもない。

Goodbye Happinessはどうだろう。『夢の終わりに待ったはなし』であり且つ『So Goodbye Innocence』なのだからこの歌は幼年期の終わり(Childhood's End)の話だ。やはり夢から覚めるとこども時代が終わる。

嗚呼、更にGive Me A Reasonやら嘘みたいなI Love Youやらまだまだあるぞ。次回もこの続きだ。

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折角話題に出したので、Keep Tryin'とBeautiful Worldの対比についても触れておこう。

キプトラの方は、
『ちょっと遅刻した朝もここから頑張ろうよ』
『毎朝弱気めな素顔映す鏡退治したいよ』
と歌っているように、朝に起きる歌である。ULTRA BLUEの前半は夜から朝昼への流れの曲で構成されている。例えばMaking Loveも『長い長い夢の途中』から最後『もう起きなきゃ』で終わっている。キプトラも例に漏れず、夜に仕事から帰ってきて朝起きる物語だ。

一方、Beautiful Worldは
『もしも願い一つだけ叶うなら
 君の側で眠らせて』
というように、これから眠る、眠りたいと願う曲である。或いは、その願いは最早叶わないものなのかもしれないが。

同じように"少年(boy)"に向けての視線で歌われてはいるが、自らを奮い立たせて朝起きようとするキプトラと、その少年の側で眠りたいと言う美世界。この対比の含意とは、恐らくヒカルの歌詞世界の中で、"少年時代"というものが『夢』と分かち難く結び付いている点なのではなかろうか。

大人になれないこどもを歌ったBe My Lastでは『夢見てたのはどこまで』と歌い、それが現実との食い違いを生んだ様を描いている。ヒカルの歌詞には『眠る』『起きる』といった歌詞が『夢』と共に頻出するが、少年時代を眠って夢を見ているようなもの、という風に解釈するならば、自分の弱さを認めて自立せんと力強く一歩踏み出すShow Me Loveに(Not A Dream) と付け加えた心理も見えてくる。夢の否定(或いは昇華)とは、"大人になる事"そのものだからだ。

夢と眠りと少年、というキーワードで読み解くならば、今挙げた以外にも幾つか思い当たるな。次はそこらへんの話になるかもしれません。

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という訳でKeep Tryin'は"大人からの視点"を強調した歌詞になっている。

『十時のお笑い番組 仕事の疲れ癒しても』なんてまぁ社会人の言う事だし、『将来国家公務員だなんて言うな 夢がないなあ』も大人が子供に溜め息を吐いてる感じだ。『ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん』も、まぁ学生相手という事もなくはないかもしれないし、これは自分の事を指して言ってるとも友達の事を指して言ってるともどちらともとれるが兎に角大人な台詞であると解釈するのが妥当だろう。『どんぶらこっこ 世の中 浮き沈みが激しいなぁ』も、子供が言えば可笑しみを誘いそうだから基本的に大人の言い分である。そして『少年はいつまでも いつまでも片思い』、これも大人から子供へ―或いは若い時の自分を指してかもしれないが―の目線が感じられる。基本的に老若男女の誰しもに共感が得られる歌詞を書くヒカルにしては、"大人になった私"という感じが強調されている。

この特徴は恐らく、Keep Tryin'が3部作の最終作である事に大きく関係してくる。

3部作1作目のBe My Lastの歌詞を振り返ってみよう。光曰く、この歌の要点は歌い出しの3行に尽きる。

『母さん どうして
 育てたものまで
 自分で壊さなきゃならない日が来るの』

つまり、こどもが大人に問う場面から3部作は始まる訳だ。『何も繋げない手 大人ぶってたのは誰?』の一節からも、この歌に込められた"こどもじみた何か"が感じとられる筈である。こどもである為、大人には解る事が解らない。背伸びはしてみるのだがやはりどうにも届かない。一言で言えば児戯、或いはお飯事といった所か。

そして、Passion (Single Version) に於いて、『僕ら』は『わたしたち』に成長する。光はインタビューで「老人が若い頃を回想するような」といった趣旨の事をPassionについて発言しているが、それはSingle Version独自のパートの有無に依らない話な気がする。前半の『僕ら』は、老人が若い頃を思い出し若い時の視点に飛んで自分たちの事を指す代名詞だという読み方が成り立つが、そのまま『ずっと前に好きだった人 冬にこどもが生まれるそうだ』に行ってしまうと何か違和感を感じる。こどもってのが孫の事ならまだしも。なので、Single Versionのパートは語り手を老人とは限定できないのではないか。もっと漠然と「嘗て"僕ら"だったわたしたち」という風合いでいい気がするのだ。

そしてKeep Tryin'では大人が少年の情熱の見守り応援する視線に変わる。具体的な年齢というよりは、"少年の瑞々しい心の在り方"を讃えているといった方がいいだろうか。このあたりは後に『自分の美しさまだ知らないの』と歌うBeautiful Worldに通じていくものがあるようにも思える。今振り返れば、だが。

こどもから大人に問い掛けるBe My Last、少年から大人へと成長するPassion (Single Version)、大人から少年にエールを送るKeep Tryin'。そんな風な視点からこの3部作をもう一度聴き直してみれば、また新たな発見があるかもしれないよ。

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