無意識日記
宇多田光 word:i_
 

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男女の区別は成年未成年の区別と似たようなもので、結局は社会便宜のひとつに過ぎない、という話であった。(その話まだ続けるんかい…)

これは、病気疾患症状障害といった名称にも共通だ。病気というと人は風邪のように病理学的生理学的現象を思い浮かべてしまう。写真をとって腫瘍を指差してこれが病気です、というような。しかし、それもまた錯覚に過ぎない。そういった明確な物的証拠が示されるのは稀・特殊で、殆どの病気や障害は、その時その場所の社会的要請によって病気や障害に「なる」「される」のだ。例えば(古代でも現代でも)狩猟社会で読み書きが出来なくても仕事はあるだろうが、今の日本で読み書きが出来ないと色々な名前の障害名を託される。そういう社会だからその特性は障害と呼ばれるのだ。他の社会に行けばその人は圧倒的な天才で傑物なのかもしれないのに。そういったケースは枚挙に暇が無い。キリがない。

ではなぜそのような窮屈な、人を偏見による苦悩に追い込む社会便宜が生きているかといえば大衆の情報処理能力が低いからである。何と較べて高い低いをいうべきなのかはおくとして、細かい事を言われてもよくわからないとかぶりを振る人間が最大多数派なのだ。冷静に考えればそれがいちばんの環境不適応即ち病気であり障害なのだが、最大多数派が社会を構成する以上そう呼ばれ得ない。徹底して、病気や障害は社会的要請なのである。

この、情報処理能力の低さとは大衆の特性である。人は誰しも、自らの専門分野以外は無責任な大衆であって、興味もこだわりもなく何もかもさらっと受け流す。相対的な概念であって、誰それの処理能力が高くてこっちは低い、という話ではない。あらゆる分野に対して専門的な人間など居ないのだから。それが専門性の定義だもんね。

特に情報処理能力で問題とされるのは「あやふや」に到達できない事である。まず大衆は「白か黒か」で情報を判断する。「それはいいニュースなのか悪いニュースなのか」「敵なのか味方なのか」「晴か雨か」といった具合に。「降水確率40%」と言われた時に傘を悩む人、居るでしょう。私もです。本来ならば、あらゆる事に降水確率のようなグラデーション、「ほとんどの話はどっちつかずでいいところもあればわるいところもあってそれも見方によっては変わっていって」という風な様態が存在するのだが大衆の情報処理能力は低い。字数が増えると嫌がる。「白!」「黒!」と一言で断言して貰ってもうその話題は終わりたいのだ。そもそも興味が無いんだから。

従って、「男」「女」という区別をした時点で偏見は免れない。男の子が大変なのは、男の子として社会が見ているからで、それ以上の事は何もない。まず男女の区別をやめてみれば、何が問題かはすぐに明らかになる。大抵、見られて言われた方ではなく、見て言った方が問題を抱えているのだ。それが何のシグナルなのかは、そうやって見極めなくてはならないだろうて。

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やるじゃんヘッセ。残り8分の1。さて、どう〆てくれようか。まぁ今夜もそれは置くとしよう。読み終わるまで待つ。

さて。男女というのはどこまで行っても社会的な、便宜上の区別でしか無い事をもう一度強調しておこう。それは生物学的な雌雄を人間の場合に言っているのであって、確かに社会的側面はそこにあるけれども根底には生物としての、生身の、物理的な雌雄の区別は厳然としてあるだろうに、と健全に正しく指摘されそうだが、それも実は間違いだ。

区別。あらゆる個体を、人から生まれた人を、染色体でも骨格でもホルモンでもいい、何らかの生理学的或いは生化学的若しくは物理的な基準を用いて男女に判定できるというのなら、男女には社会的以上の意味を持たせる事が出来る。しかし、それは偽だ。数は少ないが、男か女か判別できない個体は存在する。即ち、そんな基準は(目一杯譲歩したとして"今のところは")存在しない。それを無理矢理、学校や書類で男女に区分けするのだから男女とは社会概念以外の何ものでもない。

それは、例えば未成年の飲酒を禁じる法のようなものだ。これも本来は、個々の個体に関してアルコール摂取の危険度を判定して適量(零を含む)摂取を促すのが道だ。即ち、年齢は一切関係無い。勿論統計をとれば未成年の方がアルコール摂取に関して危険度が高いという調査結果が出るかもしれないが、統計は実在しない。ただの数字であり、個々の個体の健康がアルコールとどう連関しているかについて何も語らない。即ちこれも社会秩序上の効率性を目的に便宜上年齢という大層おおざっぱだが確実な基準を用いているに過ぎず、やはり社会的以上の意味はもたない。繰り返す。統計という個体は実在しない。抽象的なモデルであって、現実を知る為の助けにはなってもそれは常に不十分なのだ。

そういう意味において、男女の性差など幻想である。誰も完全に男ではなく、誰も完全に女ではない。

反論として、次のようなものも在るだろう。精子で授精させれたら男だし、卵子が受精したから女だと。妊娠出産したから女だと。そういう基準は論理的には有り得るが、私個人の感覚でいえばその定義には違和感がある。不妊治療を頑張る夫婦は男女ではないのか。もし人が必ず男女に分けられるなら彼らは人ではない事になる。私には有り得ない。だが確かに、それは趣味の問題かもしれない。私は認める気はないが。

ならば、と「男」と「女」に加えて「第3の性」を作ればいい、となるかもしれない。それもまた論理的には有り得るが、私にはしっくりしない。半陰陽は多様である。第3の性を定義するには「男でもないし女でもない」と否定の集合即ち補集合として定義するしかなく、ならば不妊者を人ではないと切り捨てるのとどう違うのか。結局は同じになる。

やはり、男も女も実在しないと考えるのが妥当だろう。それは誰にも当てはまらない抽象概念に過ぎず、統計や社会や秩序といった人工的な目的に添って援用されるモデルに過ぎない。「男らしい」「女らしい」に至っては、ほぼ社会の都合である。男性ホルモンを投与したら男性的に、女性ホルモンを投与したら女性的になる、というのは確かに真実だが、それこそまさに男性や女性というのが概念そのものであるという証左だ。東に進む事は誰でも出来るが、東を目の前に持ってきて指差せたり持ち上げたり出来るヤツは居ない。男女は便宜なのである。

何の話してるんだ俺。また次回。

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やれやれ、『お金ならあるわよ』がまた炸裂したのか。


@utadahikaru : 私が人生のパートナーに求めるものランキングの最下位:経済力
@utadahikaru : 経済力のある男性が優しくてかわいくて自分を一番に思ってくれる女性(経済力低め)を選んだってなんの不思議にも思われないのに、性別が逆になると問題があるかのように思うのは非常に非理論的だ。男の子って大変ね。


理論はtheoryでlogicは論理だとこどもの頃に叩っ込まれなかったのか、というお馴染みのツッコミはさておいて。別に間違いではない、というかtheoryの違いについて話しているので『非』を使ったのが間違いだな。そんな日本語は無いが「異理論的」或いは「誤理論的」くらいが適当か。

ここをハッキリさせないと、何を問題提起しているかがあやふやになる。基になる理論として命題に「男は女を養う(ようにする)」が存在するなら論理的には何の問題もない。男と女を対称的な存在、即ち入れ替え可能と判断すると今挙げた命題は論理的に成立不可能(新しく「女と男は養い合う」「男と女は互いに養われ合う」といった命題を提示しない限りは)となる。いずれにせよ理論と論理は常に密接に関連し合う。

とはいえ、ツイート全体としては問題提起ではなく『男の子って大変ね。』という感想文だ。皮肉と捉えるのがいちばん正直だが、そこに込められている感情は多層的だ。私は気にしない、という命題を汲み取れればそれでいいかな。もどかしい、ともとれるし、「そうだよ、何か悪いの。」と意地になって肯定しているともとれる。何だろう、言いたい事があった、と受け止めますか。

確かに、誰も被害者が居ないのに他者を蔑むのはシステム不良だ。一連総てが無駄である。情報を出すリスクというお馴染みなヤツにくわえて、情報を出さないリスクというのも考えなければならない。誰も何も喋らなければこんな事にはならない訳で、はてさて、出さないリスクを生んだのは誰かという犯人探し、いや犯人捜しかな、も可能だが、こちらはそれについては取り合わない。結局のところ「まかせる」以外言う事が無い。

男女の対称性と非対称性について言及するのは有益だが、そもそも、生物の性を男女に分ける事自体精度が粗い。個体数が少ないだけで多種多様な半陰陽(なんか他に言い方ないの?)が存在する。描写の精度を上げるには性差をデジタルではなくアナログに捉える必要があるだろう。ま、今はそるについて論じる字数はないのだけれどね。もともとはそういう問題じゃあないしな。

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くどいようだが。20世紀に映像と音声が記録され保存され複製されるようになり、表現の幅はぐっと広がった。それまでは小説と挿し絵の組み合わせでしか表現できなかった物語が、書き割りと早着替えの衣装と黒子の振る舞いで申し合わせるしかなかった異世界の風景が、そのまま入力として、即ち画面と拡声器から放たれてこちらに届くようになった。19世紀以前に小説や絵画や芝居やオペラを構築していた人々の中には、20世紀に生きていたら必ずや映像と音声の芸術、映画を撮りたいと考えた筈だ。更に、ジオラマとトランプに不確実性を託した遊戯者達は、当然の事ながら今生きていればコンピューターゲームの制作に没頭していたに違いない。

そんな時代、20世紀を経て21世紀にも随分馴染んだ今、歌でしか表現できない事は限られている。実際、90年代の時点で、流行歌はいつだってトレンディ・ドラマを彩る添え物でしかなかった。テレビドラマはそれだけで視聴率20%30%をとっていた。歌番組でそれを出来ていたのは紅白歌合戦とレコード大賞だけ、即ち年に一回大晦日だけだった。

そしてインターネットが言葉を遠くに運ぶという歌の役割を大幅に奪い去る。その中歌詞はどこに行くべきか。


おそらく、『Fantome』には、その展望みたいなものが幾種類も込められている、と私はみている。これだ、という方向性を指し示しているというよりは、あらゆり可能性を探っているのではないかと。『道』『俺の彼女』『花束を君に』…という風に並べただけで、果たしてこの作風はどこかに収束するのだろうかという疑問が湧く。もう、その印象のままの歌詞が並ぶのではないか。日本語タイトルのみが居並ぶのも、その実験性の表れなのだと。歌詞に何が出来るか。歌詞は何に成り得るか。そもそも、歌詞とは何なのか。どうして言葉とメロディが結びついたものはこうも、こうも生きているのか。その問いに対する回答の数々が眼前に広がるのを期待しつつさぁあと4週間で店頭陳列ですから皆様抜かりのないように何卒宜しく申し上げますm(_ _)m

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ふむ、あと4週間なんだが相変わらず動き出さないな。今夜か明日晩あたりが怪しいっちゃ怪しいがそれ言い出すとキリがないわね。やれやれだぜ。ゴシップ記事も、大量に情報が溢れてる時ならそこだけ浮くから気にされないもんだけど、他に何もないとそれが総てになっちゃうからね。困ったもんだ。嘘ついたもん勝ち。

勿論、いつもの通り、100%嘘じゃあないのだろう。混ぜる。常套手段だ。人は塊で認識し判断する。「記事」で認識の対象を区切ればそれに対して真偽値をデジタルに割り振っていく。「なんとなく」や「この程度」という思考が、特に数学的思考に親しんでない層(文系、だな)にとっては困難だ、というのはこの5年間イヤという程みせられてきた。それ以前からわかっていた事だけれども。

「分析」が出来ないのだ。分けて考える。それだけの事なのだが、確かに、学校でそれをちゃんと教えているかというと心許ない。「記事」といってもそこに段落があり文があり文節があり単語がある。この文は真、この文は偽、と分けて考えていければ何て事はないのだが、「記事」という単位で真偽値を与えてしまう。そしてそれが雑誌の名前になり週刊誌やスポーツ紙全体、ゴシップ全体、マスメディア全体へと広がっていき、マスコミに真偽値を与える。曰わく「マスコミは嘘を吐く。信用できない。」と。

本来なら、興味がある事柄であればあるほど分け入って問題点を絞り込むものだ。従って、上記のような情報の粗雑化(四捨五入の桁上げみたいな感じ)は、当該対象にさして関心のない層が為す行動・現象である。オリンピックでいえば、メダルかメダルじゃないかの区別みたいなもので、それはその競技や選手に興味の無い層が情報の簡単化として与える印象だ。その競技や選手に興味があってずっと追い掛けているような人間にすれば4位は3位の次に凄いとしかいいようがなく、前者が失敗で後者が成功、みたいな分け方は心情的には出来ない。昨今は、五輪については逆転現象が起こっていて、「五輪は普段興味を持って貰ってない層にアピールする場だからメダル獲得が何より重要」と競技側が認識して全体を計画しているのだが。それがいいかわるいかは別として。

という訳で、ゴシップを読んだ時には、なるべく細かく読み解く必要がある。書き手はプロである。正解な情報を伝える、という点においてではなく、読者の注意を引く、という点において。だから、100%嘘で固めたら誰も取り合ってくれなくなるし、本当の事だけを載せていても選んでもらえない。どの新聞雑誌も同じ内容になるからね。ならばそこで独自スクープをとなるのだが、日刊や週刊でコンスタントにスクープを掲載するのは難しい。従って…という環境下で生み出された技術の数々に基づいて、そうして書かれた記事なのであるから、疑うだけでも信じるだけでもどちらも足りない。大抵ここらへんで受け手側は疲弊して色々と諦める。うまく出来ている。残るのは取材対象に対する偏見だけだ。それに対して何かをする気はないのだけれど、まぁ、ええっと、そういう風なのだな、と思っておいてくださいまし。僕はアクセス数を稼ぎたくてやっている訳ではないので、わざわざ嘘を吐く必要は、ないのですから。

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宇多田ヒカルにライバルは居ない。それは事実なので、それでも猶考えてみる。

例えば、ヒカルがデビューした時。その頃でいえばメアリーJ.ブライジやマライア・キャリーみたいに将来はなれるんじゃないかと期待された。日本人の女の子が、ね。もしその路線を歩んでいたら、彼女たちはライバルと言えたかもしれない。ただ、今はその道を進んでいるとはいえないかな。『This Is The One』で置いたバトンを拾い直したら、わからないけれど。

或いは、国内に目を向ければ、松任谷由実や中島みゆきのような、ひとつの世界を作り上げた女流シンガーソングライターの系譜に名を連ねるのを期待されたかもしれない。その期待に対しては、ある程度応えたかな? でも、彼女たちと較べて、圧倒的にLIVEコンサートの数が少ない。そこを追いついてくれば、同じカテゴリーとしてライバル視を…いや流石に歳が離れ過ぎてるかなぁ…。

浜崎あゆみの名前も出しておこう。「作られたライバル」である事に疑いはない。当人たちにそんなつもりはなかったろうし。でも、2001年3月28日からの一週間で、このたった2人の女の子だけで600万枚近いCDを売ったのは衝撃的で、実際はどうか知らないが「日本人が最も沢山のCDを(もしかしたら音楽を、かな)購入した一週間」として皆の記憶に残っている。『Movin' on without you』を通じて、ライバルとは言えないまでも、同じ時代を生き抜いた戦友としての共感みたいなものは両者に勝手に芽生えているかもしれない。カバーって、いいもんですね。次はヒカルがあゆの歌をカバーして圧倒してあげてくれても。ちょっと意地悪かな?


ヒカル自身の意識の中で、ライバルとは言わないが、目指すべき理想のひとつがP.J.ハーヴェイらしい。私がその点について未だにピンと来ていないので何かを語るのは出来ないけれど、ヒカルの場合、尊敬というより共鳴に近い感覚があるのだとすると、歳は離れているとはいえ同じ時代を生き、こうして同じ年に新作を出している、出そうとしているのだから、思い切ってライバルと言ってしまっていいかもしれない。気が向いたら、『Fantome』と聴き較べでもしてみるかな。わかりませんが。


ついでに私にとってヒカルのライバルはというと、ピンク・フロイドだ。あそこまで時代性と永遠性を兼ね備えたロックバンドは居ない。女性シンガーでもなければポップスでもない、ムサ苦しい男ども5人(3人まで減る)だが、なんというか、地球という星を全部包み込めるとしたらああいう音楽だと思うので、そういう点でヒカルに合っているというか、「原子心母」という曲があるからという訳ではないのだけれど、「母なる」という形容詞が最も似合う音楽だと思っているのだ私は。このムサいおっさんどもが奏でる音を。いや、ギルモアもバレットも若い頃の写真を見ると確かに美少年だったのじゃが。

余計な話に字数と時間を割いてしまった。いつだって、今のヒカルのライバルは2人しか居ない。過去の宇多田ヒカルと未来の宇多田ヒカルだ。今までの(名曲ばかりを作ってきたという)凄まじい実績と、今後成し遂げるであろう音楽的境地の展望が、いつだってヒカルにプレッシャーをかける。その威力を考えれば、今更ヒカルに外部にライバルを想定して拍車を掛ける必要は、ないのかもしれないな。果たして『Fantome』は、ライバルたちに打ち勝てるような強い力を持っているのか。大抵この闘いは過去に勝ち未来に負けるのが…いや、全部引き分けでいいかな。ヒカルはいつだって最高なんだから。違うか? そうてしょう? 私の言う通りですよね。どうだ、参ったか。えっへん…。

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チケットの転売NOの話で自分が寧ろ問題だと思うのは、有名ミュージシャンたちがああやって気軽に名前を使わせている事だ。なかには熟慮の上というケースもあるだろうけれど(なかったらどうしよう)、自分の知名度を利用されている事に対して危機感はないのだろうか。

311の時も思ったが、ミュージシャン気質なのか日本人気質なのか知らないけれど、兎に角日本人ミュージシャンは雰囲気に流され易い。個々の人間をみるととてもそうは思えなくてもたくさん集まるとそうみえるのは体質なんだかシステムなんだか。一旦落ち着いてよく考えようよ。まずは、水を飲め。

飲んだ。

そういう事をまともに勉強してこなかったから、というのがわかりやすい解答だ。環境問題やエネルギー問題、需給と価格決定、とか基本的な話も学校で学んでいない。特に、放射線に関する学問は大学の教養課程まで学んでも1mmも学べないのだからそれについて語れる門外者は全人口の1%も居ないだろう。いや、0.01%も居ないだろう。

彼ら有名ミュージシャンはそね0.01%なのだ、だったら話は早いんだが人は能力の測り方次第で凡人にも天才にも成り得る。音楽の天才が環境問題については素人以下、というのは幾らでも有り得るどころか最大多数派だろう。そんな人たちに期待するのは間違っている。大体、希有な例が周りに幾つもあるから錯覚する。常日頃からエネルギー問題に関心を寄せていて映画なんかも紹介したりして。違う方角には物理学者と放射能についての入門書まで著す人まで居る。しかし彼女達は例外なのだ。

コンサート・チケットに関しては、ミュージシャンはコンサートについては玄人だからと思ってしまいそうだが、これは商いの問題であるから彼らは疎い。苦手と言ってもいい。環境問題なんかよりずっとな。つまり、「よくわからないけどそう言うんだからそうだろう」と説明を鵜呑みにして賛同の意を表しているケースが幾つもあるのだ、と推測される。こういう時に「ん、待てよ」と批判的考察が出来る人は、うん、ミュージシャンに向いてないね(笑)。

最後にこう付け加えれば説得力が増す。「あなたの稼ぎが減りますよ」と。最後じゃないか、もっとさりげない感じでどこかに紛れ込ませた方がいいかな。「音楽の未来」っていう大義名分をアピールした方がのってくるだろうか。

私は誰を煽っているんだろう。

ミュージシャンは音楽が専門なのだからそこを評価すればいい。どうしても有名人に対して人格者を期待してしまうが、宇多田ヒカルは「スペシャル・ボーナス」でしかなく、通常の人間があんなにもあらゆる面で秀でられるとは期待しない方がいい。自分の好きなミュージシャンが名を連ねているからといって、無闇に賛同する事もない。逆に、落胆する事もまたない。あクマで冷静に、議論の行く末を見守っておけばいい。そうしているうちに、すぐこんな問題があった事すら忘れられるから。日常生活というのは大体においてそういうものである。

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面白いけど普通、つまらないけど独特。どっちがいい?

面白くて独特、と答えるのが夢なのだろうが、宇多田ヒカルは現実なのだ。

という、荒野のおおかみを読んでいる途中の感想。まだ結構あるな。せっかく電子書籍で読んでいるのだから「あと何ページあるかわからない」スリルも楽しめたら、とは思うが長編小説を読むのはマラソンを走るようなもの。ゴールできれば、たとい走っている時に見えた周りの景色がどこまでもつまらなくったって構わない。だから、今何kmまで来たかを知るのは読む大きなモチベーションになる。

毎日発売日(と店頭陳列日)を呟くのもまたマラソンみたいなものかな。時々間違えててケツを蹴り上げたくなるけれど。


「唯一無二なのは間違いないけど、聴いていて楽しくない」という評が『Fantome』に付き纏うのではないかという不安はずっとある。あるからどうなの、と言ってしまえばそれまで。

あるから、どうなんだろう?

やっぱり、特に何もないな。


そうなった時の私は、躊躇いなく楽しんでしまう。幾らかの人を、もしかしたら大半の人を置いてき堀にしてしまう。

嗚呼、そっちの不安があったか。私が置いてき堀になる可能性。考えていなかった。それだけ自信があるという事だ。

それに、もしヒカルが自分に理解できない歌を歌ったとしたら、そう、私は色めき立つだろう。本当に活き活きとするだろう。生きている事を八百万の神に感謝するだろう。たとえ大嘘八百であろうとも八百長であろうとも。

「わからない」―何て甘美な響き。初めて見つけた洞窟を探検できるような気分。私がいちばん欲しいのは、これかもしれない。ヒカルの新曲を聴いて、何の事だかわからない。上機嫌な自分が現れるのが手に取るようにわかる。それはわかるんかい。

ふむ。でも、それはどうなんだろうな。鳴った瞬間に総てを悟るのもまたよい。大事なのは、3曲しか聴いていない今、現在進行形で「わからない」事だ。この時間が9月28日以降も続けば奇跡だ。叶わぬ夢なのか私がひたすら自分自身を勘違いしているのか。幻のような理想形を、『Fantome』に追い求める。それでいいのかもしれないな。

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もうあと1ヶ月だというのに音沙汰ねーな。芋拾ってる場合ですか。いや、それは別にいいんだが。

しかし幾らなんでも残り1ヶ月を切った所からのプロモーション・スタートでは遅すぎるようにも思うので、次の月曜日までに何らかのアクションがあるものと思われる。思いたい。

とはいえ、どうやって組み立てるかというのは昨今難しいからね。なかには、アルバム発売自体を隠しておくケースまであるんだから。配信販売だから出来る芸当だが、昔に較べて情報の伝播速度が速い為、事前に長く、よりは直前に爆発的に、という方法論の方が幾らかいいのかもしれない。知らんけど。

言っても、でも、購買層のかなりの割合がCD目当てだとするならば、プロモーション態勢も昔ながらでいいような気もするし。CDプレイヤーを持っていない世代からしたら「配信でないと聴けない」のが現実だし。花子だし。

今だったらどんなプロモーションするかな〜…。日替わり動画を15秒ずつくらい連続でツイート投下するとか? 15秒でも長いか。6秒でもいいか。業界の同業者の人たちに先行で感想を聴かせて一言だけ感想を貰うとか? 同じレコード会社でないと厳しいか〜。

Twitterで言うんなら、同業者も勿論大事だけれど、異種業者の皆さんから推薦コメントを貰えたら、ぐっと広がる。女優、漫画家、スポーツ選手、料理人、物理学者、詩人に作家、デザイナーにスタイリスト。普段メディアに露出していてフォロワーを沢山抱える人たちに「宇多田ヒカルはいいぞ」と言って貰う。ポイントは、フォロワーが被らないような人選だろう。音楽業界以外からも純粋にクリエーター、表現者として尊敬されている事を示せれば、今までにない開拓が可能かもしれない。勿論、まずは音楽ファンにニューアルバム発売の事実を知って貰うところからだけど。

あとは、各クラスタがリツイートで拡散してくれるのを期待するだけだ。虫がいいと言われればそれまでだけど、普段CDを買ったりしない人が手に入れてくれる方法なんて昔はそうそうなかったのだから、やるだけやってみる価値はあるだろう。流石にまさか、宇多田ヒカルの名を知らない聞いた事もないという人…いや、いてほしいな。「誰だか知らないけど小耳に挟んだ歌がよかったから買ってみた」なんていう人が居たら是非感想を聴いてみたい。どれだけ新鮮なのか、想像もつかない。まだまだやるべき事は山程沢山あるのだ。

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「荒野のおおかみ」に、「あんた」という言葉が出てきた。『BLUE』と関係が、あるのだろうか。はたまた(←これ、英語で何て言うんだろうと辞書を引いたら、"alternatively"だと。そりゃそうなんだけれども)、『荒野の狼』に「あんた」という歌詞が、出てくるのだろうか。

半分を過ぎた。相変わらず最初の3分の1は、要らないままだ。あれで読者を振り落としているというのなら、確かに成功する。誰も長編小説の3分の1から読み始めようとは、しないだろうから。章分けもされてないしな。


本は、何歳で読んだかで決まる。「SFの黄金時代は12歳だ」という金言からもわかる通り、文字や作法を覚えながらもまだあらゆるものが新鮮である年代は、ここらへんになるだろう。それより若いと、そもそも熟語や単語が理解できないかもしれないし、長い文章がただ長いだけでなく構造や構成を持っている事も知らないかもしれない。年を取り過ぎると、何に触れても新鮮でなく、心は揺り動かされない。人生を左右するような時期の出会いとなるかどうか。

ヒカルは本に対しても早熟だったろうから、いつ何を読んだのか、普通より年齢を引き下げて解釈する必要がある。

あ、チケットの話の続きするんだった。忘れてた。いいや、このまま忘れておこう。

ただ、ヒカルの場合、日本語で書かれた文章に大量に触れるのが10歳以降だったらしい事もまた、頭に入れておかねばなるまい。5年生の時(ヒカルは小学校で飛び級していて更に新学期スタートが4月と9月の両方があるから何年生で何歳かようわからんのやわ)の1年間でそれまでの5年分の漢字を習得するという荒業を成し遂げたお陰で、この時期以降急に日本語の読書が捗る事になっていたかもしれないのだ。いや、読むのと書くのは別だから、もうNY時代からずっと日本語に親しんでいた、という説も成り立つ。どちらかはわからない。

この時期に漫画が大量に与えられたという話は照實さんがしてくれた通りだ。確かに、常に絵を伴う遣り口は字と言葉を覚えるのに秀逸だ。結果ヒカルの日本語はやや漫画的となる。多かれ少なかれ今の日本人は、そうかもしれないがな。

そういう経緯からして、「荒野のおおかみ」をヒカルが何歳の時に読んだのかは興味がある。日本語訳でなのか英語訳でなのか。15歳以前である事は間違いなく(たぶん、最初期からヘッセの名はプロフィールにあった筈だ)、ならばやはり多感な時期にこの長編を読んでいた可能性が高い。

たとえば、「荒野のおおかみ」を読む女子中学生。私の感覚からすれば、テトリスの技巧をひけらかすより(ひけらかしてないけどもひたすらに隠していたのだけれども)ずっと、こう、甚だしく、うん、魅力的だな。いや、本来なら「やばい」「おかしい」と書くべきなのだろうが男子中学生の時の私なら目をキラキラさせて飛びついていた。仕方がない。

そういう友達は、居たのかな。読んだ本の感想を言い合うような。中学生にヘッセは敷居が高いが、跨ぐなら跨いじゃってください、と。

さて33歳。急に今、現実に戻ろう。快活に本の内容を語るような、そんな曲には、なっていないな『荒野の狼』。

関係なかった、というオチもうっすらと期待する。作品の評価がしやすいからだ。しかし、別に評価したくはないなぁ。読んで「よかった」と呟けたらそれでよい。きっかけに過ぎない。ヒカルの歌の方は、歌として、それだけで楽しみだ。遠慮は要らない。でも、ローティーンのHikkiの横顔を垣間見れる曲になっていたとしたら、その時は、じんわりと、嬉しい事だろう。本が大きくなる。12歳の黄金精神の反映を夢見よう。

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転売NOを主張するサイトが立ち上がっていたので、チラッと見てきた。賛同するアーティスト一覧の所にヒカルの名前があるかを確認しに行ったのだが、パッと見、なかった。ちと気が楽だ。

チケット販売に関しては、昔「オフィシャルでフルオークションしたらええやんか」と提言したので繰り返すまい。需要に見合った価格と供給量を設定するというのは商いの基本だ。そういった事を考えずに「転売NO」に賛同して名を連ねているとするなら、心配になる。熟慮の上でなら問題はないが。

チケット転売問題はCCCDに似ている。コピー・コントロール・コンパクト・ディスク。若い人は知らないかもしれないが、『DEEP RIVER』発売当時、ヒカルサイドでも議題に上がった、「複製防止機能のついたCD」である。正確には"CD"のブランドを名乗れなかったので通称だと思っておこう。結果、ヒカルサイドの判断は「音質が低下するから不採用」という事でついぞ宇多田ヒカルとCCCDには接点がなかったが、個人で楽しむ事にすら支障が出る(何しろ、データを吸い出せないので転送すらできなかったりなのだ。できたりもする。)レベルだったので、ユーザーからの反発は非常に大きいものだった。先述のように"CD"のブランドを名乗れなかったのだが、「再生するとCDプレイヤーが故障する可能性がある」という話まで出た。CDじゃないものを入れりゃそりゃあねぇ、とさ。

勿論、ヒカルサイドも、複製に関する諸問題を放置していいと思っていた訳ではない。海賊版NOなバナーもHPに貼ってある。CCCDの仕様に問題があっただけだ。ただ、運がよかった。CCCDを採用したミュージシャンサイドは評価を下げたからね。少なくとも上がる例は稀だった。ユーザーには損しかない。

転売NOも、構造は同じだ。転売を全面撲滅したら、急用ができた時に友人にチケットを譲る事もままならない。余っているチケットを格安で手に入れる事も出来ない。ユーザーの利便性は、個々には凸凹はあるものの、総体的には低下する。価格と供給を調整するシステムを放棄するのだから妥当な帰結だ。


やや問題を単純化し過ぎた。しかし、ユーザーの利便性を損ねて業界側の利益を確保しようという構図は変わらない。商売は売買両方が対等だと考える私なので売り手側が権利を主張するのは全く構わないが、CCCDと同じく問題なのは、売買両サイドにお互いに対する不信感が増えて取引が停滞して業界全体が沈下する点だ。そこをもっと丁寧にしないと、転売NOの主張自体には聞くべき所は沢山あるのにまた不毛ないがみ合いを見せられるとしたら憂鬱である。誰に何を言うでもないけれど、事は穏便に運ばれて欲しいものだ。

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ニューアルバムに、果たして、『花束を君に』よりわかりやすく、親しみやすく、キャッチーで覚えやすい曲があるかどうか。そこがひとつアルバム全体の作風を探る鍵となる。

もし無いのであれば、ヒカルちん、思い切っている。売れ線の曲がもう無いんだから。しかし、ゆみちん、あれ、違ったっけ(笑)、椎名林檎姐様が泣きついてきた「日本のポップ・ミュージックの不在と留守」を埋める帰還・帰宅には、ならない事になる。期待を裏切ったと。いや、別に応える義務も無いが。

私はその作風でも落胆しないからほくそ笑んでいられる。「たまにはこういう作風もいいじゃないか」と嘯く事請け合いである。いやらしい。ただ、いろんな友達が居る。わかりやすい作風がいい、と言う人たちも居る。彼らが喜ぶ顔を見たい、ともまた思う。それを押し出せばジレンマだ。抽出しみたいに出したり仕舞ったり出来るならジレンマとは呼べないからエセ・ジレンマと呼ぶべきか。今カタカナで書いたけどちゃんと漢字あるからね、「似非」っていう。まるでフランス語由来の英単語の接頭辞みたいなフリをしやがって。それはいい。


ならば『ともだち』って、そういう歌がいいのに。ルフィはクルー(船員達)を「仲間」と呼ぶ一方、同盟相手を「ともだち」と言う。その距離感。困っていたら助ける。悲しんでいれば悲しいし、喜んでいれば嬉しい。イチローがいつも言う、「自分が記録を達成した時に、周りの人達が喜んでくれる事に何よりも価値がある」と。『ともだち』とは、Hikkiにとって「ともだち」とは何なので、あろうか。『ともだち』をともだちに聴かせた時、喜んで貰えたんだろうか、それとも、これから聴かせて、喜んで貰えるだろうか。

いつものように、複数のレイヤー(層)を想定している。詞が、ともだちについて、歌っている。わかりやすい。異なるレベルでみた時、曲が、ともだち向けになっている、だから『ともだち』という曲。また違うレベル、この曲が、ヒカルのともだちである可能性。詞も、具体的な誰かを思い浮かべたり、居た事もない架空や理想のともだちについて歌っていたり、或いは、ともだちが居ない、居なくなった事について歌われていたり。種々、ありえる。

ただひとつだけ言えるのは、この歌は、ともだちが誰なのか、誰でありえるのか、ともだちとは何なのかを、知っているという事だ。もし、彼女が「ともだち」とは何なのかを知らないとしたら、『真夏の通り雨』の『サヨナラ』のように、カタカナで「トモダチ」と書かれねばならなかっただろう。ともだちとは何なのかを見極める歌ではない、知っていて、得たり探したり捜したり失ったり生んだり笑ったり泣いたりする、そういう歌に、なっている、そう予想する。

化け物のような音楽力をみせるヒカルだが、ともだちの前では1人の女性に過ぎない。道端で会っても、だからどうしたという程度でしかない。ホントかよ。その普通っぽさみたいなものが曲に乗り移っていれば、『ともだち』は、わかりやすくて、親しみやすくて、キャッチーで覚えやすい曲に、なっているだろう。そこまで、というか、そこを考え感じ取っていたならば。

ヒカルが具体的に考えたともだちが私のように「そういう(とらえづらい)作風も、悪くない」と宣うややマニアな人だったりしたら、残念でした。しかしヒカルは優しいので、どこかで、ゆみちんが感涙に咽ぶような歌を歌う。それがいつどこでなのかはわからないが、ゆみちんはしこたま甘える準備をしておいた方がいい。貴方こそ、紛れもないHikkiのいいおともだち、なんでしょうに?

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ヒカルが命日に呟きをね。今東京に居んのね。いや、昨日の時点で、か。

何も特別な事は言っていない。だからか、ヒカルにとって特別な事を言っている風になる。普遍的、と言ってもいいか。自らが生まれてきた事実を覆せないように、母の死もまたひっくり返る事はない。それに対して、何が出来る訳でもない。受け入れる必要すらない。どちらにしろ変わらない。

それでも、時は癒やす。忘れる、と言ってしまえばそれまでだが、事実との距離は変わらなくても事件は幾らでも遠くなってくれる。どちらに目を向けるかで、感じ方は変わる。母の居ない人生にかわりはない。しかし、母を亡くした日は、日々遠くなる。『長くて短い3年』もまた、そういう風に見えている。

3年の蓄積で得た景色は、今目の前にある。そこに距離はない。3年間の日々あった事の記憶は遠ざかる。次々と重なっていく。重い。適切に忘れるのも、無理はない。

前を向こう、というのは、今在る事と向き合う事だ。もう無いものが後ろ向きで、まだ在るものが前向きで。

なら横に在るものは何かというと、気づかれていない時間、誰かの人生。ものを拾えるのは、そうやって人生の横道に逸れているから。あったかもしれない時の流れを見いだして、それだけじゃなかったと後悔できる。前だけを向いていれば、時はあっという間に過ぎる。残った現実しか、目に見えていないのだから。


ふぁぁ。リオデジャネイロオリンピックの閉会式、東京のパートは椎名林檎がプロデュースしたんだとか。なら本番はHikkiかな、となるのが人情だが、こういうのは菅野よう子に任せるべきだろうな。てか、今回彼女じゃなかったんかい。宇多田さんは、式典向きじゃない。君が代を歌うかもという話が持ち上がってはなかった事になってゆく。そもそも、ヒカルはこの歌好きなのかねぇ?

勿論4年後になってみないとわからないが、こちらとしては、難事業に手を出すなら一曲書いてくれた方がという見方もできて。『Fantome』の後も継続的に活動してくれるって保証も無いのにな。これからも、色んな展望が視界に入るが、どちらが前なのかは、それこそ自分で決めるしかない。棚引く時の軌跡を振り切っ…それをしないから、宇多田ヒカルなのか。まぶいな。

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「荒野のおおかみ」はちょうど3分の1を過ぎたところ。この時点での感想は「この最初の3分の1全部要らんのとちゃうか」。読み終わる頃にどんな感想に変化しているかお楽しみ。「いや、要ったわ」に、なっているのかな。

本日の東日本は雨風だらけで、真夏の通り雨というには派手々々し過ぎたようだ。しかし、アルバムの発売までもう後5週間なのである。何だろう、すべてが、ひたすら甚だしい。


あぁ、もうひとつ、3分の1の感想を書いておこう。読み始めの時は読み終わるまで何も書かないつもりだったが、気が変わった。長編小説の感想なんて、書いておかないと総て忘れる。

9年前か、『Flavor Of Life』の時だろう、ヒカルが「とびきりの笑顔でさよならを告げ振り向いて歩き始める頃にはもう真顔」みたいな事を言っていた覚えがある。「荒野のおおかみ」は、そういう話なのだろうか、と。

、なんていう感想。


タイトルからの連想を連ねてきて、どうしても「Pops」にならない"危機感"みたいなものが湧いてくる。しかし、それは私の感情ではないので、わざとらしい。それを期待している人たちの代弁という以上に、言語化である。理解できない音楽性に対して語る言葉を持てるのは稀である。語れるのであれば、既に理解は手中にある。勿論、罵詈雑言は、理解どころか、相手がそこに居るか居ないかすら理解できない状態でも発せられるので、常に可能だ。とはいえ、生きて生活している人間相手だと一度び思えれば非人道的な罵声にはついつい理性が掛かってしまうのだから、本当は不可能なんだけども。

それはいいや。書いてしまえば、誰かの言葉に成り得る。第一、自分の言葉なんて無い。一言一句、他の誰かが使った事のある言葉で構成されているのだから、私だけの言葉なんてどこにもなく、総てが、誰かとの言葉である。私は必ずどこかの誰かから言葉を学び、私の発した言葉もまたどこかの誰かの学びとなる。勿論最初に生んだり変えたりした人も居るだろうが殆どは誤解や無理解で言葉の意味は入れ替わる。突然変異で進化する様はまさに遺伝子のようだ。遺伝子は、必ず過去の誰かの何かなのだから。

なので私は、わざとらしかろうが自分でない言葉だろうが書き綴る。境目など、無い。総てがゆるやかに繋がっているし、純粋な発明や発生は極々稀だ。私の書いた事を、おおいに誤読して欲しい。私だって私が何を考え何を感じているかなんてよくわかっていないのだ。その意味で、私は私が書いて伝えたいことが何かを知らない。ただそこに言葉があり、読んだ人がただのガラクタ以上の何かを心の中に浮かべたなら、それで十分だ。ガラクタも好きな私では、あるのですが。

論争などしない。歌詞に至っては、それは歌った人の、歌っている人のものだ。歌には今があるのだから。奏でられる、歌われる今が今だ。それ以上は必要ない。しかしそれ以上を持つから、歌に対して私は予め控えていなければならない。同じタイトルの小説を読んだり映画を観ようとしたりするのは、そういう理由からなのである。

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