無意識日記
宇多田光 word:i_
 

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今までの「ミュージシャンとしての生活」に日常を感じられず、今の息子との生活に日常を感じていたとすると、さて、その日常を歌った歌はヒカルにとって日常的なのだろうか非日常的なのだろうか。

なんだか「クレタ人は嘘つきか」みたいな話になっているが、そうでもない。"帰る場所"がどこか、だ。

『ぼくはくま』を思い出す。くまちゃんと戯れていたら自然と口をついて出てきた歌。こちらは「日常を歌った歌」ではなく、「日常から生まれた歌」だ。それを作編曲してレコーディングするという"ミュージシャンならではの日常"を経て我々の日常に『ぼくはくま』が生まれ落ちる。こちらもよくできている。

ヒカルは恐らく"気を遣って"カウントをするのを避けているのだ、"くまちゃんとの日々"を。綿だもんね。

しかし、ダヌパは血と鼻水の巡る実体である。「お母さんに休みはない」旨ツイートしていたが、それこそ間断なく彼との生活が続いていって、日々一日々々がヒカルの"帰る場所"を形作ってゆく。つまり、それがじわじわと「家」になるのだ。

「ただいま」「おかえり」と言える何かを日常と呼ぶのなら、ヒカルがそうやって「家」について歌い始めたら、今度こそミュージシャンとしての自分と日常の自分が交錯してゆくだろう。新しい歌詞に何が歌われているか、こういう点に留意して耳をそばだててみるのもいいかもわからない。でももし全編英語詞だったら勘弁してね。(笑)

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昨夜もツイートしたけど、西野カナって相変わらず凄いなぁ。アンドロイドかサイボーグかっていう位にキャラクター設定が徹底して確立されている。そういう意味では人力ボーカロイドでもあるのかもしれない。

新曲の「パッ」も、西野カナという現象が定番化してルーティンワークに入っている事を自虐的に皮肉っているようにも聞こえる。彼女のメインリスナーはそういう風に物事を捉えない人種かもしれないから、それは付随的な事なのだろうが、今までブランドとなるまでヒット曲を連発してきた事の証でもある。こちらからすれば"遠く遥か向こう岸"の人たちへのポップスなわのだろうが(ツイッターのフォロワーさんたちが話題に出す事も滅多にないしなぁ)、「いろいろととてもよくできている」という事実に対しては賞賛を禁じ得ない。

昨今、ここまで"商品"に特化できてるポップスも珍しい。そして実際に売れているのだから大したもんだ。音楽評論家たちからの評価は知らないが、ポップスは実際に多くの人に聞かれて日常の中で機能してなんぼ。この世代でそれを実践できている人材が在る事にまず驚きだ。もしかしたら、そういう態度で音楽を作るという発想自体、既に古い、少なくとも今40代以上の人間にとっては親しんでいる、という性質のものかもしれない。今のメインターゲット層が、10年後に西野カナをどう捉えているか、訊いてみるのも楽しみである。

そうやって商品として日常の中で機能するポップスを作る人が居る一方で、そもそも「今まで日常というものがなかった」と言ってしまう人もポップスを作っていたりする。しかもこちらの方が売れている。相変わらず何もかも規格外。

日常を知らなかったのに、ポップスとして馬鹿売れしたのはどういう事なんだか。いちばん単純な答は「宇多田ヒカルが非日常そのものだから」というもので、これは正しい。

どちらが無理しているんだろう。西野カナの方は、プロジェクト名で、曲の曲調と歌詞に合わせてプロモーション戦略を練り込んでいるイメージだ。場合によっては、最初にプロモーション戦略が在り、それに合う作風の楽曲を提供しているようにすらみえる。「仕事」として割り切ってポップ・ソングという「商品」を「生産」しているようにみえる。西野カナにとっては、九時五時で働いているサラリーマンたちとなんら変わらず、寧ろ彼らと一緒に働いてものを作っているようにみえる。

かたや「息子が生まれるまで人生ずっと非・日常」な人だ。裏を返せば、いや返さないな、そのまんまだ、つまりヒカルにとってミュージシャン生活は日常と呼べるものではなく、「自分に強いた」何かだったように解釈される。いつも無理して頑張って結果を出してきた。だから休止もするし復帰もする。我々にとって宇多田ヒカルが非日常なのと同じように宇多田光にとっても宇多田ヒカルは非日常であり続けた。

なんだか、逆だな。非日常、といわれるとそれこそサイボーグかアンドロイドかという話になりそうなのに、ヒカルの曲からは私小説的な生々しさが溢れている。去年は母への想いを隠さなかった。生きてるヒカルの正直な心の声が吐露される事が非日常と呼ばれるのだろうか。なんて話からまた次回、とスムーズに行くかどうかはわかりませんのです。

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いつも私はチケット問題となると主催者側に手厳しい印象があるかもしれないが、そうではない。深く考えずに転売を悪と決めつけ、雰囲気に流され、そのくせ自ら対策を練ろうとしないそういう"日和見主義"にイライラしているだけである。

毎度「どないやねん」と思ってしまうのだ、「転売許すまじ」、わかった、で、どうするの?―何もないのね、今までと同じようにチケットを売るんだもんね…っていう流れ。

確かに、興業主とミュージシャンでは意識が違うだろう。そこを自覚するところからだ。

それは一般論。私(ら)が知りたいのは「ヒカルがどう思っているか」だわな。

いや、Hikkiの好きにしてもらって全然構わないのですよ、本来なら。でも、財やサービスが適正価格に落ち着くまでのプロセスを、この自由の国に在って抑え込む訳にはいかないのです…

…という、そこらへんの価値観を共有できるかどうか。「チケットが定価より高値で取引されるのは、最初にあんたらがつけた値段が安過ぎたからや」と言って、わかってもらえるか。これが経済活動なんだと、納得してもらえるか。

ヒカルは頭がいいから、大丈夫だろう。それと同時に「そんな高い値段を払ってもらうのもどうなんだ」と思っているに相違ない。或いは「若い人たち、こどもたちにはもっとお手軽な値段でみてもらいたいな」という風に考えているかもわからない。なんだか、ありそうな話ではある。小さい頃からステージに上る母の背中を見て育ってきているので、こどもの時にライブを観る事のインパクト、影響力の大きさは誰よりもよく知っているだろう。「こどもたちに」と思っても仕方ない。

ライブチケットの価格の高騰を防ぐには、ライブの価値を下げるしかない。勿論、パフォーマンスのクォリティーを下げるだなんてヒカルはやる訳がないから、それをする為には「本数を増やす」のが最もシンプルで強力なアイデアだ。チケットが売り切れなければ、そして、席の良し悪しに文句を言わなければ、若い子たちだって気楽に来てくれるだろう。だがこれが、今のところ「宇多田ヒカルの弱点」だわな。兎に角ライブの頻度が少ないのだから、開催する度にプラチナチケット化して転売屋の皆さんの懐を潤す結果となる。悔しいかもしれないが、それが現実だ。

プラチナチケット化を「箔が付いた」と歓迎するミュージシャンも居るかもしれない。見栄より実質で生きるヒカルには関係ない話である。

思うに、大事なのは「希望」と「信頼」だ。いつ次観れるかわからないから人は群がる。「宇多田なんてまた今度すぐ観れるよ」という"軽い希望"と、「必ずまたやってくれる人だ」という信頼。これが合わされば、ヒカルにとって少しずつ理想的な状況が近付いてくるだろう。諦めずに続けて行くべきだ。

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オリラジのあっちゃんのだというブログのツイートがまわってきた。ライブの宣伝だ。実によく考えられている。

要するに自分のライブの宣伝の為に「チケット転売問題」という間口の広い話題から入っている訳で、昨今偽物ばかりで辟易していた中での、正真正銘のステマである。ステルス・マーケティング。非常に清々しい。本当に本人が書いたんだろうかこれ。

内容は結局、「会場が決まっていない段階でチケットを売り出しますよ」という見切り発車の御報告。下手に書けば非難されるような話題でここまで沢山の賛辞を集められるとはお見事。

少し皮肉混じりに書いてはいるが、チケット転売問題に対して具体的な対策を提示してきた点は素直に賞賛したい。彼の手法がうまくいくかどうかは、経過をみればわかると思うので予想は省略しよう。もっとも、私含め殆どの読者は経過を追うなんて事せずに話題自体を忘れるんだけども。悪びれる気もありません。


とはいえ、ヒカルのライブを待望する時期に差し掛かろうとしている我々にとってもチケット転売問題は切実だ。お金の問題であると同時に精神的疲労の問題である。

なお私個人は、ライブのチケットに関してはそんなに執着していない。売り切れて手に入らなかったらそれまで。観れなかったら後悔するのは間違いないが、それもまた人生だ。その為、チケット問題に対しても、いまいち真剣さに欠けているきらいがあるという事を予めお断りしておく。

さて。転売防止等の対策のベストな方法は、大昔から散々繰り返しているように、全席フルオークションだ。以上。

終わり(笑)。

もうちょっとだけ解説しておくと、昨今の映画館のWeb予約みたいに会場毎に座席表を用意して、3日間なり5日間なり期間を決めて、いちばん高い値段をつけた人が落札するというシステムだ。埋まらなければセカンドレッグ、サードレッグを開催する、と。

この方法をとったとしても、原理的には転売目的の買い占めはなくならない。が、リスクが極端に上がる。オークションが正常に機能している以上、買値より高い価格で買おうとするヤツなんて居ないからだ。世の中でいちばん高い買値を申し出た人間がそのチケットをゲットするんですもの。即ち買い占めは可能だがそのインセンティブはゼロに等しい。まぁ普通やらんだろうな。

これなら、チケットを売る主催者は最大限の利益を得られるし、購買者は個々の価値観と懐事情に見合った席を手に入れられる。商談成立である。

問題はそのシステムの実装と手法の周知だが、これがひたすら大変である。よってまだ実現していない。将来的にもあやしい。そもそも、これが不可能だから皆四苦八苦しているのだ。しかし、だからこそこれがベストである事は間違いないだろう。


ただ、これは商売としてみた時のベストであって、舞台に立つ方からすればそれが必ずしもいいもんだとは限らないよねという話からまた次回。

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エルミタージュ美術館展目下開催中という事で、ラジオでもCMが流れてきたりする。きっとテレビでもスポットを打っているだろう。その度に、当然の事ながら、『人魚』が流れる。訳もなく気恥ずかしい。学校で兄弟姉妹とかち合った時みたいな感覚だろうか。

この曲は、ヒカルが「曲作りに復帰した」記念すべき一曲目だ。話がややこしいが、人間活動を経て、というタイミングではなく、2013年8月22日からなんとかいくらか立ち直って、だ。この曲が作られなければ、ヒカルは未だに復帰していないかもしれない、それどころか、二度と復帰しようとしなかったのかもしれない、という歴史上極めて重要なポジションに位置する楽曲である。

そういうバック・ストーリーを排してこの曲の感想を言えば「地味だ」の一言に尽きる。椎名林檎との『二時間だけのバカンス』となりくんとの『ともだち』の間に挟まれた、という曲順もまた地味さに拍車をかける。ハザマに埋もれている感じがする。

私の場合、こういう曲調、即ちハープをフィーチャーしたアイリッシュ・トラッド・フォーク風(あクマで"風"だ。そのものではない。)は小さい頃から大変な好みなので、その点に関してネガティブなイメージはない。ただ、そういう人間の耳にすら地味に響いているのだからそもそもこういう曲調を「田舎臭くて退屈」と感じる人からすれば、あれだ、飛ばす人結構多いんじゃね? 流石にそれはちょっと仕方ない気がする。こちらとしても「こんな御伽噺みたいな素敵な曲を…っ!」という具合に反論しづらい。あんまりポップじゃないんだな。ある意味、この『Fantome』のアレンジし過ぎない、カラフルよりモノトーンをうまく使う作風だったからこそハマったのかもしれない。極彩色の『ULTRA BLUE』とかなんかに収録されたひにゃあ、この曲だけ浮いちゃうというか…いや寧ろ逆だな、この曲だけ沈んじゃって浮かんでこない、かもな。まるで人魚が海の底に帰ってもう二度と戻ってこないかのように…。

やっぱり、そういう風に地味に感じて飛ばしてしまうような人たち(なお、私個人は地味に感じてはいてもこの曲は飛ばさない)にとっては、「宇多田ヒカル曲作り復帰記念曲」というバック・グラウンド・ストーリーを念頭に置いて聴いてもらった方が、より楽しめる事になるだろうて。

いつも魔法のように名曲を生み出すヒカルが、こういう地味な楽曲を"とっかかり"にしてアルバムに収録されている数々の名曲たちを生み出した、と考えると、それこそまるで母親のような存在感が出てくるんじゃないかと思うのだ。総てはここから再び始まった。その感慨を噛み締める為にこうやってアルバムに収録されていると思えれば、この曲に対する愛情、愛着みたいなものが貴方の心に芽生えてきや、しませんか?

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やっと新しいイヤホン型のウェアラブル・ウォークマン、NW-WS620シリーズの日本発売が決まったか。6月10日。まだちょっと先だな。

これで漸く、早送り早戻し、外音取り込み機能、Bluetoothの3つの"後付け機能"が揃った機種が登場した訳だ。WS410には早送り早戻しと外音取込機能はあったがBluetoothがなかった。WS610にはBluetoothはあったが他は、という感じで。これで取り敢えず"一息吐いた"感じですわ。

出るのは二種類。WS623とWS625。

623:1.5万円、3色、4GB。
625:2万円、1色、16GB、リングリモコン付き。

というラインナップ。うーむ、悩ましい。

このウォークマンの最大の売りは、単体で音源を再生出来る点だ。無線を受信する訳ではないので雑音や音飛びは皆無。この快適さは使ってみないとわからないかもしれない。日常生活の中で「音楽を聴ける」時間が劇的に増える。行動パターンは全く変えていないのに、これをつけている日とつけていない日で1時間位差が出る。つけていない日もしっかり有線のウォークマンは身に付けているのに、だ。

とはいえ、画面がないので選曲は結構過酷だ。従って、正直16GBも容量は要らない、と今までは思っていたが今回からFLACに対応した模様だ。するとハイレゾ音源が再生できるのだろうか。それなら16GBは持て余さないが、その音質に見合うイヤホン部でないならばMediaGoの転送設定をMP3の128kbpsに固定しておけば4GBでも持て余す位だ。

こちらの生活習慣からすれば、バッテリーのもちが4時間とか8時間とか12時間とかであれば毎日充電する訳で、その都度次の日に聴きたい音源を内蔵メモリに放り込めばよい、という風に捉える。如何にも面倒だが、自分の場合「では2万曲放り込んでどうやって選曲するのか」となる。やはり基本的な「今聴く曲」を毎日内蔵メモリに放り込んで、アーカイブス扱いになっている曲を聴きたくなったら都度Bluetoothで接続して聴く、というスタイルになる。まぁ、そうなるとやっぱり16GBは要らないかな。

リングリモコンは既にWS610でお馴染みなのだが、どうせなら、別売りでいいからほぼ同じデザインで液晶タッチパネル搭載のリングリモコンを出してくれれば嬉しい。何しろネックは最早選曲だけなので、そこさえ改善されればこの機種は最早生活必需品の域に達するだろう。ひとまずは、今回の新機種を購入して使い心地をみてみたいと思います。いやぁ楽しみだ。

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ミサイル? 本気で怖がっているとしたら阿呆だ。いやあなたがひきこもりならいい。今日も学校や職場に出掛けたくせにミサイルを怖がっていたのであればいい加減にしろと言いたい。交通事故のリスクの方が遥かに、遥かに高い。危ない。戦争が始まって戦闘機が大挙してくるというのなら別だが、馬鹿も休み休みに言えとしか。飛んできてあなたに当たる確率は、日常言語でいえばゼロだ。紛れもなくゼロだ。たとえ飛んできて日本国内で1万人死んでもゼロである。日本の人口は1億人。おまえら普段1万分の1のリスクに怯えているのか? なおミサイルで1万人死んだら普通は戦争状態っていうわな。

わざわざ極端な事を書いているのは他でもない。またメディアに煽られて騙される人がたくさん出るのが不愉快だからだ。煽られようが騙されようがあなたの人生。勝手にすればよいがこのブログは私がここで勝手に書いているだけなので思った通りに書く。

今朝もトップニュースからミサイル、ミサイル。俺らにそれ聞かしてどないせぃっちゅうねんという話題である。その途中で地震速報が入った。なんでもチリ沖でM7.1の地震が起こったとか。なぬ。未だ撃たれていない、撃たれるとしても極めて低い可能性しかないミサイルの話題より、実際に起こってしまった地震の方が遥かに怖い。津波は来るのか!? どうなんだ???

驚いた事に、第一報では津波の津の字も言いやがらない。数分後にやっと「なお、津波の心配はありません」ときた。ふむ。

本来なら、「これくらいでちょうどいい」のだ。淡々と、起こった事を伝えてくれれば。私がいらっと来たのは、あるんだかないんだかもわからないミサイルの話を延々聞かされたからだ。同じテンションで言ってくれればいいんだよ。「北朝鮮からミサイルが発射されました。」、数分後に「なお、日本国土に着弾する心配はありません。」―こちらにはそれだけで十分だ。政治的な駆け引きなんぞ知るか。地震みたいなもんだろそんなん。津波や台風みたいなもんなんだよ、政治に興味のない一般人にとっては。なおミサイルより津波の方が遥かに怖いのはまだ6年しか経ってないんだから皆大体覚えているだろう。

ミサイル云々で騒いでいるのは総て政治的な駆け引きの話なのだ。我々の身の安全を案じてくれている訳ではない。案じてくれているとしてもチリ沖で今朝起こった地震に対する報道と同程度で事足りる。ひたすら我々の不安を煽って自らの政治的な意図を通そうという人間が国内外に居るのかもしれない、とまず疑おう。大山鳴動して鼠一匹出てこないのが現実だ。そして虎や熊は物音ひとつ立てずに貴方の背後に忍び寄る。本物の恐怖は予告なんかしてくれない。静かに淡々とあなたの後ろに周りこんでくるだけだ。

またミュージシャンって人種がこの「煽り」に弱いんだ。雰囲気に流され易い、その場のノリや高揚感で行動する。音楽の演奏に携わっている時には極めて有効なその才能が、政治的な人間に触れた瞬間に体よく利用される使い捨ての道具に成り下がる。なんとなくクールだ、とかイケてるからとかで国際政治についてコメントするとか危なっかしくて見てられない。勿論世の中には音楽家としての才能と政治家としての才能の両方を持ち合わせている人も居るかもしれない。そういう人はしっかり使い分けて生きていってくれればいいが、そうでもない"ミュージシャンに特化した人たち"は是非政治からは距離を置いて欲しい。あの人たちの才能を侮ってはいけない。今こうしている間にも、我々は彼らに幾つも騙され、印象操作の罠にハマっているのだ。それに自発的に気がつくのは極めて難しい。もうひたすら距離を置くしかない。

でも、距離を置きすぎてちゃんと政治家の人たちの生態を学習しないと、これまたあっさり騙される。「はぁ、世の中にはオレオレ詐欺みたいなものがあるのか、自分も気をつけないと。」と思うのと同様に、テレビや新聞から流れてくるニュースにも気をつけなければならない。毎度繰り返し言っているように、テレビは娯楽の王様であって、報道や情報には不向きな媒体なのだ。バラエティーを見て笑って過ごすのがテレビとの健全な付き合い方である。あなたが普通に生活しているのであれば、天気予報と交通情報以外の報道番組は基本的に害であり毒であると自覚をもって接して欲しい。なおタイトルと本文は全く関係ございません。私にとっても今日は祈る日なのですよ、というだけの為の、個人的なしるしでしかないのです。

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アジア選手権と韓国オープンから帰ってきた選手にファンの出迎えとか記者会見とか…時代が変わり過ぎてついていけないぜ(*_*) 昔は結果だけを伝えるマッチ箱サイズ、いや切手数枚サイズの記事を新聞で見つけるのすら苦労したというのに。遠い目。たった20年前はBSを合わせてもテレビでの試合放映時間が年間3〜4時間の年もあったというのに…ってこの話前もしたな。

この20年というのは誠に変な期間で。インターネットの普及を成長率に変換できなかった唯一の先進国、というイメージが日本についた。不思議なような、当然のような。若い人には想像もつかないかもしれないが、20世紀の日本の大人たちはパソコンとパソコン通信というものを小馬鹿にしてまともに取り合っていなかった。勿論我々70年代生まれくらいになってくると80年代の時点で「パソコン通信が進化すれば遠くの友達ともゲーム(例えば将棋とか)で対戦ができる!」と盛り上がっていたのだが、予算執行権限をもつ世代ではマイノリティであるばかりかオタクだなんだと言われてバカにされた。したがって、今の先進国から脱落しつつあるこの国をみても「そらそうだろ」という気分にしかならない。勿論2010年代以降ともなれば話は違うのだが、東日本の地震が出鼻を挫いた。まぁそんな話はいいかしらん。

先進国、か。たぶん駄目だろうな、とは随分昔から感じていた。アジアの隣国を下に見る発言が増えていたからだ。自分の目にはそれは80年代にアメリカ人が日本人の事をジャップだイエローモンキーだと蔑んでいた姿とダブった。本当に差がついていたら、視界にも眼中にも入らず従ってそれについての発言もしない。アメリカ人たちが日本人たちを見下す発言が増えたのは即ちアメリカが「Made in Japan」に席巻されつつあったからだ。危機感の表れである。

今の日本にも「Made in 日本以外」は溢れ返っている。それによって職を奪われた人たちが恨むのは当然といえば当然で、恨み節のひとつも吐きたくなるのは人情だろう。最初は「安かろう悪かろう」だったからプライドが傷つく事もなかったが、いよいよ品質が上がってきた昨今ではもうそれも言えなくなるだろう。

7年前の2010年に「Made in Japanだ」と言って誇らしげにWILD LIFEのグッズを売っていたが、自分の勝手な実感としてはもうその時点でギリギリだったように感じていた。今同じ事が宣伝文句として使えるだろうか。こちらとしては最初っからブランディングは国単位より個人単位にするべきだと思っていたので、昨今のように普通のスーパーの軒先でも個々人のブランドで野菜や肉を売っている様子をみるにつけ、そっちの方向にしっかり進んでいるなぁと感慨深いが、全体の趨勢としてはまだまだ「Made In Japan」のブランドの方が個人ブランドより遥かに威力があるだろうな。

どうせ「Made In Japan」を謳うなら、海外のツアーの時のマーチャンダイジング(グッズ販売ね)で大々的に喧伝してみて貰いたい。果たして皆その高額に見合うだけの価値を感じて貰えるだろうか。横浜一ヶ所で「Made In Japan」を謳っても滑稽なだけかもしれないが、国と国の境を超えていくならまだまだ面白いだろう。その時になったら、でも、時代は更に進んでて状況が変わってるかもしれないけどね。

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@utadahikaru : 子供の頃、コーヒー牛乳をご飯茶碗に注いで、ロールパンを小さく千切って浸して食べるのがすごく好きだったのを急に思い出した 今食べてもおいしいのかな

こういうツイートには私本当に弱い。宇多田さんと言えば歌に「切なさ」を込められる事で有名だが、そこには常に分厚い悲しさや愛しさを伴う。胸を締め付けるような、と。しかし、こういう呟きの時に来る切なさは何も伴わない。悲しくもないし嬉しくも愛しくもない。ただただ懐かしく、そして今、私(たち)が失っているものがそこに表現されている。「もう、ない。」―ただそれだけの感慨である。それについて悲しくなる事もできるし落ち込む事もできるし、楽しかったこども時代を思い出して微笑む事もできる。でも、その何れをしなくても、ピュアな切なさだけは残る。「あぁ、もうないんだ。」という、ただそれだけの感情。

小さい頃の感覚を思い出して、『今食べてもおいしいのかな』と問う。読点は使っても句点は使わないんだな。ヒカルもまた、それが失われた感覚である事を知っている。

歳をとると、はたと困るのだ。今感じている感覚が、たった今生まれた感覚なのか、ただ過去の感覚を思い出して、記憶から取り出し直して味わっている感覚なのか。つまり、今在る私の感情は既に思い出に過ぎず、私の心にはもう新しい感情は生まれないのか、と。

「たった今生まれた感覚」に、小さい頃は疑問なんて持った事はなかった。常に出会うものは新しく、どれも初めてなのだから、心に生まれる感情や感覚もまた常に新しく初めてのものばかりだった。

今はもう、何に出会っても、そうやって生まれた昔の記憶を参照しているに過ぎないのではないかと不安になる。要するに既に自分は哲学ゾンビなのではないかと。

クオリアの味は変わらない。今記憶を取り出しても同じ味がする。ヒカルがロールパンの欠片をコーヒー牛乳に浸して食べようという時の高揚感を、ヒカルもたった今しっかり感じ取る事が出来るだろう。それが、今コーヒー牛乳とロールパンを目の前に持ってきても何らその高揚感と関連性がない可能性が存在する事も、ヒカルは知っている。一方で、その時と同じように美味しく感じ、こうやって食べるのが好きだと感じれるかもしれない可能性が存在する事も知っている。しかしそれは、本当に「今」の感情なのだろうか。ロールパンの欠片をコーヒー牛乳に浸す事で小さい頃に感じた感情をただ思い出しているだけではないのか。

3歳の誕生日の時にナカムラ屋(そういうおもちゃ屋さんがあった)で1500円のプレゼントを買ってもらって大層喜んでいた自分の気持ちを、今でも克明に覚えている。そのおもちゃは、買う前からも買った後も大層お気に入りで、ビスをなくそうが縁が磨り減ろうがセロテープで止め輪ゴムで縛ってこれでもかと遊び倒した。何がそんなに気に入っていたのか今となっては、いや、当時から既にわかっていなかったが、その度を越した愛着だけは記憶に刻まれている。そのおもちゃを今目の前に提示されたとしても多分全く遊ぼうとしないだろうが、その愛着という感情の記憶の想起には大変な助けになるだろう。それはもうただただひたすら、懐かしい。

もしかしたら人は、ここまで来てしまうと、感情を取り戻したいが為に記憶を消し始めるのかもしれない。記憶が蓄積されていく一方では、「今」の感情が、もうどこにも無くなってしまうから。「今」やる事が、過去の感情の想起だけになってしまうから。「今」を取り戻したい。無意識の下の下で私がそう思った瞬間に、私は老い始める。


それに対して「怖い」と感じていると、思ってくれていい。だから、私は常に新しく楽譜を書きたがる。もっと恐ろしいことに、ごくたまに、まだまだ「今まで感じた事のない感情」を楽譜から与えられる事がある。勿論一方で、「全く忘れていた幼い頃の感覚」もまた、楽譜は与えてくれている。ちょっと、未だに信じられない。知っていたけど忘れていた事も、未だに知らなかった事も、あそこには両方埋まっている。それはもう、楽しくて仕方がない。私はおもちゃを買ってもらった3歳の誕生日にも生きているし、2017年の今草臥れたおっさんとしても生きている。それは、涙が出るほど嬉しい事だ。

ヒカルが次の次に出す新曲と、それを収録したアルバムは紛れもなく傑作である。期待して待ってていい。私はコーヒー牛乳に浸したロールパンの欠片から、その事を教えて貰える人なのだった。

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世の中には「他人の人生を邪魔する事に自分の人生を賭けている人」というのが一定数居て。特に創作物の規制などは傍目から見ていて「ほっときゃあんたの人生に一切関わりないよ」と思うようなものでも踏み潰しにかかる。こちらからすると「よっぽど暇なんだな」以上の感想が出て来ないのだが、本人達は至極真剣そのものだ。

なぜあんな事ができるのかとふと立ち止まって考えてみると。恐らく彼女たち彼らの人生自身が、「他の誰かから介入されて生きてきた」からに他ならないのではないか、と気が付いた。つまり、そもそも人生の生き方として他の生き方にピンと来ないのだ。「人生とは他者を妨害するものだ」という観念が、聞こえないくらいの低い周波数の通奏低音としてずっと人生に鳴り響いているのではないか。

アニメやマンガやゲームは、昔からずっと規制のやり玉にあげられてきた。まずそれを支持する者たちが「大人しくていじめやすい」人種であったから、というのも基底としてあるのだろうが、そうだったらもっと享楽的にいじめるのではないか。あの、攻撃する方の必死さは、まるで親の仇のようだ。

小さい頃、親なり誰かなりから、「アニメやマンガやゲームは害のあるもの」として遠ざけられて育ってきた人種を想像する。そういう人たちがそれによって空いた暇で必死に勉強して高学歴を手に入れ、何かを規制する側に回れるほどの財力なり権力なりを持った時、「昔年の恨み」とばかりにアニメやマンガやゲームを叩いているとすると…あの必死さも合点がいく。

困った事に、彼ら彼女たち(が仮に実際に存在したとしても)にそういう自覚がほぼ全く無い事である。親なりの言いなりになってやりたい事もせずにやらなければならない事ばかりを押し付けられるのが人生だと、もう最初っから決められてしまっている。勿論そこから途中で脱却できる人も居るが、そういうののキッカケって自由に生きているアニメやマンガやゲームの登場人物たちだったりするものだ。彼女たち彼らには、そういう機会すら封じられていた。今更自由な生き方と言われても、言われのない怒りと嫌悪感しかわいてこないだろう。アニメやマンガやゲームに携わる人たちが楽しそうな表情をしているのも癪に障る。その上、自分たちの方が社会的立場として有力だから、彼らを見下すのは造作もない。賤民の賤業だとして断罪するのに躊躇は要らないだろう。

問題なのは、その言われのない怒りというものが、彼ら彼女たちにすら生まれるという事実である。生まれた時から抑圧される人生を言前の基底として生きてきても尚その人生を肯定できず、自由の謳歌に対して怒れる、即ち嫉妬できるというのは、人間の自由に対する希求力が教育や環境では抑えられないほどの根源的な力として生得的に備わっている事を意味する。それをみると、彼女たち彼らもまた自分と同じ人間なのだなと実感して、どうしても彼ら彼女たちの事を嫌いになれないのだ。でも規制の力がこちらにも実際に及んできたら、きっと私は隠さずに嫌悪感を示すと思うけれど、なんだかそれがとてつもなく悲しい。自分よりずっと社会的立場が上の人間たちに憐れみをかけざるを得なくなるというのが。


憂鬱な月曜日の朝に相応しい憂鬱な話題でした。こういう時はルー子さんの一言で脱力するのですっ。さぁリツイートしてこようっと。

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『Come Back To Me』は日本人受けしない曲だったんだな、というのが結論。

『This Is The One』の日本での初動は8万枚とかそんな数字だった。『First Love』を累計で750万枚以上売った人間が、となると「100分の1かよ」となる。1%だ。初動と累計を較べるなよ、という至極もっともな指摘も印象論の前では無力なのだ。

どうしてそうなったのか。時代だ、というのもあったろうがやはり日本人にはリーダートラックである『Come Back To Me』がピンと来なかった、というのが大きいのではないか、と当時も、8年経った今も思う。一言でいえばバタ臭い。美味しい料理ではあると思うけどこの濃いめの味付けは好みじゃない、といったところか。

しかしそれこそがUtadaの狙いであり、その狙いはしっかり当たった。ピーク時にはアメリカでの一週間オンエア数が1000を超えたのである(これまたデータの出どころがもうWebに見当たらないので説得力が薄いぜ)。ある意味、アメリカで売れる為に日本での売上を捨てたのである。それはまぁ極端な言い方だが(Hikaruは特定の市場を見捨てるような事はしない)、そもそも「メインストリーム・ポップ」な路線がリズミック・チャート向け、という時点で日本の方を向いていないのは明らかだ。2009年当時の日本市場ではそんなものは流行っていなかったのだから。いや、そもそも「J-popの今の傾向や流行」というもの自体が消えかかっていた時期だったかもね。

だからヒカルは『点』と『線』を著した、ともいえる。暫く(本気で)留守にしてるけど、日本のこと大切に思ってるからね!という事で日本語だらけの本を編纂した。それも2冊も。『EXODUS』の時もSCv1や『誰かの願いが叶うころ』で極力空白期間を短くしてくれた。『ヒカルの5』はその究極だったろう。あんなナリしてそれはそれは義理堅く誠実なお人柄なのですよ、彼女は。

なのに、今ライターの皆さんは『This Is The One』を無視しようとする。これだけ筋を通してまでリリースしたかった作品を。狙い自体が気に入らないのは仕方がないが、それで宇多田ヒカルを分析できると思っているのか。例えば、「『First Love』は日本で史上最高の売上を記録しましたが、私はこの作品が好きではないので彼女を理解するのには不要だと考えますので無視します。」という人が居たとして、私論として耳を傾ける分には興味深いかもしれないが、とても「現実を反映した論考」は期待できないだろう。『This Is The One』もまた、Hikaruが精魂込めて作った作品だという点で『First Love』と何ら変わらない。売上が物足りないから失敗作だった、と切り捨てるのならそれも結構。でも捨てるからにはまず拾わないと。それすらもしないから私はこうして(多少無理して(笑))憤っているのだ。あれは素晴らしい作品なんだから。

例えば、単純な見方として「Popsのアルバム」としてみた時に、私の評価は『Fantome』より『This Is The One』の方が上である。『Fantome』の方が、歌唱力も、作詞力も、サウンド・プロダクションもアレンジメントも売上も知名度も遥かに上だが、「Pop Songsの集合体」としてみた時は『This Is The One』に軍配を上げる。Popsとして「聴いて楽しみたい」時にはこちらをかける事が圧倒的に多い。作品群とはそういうものだ。ものさしの当て方次第で如何様にも評価が変わる。毎日の気分で好きな曲、好きなアルバムなんて変わるものだ。だから何枚もアルバムを作る事に、何曲も生み出す事に価値がある。誰にとっても、明日はまた新しい一日なのだから。

先程触れたように、私論として「このアルバムは好きじゃないからスルーする」というのは一向に構わない。しかし、「なぜ全米で宇多田ヒカルは売れたのか?」みたいな切り口で文章を書いておいてそれかよ、というのは何度でも言ってやる。たぶんまた言うのでその時は是非「…また言ってるよ」とスルーしてうただきたい。

ただ、これだけ力説しておいて肝心のHikaruさんが「あのアルバムは黒歴史」って言っちゃったら私完全に橋桁外されちゃうので、心の奥でそう思ってはいても口には出さないで欲しいなぁ、というのは激しくありますデス、はい(笑)。

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自分がポップ・ミュージックをPop Musicとアルファベットで書く事が多いのは、それは洋楽的概念だという先入観があるからだ。だからこそ敢えてそれを、Pop Musicの無い市場で形成しようとしたからJ-popという呼称が生まれた、という風に思っている。実際の所はJ-waveの中の人に訊かないとわかんないけどね。J-waveと引っ掛けて一緒に盛り上げようとしただけ、ってのが真相なんだろうけど、ここまで用語として生き残ってしまえば、“親の手を離れて”独立した意味を持っているとみてよいだろう。

そのJ-popの独自性を知るにあたって、敢えてUtadaの曲を例に挙げてみたい。

Utadaの2004年のデビュー・アルバム『EXODUS』の収録曲で、リーダートラックとして大ヒットしたのが"Easy Breezy"だ。フィジカル・シングル(当時はこんな呼称も無かったが)もリリースされてないのに大ヒットと言い切れるのは、当時FMラジオチャートで上位に食い込んでいたからである。あれだけオンエアされていて大ヒットと言わないのは失礼だろう…が、当時の資料がWebに転がってないので説得力が薄いぜ。

何しろ、この『Easy Breezy』は初代「Nintendo DS」のCMソングだったのだから、タイアップ相手の格が違う。異論もあるだろうが、日本で最も著名な携帯ゲーム機なのだから影響力は凄まじい。お陰で、普段洋楽を聴かない層までこの歌を耳にしていた。結局『EXODUS』は100万枚を超える洋楽としては異例の特大ヒットを記録するが、それはただ宇多田ヒカルの知名度のお陰だけではなく、『Easy Breezy』の強力なエアプレイも後押しした結果だ、と解釈してもさほど不自然ではないだろう。

逆に、そういった強力なリーダートラックがなければ、幾ら宇多田ヒカルの知名度が高いといってもそうそうCDが売れる訳ではない、と示してしまったのが『This Is The One』だった…という不穏気味な引きから又次回。大丈夫、勿論褒めちぎる予定(笑)。

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アメリカ合衆国、という国に対する感情は複雑である。なぜなら、そんな国はないからだ。

…と言い切ると少し過激かもしれないが、あそこに国境以外で何かちゃんと他国と区切れる何かってあるんだろうか。日本には日本語がある。アメリカには英語があるのか? それをアイデンティティにするような"国"か? そんなものはない、と言い切ってしまった方がすっきりするよ。

ちょっとそれでは話が難しいな。キャッチーな切り口で行こう。何故あの国は黒人差別が激しいか。理由は劣等感だ。本気で勝負したら、スポーツだって音楽だってかなわない。それがわかってるのにわかってないフリをするから、しているうちに、差別だけが残った。

我々の領域で行こう。アメリカで生まれたポピュラーミュージックの殆どが黒人発祥だ。ブルーズとジャズにはじまり、リズム&ブルーズ、R&B/SOUL、ロックンロールと悉く黒人音楽である。ラップ/ヒップホップもだ。

なぜ「ブリティッシュ・インベイジョン」なるものが成立したか。エリック・クラプトンに代表されるように、英国人は黒人に対する尊敬や憧憬を隠さない。コンプレックスに自覚的だ。だから、50年代にチャック・ベリーをはじめとした黒人ロックンローラーたちの価値は、当時の米国人にではなく、60年代の英国人によって認知され広められた。ザ・ローリング・ストーンズのデビュー曲は、前にも言ったようにチャック・ベリーのカバーである。

米国の白人たちが、好き嫌い合わせてロックンロールを"受け入れた"のは、白人であるエルビス・プレスリーの影響が大きい。テレビを観てる人たちにとって、音楽的なオリジネイターの1人であるチャック・ベリーよりプレスリーの方が遥かに知名度が高いのは、アメリカの白人たちが"そう"したからである。断言してしまった。

米国が60年代以降しばしば「ブリティッシュ・インベイジョン」に熱狂するのは、母国英国の威光を借りなければ黒人音楽を素直に受け入れられなかったからである。英国からの影響、という事であれば、宗主国だ、仕方ない、となる。あんなゴミゴミした黒んぼたちに憧れてなるものか、と。そうして楽器をとって過激な事を歌うのがあののどかなカントリー・ミュージックなのだから、ほんとに変な、困った国である。

よいものはよい。心の底では抗えないくせに、その不安を払拭する為に黒人を差別する。音楽を例にとったが、他の分野ではどうだろうか。そんなよーちえんじみたいな理由で信じられないくらいの人数の血が無駄に流れているのだから全く笑えないが、アメリカは若い国だ。身体ばかり大きくなって大人より力が強かったりするがまだまだ何も知らない不安だらけのガキンチョなんですよ、あの国は。

『Animato』では、そのブリティッシュ・インベイジョンの代表格であるレッド・ツェッペリンとクイーン(のフレディー・マーキュリー)とともに、"黒人からロックンロールの手柄を奪った"エルビス・プレスリーの名前も挙がる。シャワーの時に口遊むそうだが、アジアンからみてエルビスって何なのだろう。1人のエンターテイナー・スーパー・スターとしての価値に文句を挟むつもりはないが、黒人のやってる音楽(ロックンロール)をやってみただけの、"珍しく素直なアメリカ人"である彼は、Hikaruの目にどう映っているのだろう。

こちらは"チャックベリー万歳!"な人間なので、極端な話彼が黒人であることなんか全く眼中にない。「若い頃のいかりや長介に似てるなー」とかそんなことしか考えない。なので、人種や国籍を話題にする事自体興味がない。この日記でも、国籍の話題といえば「ヒカルの手続きどうなってんだろ?」という事務的な煩雑さに対する愚痴だけだ。要するに「究極的にはそんなもの要らないんだから」としか思っていないのだ。で、珍しく今回人種の話をしてみたが、やっぱり不毛だなとしか思えなかった。チャックもエルビスもそれぞれに素晴らしいエンターテイナーで、今でも名曲の数々で私を、我々を楽しませてくれている。それで彼らについての情報は十分だ。平和に貢献してくれた偉人たちの肌の色に文句があるだなんて、要するに暇なんだろうな。ますます、おまぃらの暇を奪うようないい歌を一曲でも多くという気持ちになったわ。暇が悪い。その真実に変わりはないぜ。

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ただの結果論に過ぎないが、やっぱり英語タイトル曲の方が曲調が「Popでキャッチー」な印象が強い。次作が『Fantome』よりも英語タイトルが増えるならば(まぁ、減る事はないわけで)、作品の全体の印象もより「Popでキャッチー」になる可能性が高い。

英語タイトル曲の方がPopになる理由は単純で、リフレインが使い易いからだ。キーフレーズを曲中で何度も連呼する事だ。連呼は繰り返しで、繰り返しは洗脳で、洗脳は宣伝だから、そちらの方がより「売れ線」に近づきやすい。商業的と揶揄される所以でもある。

実際、例えば『道』などは、タイトルはぶっきらぼうだが実際に聴いてみると『It's a lonely...』の繰り返しがとても印象に残る。何故タイトルを「A Lonely Road」とか「Road」にしなかったのかというレベル。いや確かにカッコいいタイトルとは言えないけれどだったら『道』はどうなのよ。未知と引っ掛けたりしてるんだろうけどねぇ。

そういう面で工夫があったのは『ともだち』で、『ともだちにはなれない・にはなれない』というフレーズは、まるで英語のリフレインのような使い方だ。『ニワナレナイ』って何なんだよ、意味通じるのかよというところだが、歌詞からストーリーを捨象して連呼させるフレーズを作り出すのがリフレインだから寧ろ無意味なくらいでちょうどいい。

そういった事で言うならば、Utadaの2枚のアルバムはやはりよりキャッチーに響く。その殆どが「サビでタイトルをリフレインする楽曲」で占められているからだ。逆に、リフレインを多用しない曲の方は歌詞のメッセージ性がより強い、とみてもいい。歌詞の役割とタイトルの付け方は割合連動している。

こういった"機能としてのPops論"があまり適用出来なかった『Fantome』が大ヒットを記録したのは結構興味深い。売れ線でない作品がこれだけ受けるというのは。勿論朝ドラのタイアップはロングセラーに対するこの上無い援護射撃だったが、それだけではここまで来なかろう。

では次にもっと売れ線のアルバムを出したらそれこそ更なる大ヒットが見込まれる…かどうかは、今の時点ではわからない。色々と渦巻くけれども、いずれにせよ『EXODUS』と『This Is The One』は今のうちに聴き直しといた方がいいよ、と日本語タイトルだらけの『Fantome』の曲を聴きながら、思う訳です。物事は存外、単純にあっちこっちに揺れながら前に進んでいくものなのですよ。

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