無意識日記
宇多田光 word:i_
 

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『忘却』の歌詞は、対話によって制作されたのでは、という推測が立つ。KOHHが1番の歌詞を投げて、ヒカルが最初のサビを返す。それに呼応してKOHHが2番の歌詞を書き、ヒカルが最後部を締める(占める)、というイメージだ。

実際、KOHHの歌詞は1番ではとても威勢がいい。過去は忘れよう、葬り去ろうというコンセプトで書いている。ところが一転、2番では「男にも二言あり」と燻り始める。これを単独の作詞で書いたとすれば本人がコントラストを狙ったものと解釈できるが、間に超然としたヒカルの歌声が入る為、"…影響されたのかな"とこちらが思ってしまう。

恐らく、2人の間で『忘却』をテーマにしようというコンセンサスが比較的初期の段階で生まれたのではないか。そこでKOHHはまず「記憶の忘却」を取り上げた。喪服に着替えてまで過去を葬り去ろうというのはなかなかの迫力だ。

しかしヒカルは『言葉なんか忘れさせて』ときた。熱い唇、冷たい手。人の持つ熱(冷たいのも熱だ)のやりとりがあれば言葉は要らない、暫しの間忘れよう、という何とも官能的(本来の意味でな)な響きである。

この『熱い唇』と『冷たい手』のコントラストは強烈である。熱は熱い方から冷たい方へ流れる。熱い方の熱が冷たい方へ与えられるのだ。つまりここで女は唇を与えられ、手を与えているのである。

『手』といえば『Be My Last』を思い出す諸氏も多かろう。『何も繋げない手』『何も掴めない手』を嘆く男に対し、冷たい唇の女が熱い手を与えたと考えればこの『忘却』のテーマが『Be My Last』から更に何歩も踏み込んだものだとわかるだろう。

『忘却』においてヒカルが歌い出した時、「女神降臨」と感じた人も少なくないと思う。本来ならここで「包容力の大きな」とそのまま繋げたいところだが、ヒカルはここで捻りを入れる。少しか細い声で『言葉なんか忘れさせて』と一見男に寄りかかっているようにみえるが、その実、男に甘えさせているのだ。この"隠された包容力"は『二時間だけのバカンス』のミュージック・ビデオでもみられた。見た目上ではヒカルが椎名林檎に寄りかかっているのだが、精神的には完全に椎名林檎がヒカルに頼りきっているのだ。余談だが、『Fantome』が売れまくって、林檎嬢は心の底から感動した事だろう。「ヒカルちん、カッコいいよ」って。

だから、2番の歌詞でKOHHは"デレ"て弱音を吐いたのである。強がっていきがって生きている青臭系男子を優しく包み込む宇多田ヒカルの人生の先輩ぶり。梶さんがつけたと思しき『パイセン』という呼び名も強ち間違っちゃいなかったのかもしれないね。ほんに頼もしいぜヒカルパイセンってばよ。

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自分としては『忘却』はグレイトなトラックで、それ以上言う事はない。KOHHの呟きも、特に嫌悪感は無かった。大体、デスメタルファンに嫌われるような歌い方なんてなかなか出来るものではない。こちとらCARCASSとかCANNIBAL CORPSE聴いて四半世紀だよ。屍体愛好癖にFucke with a knifeだよ。ゲロくらいで嫌がってらんないよ。もっとも、歌詞カード見ないと何言ってんのか全然わかんないんだけど(笑)。

ならば、好みかどうかという話になるが、うーん、何とも言えない。危うさと微笑ましさの両方を感じるというか。もろてをあげて「これは好きだ!」と言えるような世界観でもないが、ところどころに妙な才能を感じさせるなぁ、というのが『忘却』でのKOHHに対する感想だ。ヒカルと違って特に青臭系男子に思い入れもないのでその点は別に評価しない。いちばん「お」と思ったのは、『30代はほどほど。』を終えて「歌詞間違えなくてよかった」と言ってたとこ。俺も同じ事気になってたので。絶対全く趣味が合わないタイプだと思うけどどこか奇妙に気が合うのかもしれない、変な感じがする。多分イヤホンが同じだったせいだな。

DJパンティー、ちゃうわ(笑)、DJ PUNPEEも「30代はイケイケ!って言ってないか心配」と言ってたので「俺もそれ思ってた。」となったわ。大丈夫、言ってなかったよ。なんだろ、なんだかんだでヒカルのファンは通じ合うものがあるのか。言い過ぎか。まぁ信じとこ。


ひとつ、思考実験をしておこう。『忘却』をヒカルが全部歌ったとして、つまり、KOHHのパートを全部刮げ取ってヒカルの作詞作曲歌唱に挿げ替えたとして、果たして今よりいい出来になるだろうか。ならないと思う。サビのメロディーがシンプル過ぎるからだ。

ヒカル史上屈指の"素直なメロディー"である。熱い唇、冷たい手。『Stay Gold』より更にわかりやすい。こんなメロディーがサビに来てしまうと、他のパートはもう捻切るしかない。でないと童謡みたいになってしまう。『ぼくはくま』にさえ混合拍子を交えたヒカルがそんな"素直なだけの歌"を書く道理は薄い。

なので、ゲストを迎えたのである。例えば、ヒカルがラップをしてもよかったし、『Deep River+』のようにヒカルが詩を朗読してもよかった。それならまだマシになったろう。しかしここまでくれば、我々が体感した「圧倒的な歌声のコントラスト」まであと一歩だ。男の子に歌わせるまでそう時間はかからなかった。

とすると、さぁ思考実験を今一歩進めよう、もっと強烈な方法はなかったか。ある。『BLUE+』のように、常田富士男にナレーションをさせるのだ。今度はヒカルのバックトラックで。『忘却 feat.F-Tocky』だ。何だその呼称。現実には、もう『忘却』はKOHHとのものだから実現はしないが、アニメ映画『銀河鉄道の夜』のラストで「春と修羅」からの一節を読み上げた時の威力を知る者には、魅力的なアイデアだと思われる。どう?

ただひとつ残念なのは、ある程度歳のいった日本人にとっては、常田富士男が喋っただけで忽ちそれは「日本昔ばなし」だという事になってしまう点だ。これは、ヒカルも同じだろう。『Blue+』はサプライズ企画だからよかった。うん。

ただ、ほんの僅かでも共演したい意志が芽生えたのなら、直ちにオファーを出すべきだ。アーティストがいつまでも生きていると思ったら大間違い。皆生きてるうちにやれるだけやっとこう。うん。ほんに、生きてるだけでそれは可能性なんですよ…。

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『忘却 feat.KOHH』の一般的な印象といえばやはりヴォーカルのコントラストに尽きるだろうか。宇多田ヒカルのアルバムを聴いていた筈なのに全く知らない男がラップを始めたぞ、なんだこりゃ、と。そこに降り注ぐ神憑った、いや女神憑ったヒカルの歌声。逆説的だが、アルバム中最も「なんて唯一無二な声だ」とヒカルの歌の特別さを感じられる瞬間だ。

またその"見知らぬ男"による歌詞がえぐい。ゲロだのメロスだのゲロメロスだの(最後のは無い)ヒカルが言いそうにない単語と言い回しが並ぶ。「足がちぎれても義足でも走れメロス」だなんていじめかモンスタークレームである。ならばこの歌は友情について歌うのか、はたまた昨今パラリンピックで話題になる高性能義足による記録の更新について一石を投じる議論があるのかと身構えていたら「男にも二言あり」と女々しい事を呟いて終わりやがる。とんだ拍子抜け野郎である。

そこが多分、評価が分かれる所なのだろう。宇多田ヒカルのアルバムにおいて異物感満載のライムとリリックを持ち込みながら、歌としての結論『いつか死ぬ時手ぶらがベスト』を言い放つのはヒカルの方なのだ。本人たちの意向をガン無視して遠くから眺めた物言いをすると、ウジウジと意気地の無い事を呟き続ける男を女が上からバッサリ斬り落とす、という構図になっている。

何しろ。男の方が「大好きだから嫌い」とガキんちょのような駄々をこねる一方女の方は『カバンは嫌い 邪魔なだけ』と、はっきりと好き嫌いを告げ、その理由まで明確にしている。本当にバッサリである。

もっとこう、男の方に明確な主張があれば、異質物感(造語だぞ、念の為。落とし物は遺失物だ)が如何に甚だしかろうが一定の支持はあったと思うのだが、もしかしたらこれ、KOHHって女子ファンより男子ファンの方が多いのかしらん、どうにも、そこがきっぱりしていないのではないか。

ところがどっこい、ヒカルさんはそういう「青臭系男子」が大好物である。『Stay Gold』を聴けばわかるし(いやあれは"お姉さんを演じてるだけでヒカル自身の本音ではない、と強弁する事も可能だが)、こたびのコラボ相手THE BACK HORNも元々そういう子たちだ。今回こうやって、才能のある青臭系男子と共演できて、お姉さんホクホクだろう。

そこらへんの意識の違いをどう考えるか。ヒカルの事を好きな女子からしたら、憧れの先輩が同級生の男子にちょっかいを出しているのをみて不機嫌になってる、みたいな事なんじゃないか。要するに邪魔。これが『二時間だけのバカンス』なら憧れの先輩同士が睦みあっているのをみてわーきゃー騒げる、って展開になるんだけどね。先輩のカバン持ちしてるだけのOBKRくんの漁夫の利っぷりが半端じゃない。先輩はカバンを持つのが嫌いだから、カバンを持ってあげるのはポイント高いのだった。何の話だよ(笑)。

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『俺の彼女』に戻る前に『忘却』に寄り道してくかー、と思って話を始めたのに、ミュージックビデオが発表になってしまったからにはこのまま『忘却』の話を続けますかな。流れに逆らったり沿ったり、せわしない。

曲に対する評価は言うまでもない。恐ろしくグレイトである。ただそれは、前述の通りインスト・ナンバーとしての凄味がベースにある。

ベース。そう、例えば。2分54秒とか3分23分とか。一発だけ指弾かれるベース音がある。これがやたらと怖い。不気味というか、静かな迫力がある。ぞっとする、というのがいちばん近いか。

ヒカルのインストの特徴はリズムである。というか、インストを作るにはリズムが不可欠というか。昔でいえばアンビエントみたいなサウンド・ストラクチャーなのに、そこにはしっかりとしたリズムがある。鼓動や脈動。そう呼ぶしかないものが。

技術的な事を言えば、ヒカルにとってリズムは動機(モチーフ)だ。それを手掛かりにして、様々な楽想を手繰り寄せる。その特徴がどんなものかを知るには、『Crossover Interlude』と『Opening』を聴き較べればよい。そこに感じられた差異が、ヒカルの個性だ。あの独特のリズム。『BLUE』のスタジオ・バージョンなんかもそうだろう。"とりあえず"このリズムを打てば、ヒカルは芋づる式に音楽を導き出す。打ち出の小槌である。どちらかというと鼓(つつみ)だが。

『忘却』を聴いて思ったのは、この曲、制作過程で随分リズムを抜いてるんじゃないかと。元々はもっとチャカポコチャカポコ鳴っていたのに、他の楽器陣の概要が決まった暁に削られたんじゃないかと。言わば、家を建てる時に足場を組んだようなもので、無事家が建てば足場は不要だ。完成品では取り除かれる。『忘却』はそのような成り立ちなのではないかと。

少し違うが、似た要素をもつ過程を経た楽曲がある。『Devil Inside』だ。スタジオバージョンでは神様に(いや、悪魔に、かな)生け贄でも捧げるのかという位にズンドコ鳴っているリズムも、ライブになるとごっそり削られた。が、その分この曲のもつ迫力のポテンシャルが際立つ結果となった。ライブで『Devil Inside』が流れ出した時のあのぞわっとした感覚が、『忘却』ではスケール感を増して、襲ってくる。覆い被さってくる。飲み込まれてしまう。

その"強かったリズム"の名残が、アウトロで聴けるあの『The Workout』に酷似したリズム・パターンなのではないか、というのが私の推理だ。最初デモ段階ではあのような強いリズムが全編にフィーチャーされていたのが、『Devil Inside』がスタジオからライブに移って進化したように、ごっそりと削ぎ落とされて今の『忘却』だという解釈。昔はスタジオとライブを通した壮大な実験だったのが、今やヒカルの頭の中だけで済まされている―そういう風に考えると、この曲のもつ不気味さに、ちょっとは共感してくれる人も出てくるかもしれない。果たして、本当のところこの楽曲の制作過程がどんなだったのか、いつかインタビューで答えてくれる日が来るのかな。そもそも、こういう"疑問点の立て方"をしてくれるかどうかが、分かれ目なのですが。

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誕生日おめでとう。

今朝ミュージック・ビデオが公開された。『忘却』。

『人魚』はどしたの?と思わなくもないが、2曲しか歌えない『30代はほどほど。』でわざわざフィーチャーされていたからには何らかのプッシュがあるだろうとは予測がついていた。が、ただ唐突にビデオの公開からとは不意を突かれた。普通はタイアップが決まるとか配信とか発表があってからのビデオ公開なのに、何の前触れもないとはね。前日に明日ミュージックビデオ公開しますよと呟きがあっただけ。この時点で曲名すら公開していなかったからには、勿論こういう順序でのプロモーションが効果的と想定されての事。参ったなこりゃ。

そしてその中身だが、大変素晴らしい。基本的にあまりミュージックビデオは観ないタチなのだが、ここまで曲調に合致したトーンで纏めてくれる監督が居たとは。光が差し込んでくるシーンなどはあざと過ぎる位である。とかくミュージックビデオというと監督の作家性と曲調の喧嘩を解決せずに見せつけられるイメージが強いのだが、ここには宇多田ヒカルとKOHHと忘却しか居ない。曲を映像で表現する事に徹している。

間に挟まれるイメージ映像のテーマは血とか体液とかなんだろうか。よくはわからなかったが、鼓動・脈動のようなリズムセクションと血や体液の流れを呼応させているように読み取った。心臓の動きとは、流れと循環を司っている。

にしても、いやはや、改めて、この曲のサウンドは凄い。どうしたってKOHHのキャラクター性に印象が引っ張られがちな『忘却』だが、元々がインストとして書かれていただけあって、「圧巻」「圧倒的」としか言いようがない。ベースのワンノートを響かせただけで空間を支配するセンスをスタジアムサイズや野外フェスサイズの会場で鳴り響かせてみたいという衝動に駆られる。前々からわかりきっていた事ではあるが、『Gentle Beast』という名付けからもわかる通り、ヒカルが歌に縛られずにインストを描くといつもは隠している獣性というか、抑え切れない猛々しさのようなものが静かに佇むイメージがぐわっと出てくる。幾ら歌の巧い子が次から次へと出てきていても、総合アーティスト宇多田ヒカルの力量には遠く及ぶべくもない。

こんな誕生日でよかったのかしらん。朝からこの『忘却』のビデオが、何度も地上波テレビで流れたのだ。『Fantome』は光34歳の今年も、まだまだ惑わせてくれそうだ。

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今朝のツイートもいいねぇ。『こんなコラボは初めてで』という一言に、今までの共演との差異を強く感じる。違ったんだろうねぇ。

一方、『弦とピアノ担当のちょっと歌も歌える5人目のメンバーって感じ』ってのは、随分思い切ったなと。これが宇多田ヒカルでなければ、「何を一曲手伝うたくらいでメンバーになった気でおるねん」と突っ込まれてもおかしくないところ、勿論THE BACK HORNのメンバーは微塵もそんな事思わないだろう。ヒカルがメンバーの1人だと言ってくれて、堪らなく嬉しい筈だ。人によっては、恐縮してしまっているかもしれない。そりゃあ、ヒカルとバンドのメンバーとして対等に、という立場が延々続くのならば、プレッシャーだろうからね。

ここらへんは本当に微妙なバランスだろう。実際に出来上がったトラックを聴けばわかる事だろうが、宇多田ヒカルとTHE BACK HORNのコラボレーションなら幾らでも"ネーミングのバリエーション"が有り得た筈である。何故それが共同プロデュースというクレジットに落ち着いたのか。オフィシャルに掲載されている双方のコメントプラス今朝のヒカルのツイートで、何となく大体の立ち位置が見えてくる。あクマでもミュージシャンとしてはTHE BACK HORN名義、featuring Utada Hikaruとか with HikkiとかUtada Hikaru and Her Back Hornsとか、様々なバランスを連想させるネーミングは、為されなかった。CDを買った人に、プロデュース欄で、ヒカルの名前を知らせる感じ。

では、ただ奥ゆかしいとか謙遜とか、そういう雰囲気かというとそれも違う。プロデューサーって責任者でしょ。最近はプロデューサーというとついついライブでサイリウムを振っている人を想像してしまうが(なにそのアイマス限定)、本来であれば、「しゃちょーさん」みたいなポジションである。言ってしまえば、演奏や作詞作曲のクレジットより格上だ。もっと言えば、バンドのメンバーを名乗るより遥かに厚かましい。

だからこそ私は、このプロジェクトにポジティブな波動を感じるのだ。ヒカルが共同プロデュースのクレジットを得たのは、結果的にヒカルがそういう仕事を"していた"からだ。つまり、最初っから誰それがプロデューサーですあなた曲作って君歌詞書いてあんたら歌ってと役割が区分されてるんではなく、「今度の曲がヒカルの声欲しがってんだけど」「なにそれちょい聞かしてみ…やば、あるかも」「おk?」「もち。寧ろこゆのもアリじゃね?」「おもすれ!っぺんこちゃ来いや」「満更でもねぇ」みたいな自然発生的なノリで皆であれやこれや作ってみて、後で振り返った時に「ヒカルのやった事って最早プロデュースじゃね?」「異議無しおいら頑張った」「んだんだ」という風にクレジットが決まっていったんじゃないかと。

皆で寄って集って何かを作るって、これなのである。ワイワイガヤガヤ。皆が思いついた事を提案し、その都度出来る事をし、百家争鳴なうちにどんどん作品が出来上がっていくのだ。誰かが自分の領分を主張して「その範囲は俺がやる。口を出すな。」みたいな事は、一切無かったのではないか。「やべ、ヒカルのアイデアまぢキレてる光速で採用すんべ」が積み重なって「こりゃもう完全に共同プロデュースだべ」に辿り着いた感じ。完全にただの私の妄想だが、いやはや、麗しいぜ。

こういうのは、しかし、同じメンバーがもう一度集まったからといってまたうまく行くとは限らない。今回限定かもしれない。いや勿論もっと凄くなるかもしれないが、いずれにせよ一期一会である。ヒカルがそういう機会を活かせたとすれば、大変喜ばしい。本当に曲を聴くのが楽しみです。

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復帰後のヒカルは、今まで以上に周囲から期待される役割を演じてくれているようにみえる。特に昨年は、幾人もの音楽ライターが「邦楽市場の救世主」的期待をかけてくれたもんだから、そういう空気がいつのまにか出来上がっていた。『Fantome』は先日、トリプルプラチナ認定を受けたとの事で、これで期待に応えていないといったら大嘘になってしまうだろう。いつのまにか、SCv2を飛び越え、『ULTRA BLUE』や『HEART STATION』と比較されるレベルにまで売上を伸ばしてきた事になる。

『ULTRA BLUE』から数えると、10年になる。CD売上が10年前と同水準だなんて結果、誰が予想し得たか。売れた。『Fantome』に関しては、そう言い切るしかないだろう。サーカムフレックスつき、という注釈を何度みた事か。自分は端末で書けないから書いていないが、それだけ『Fantome』が話題になっていたという事だろう。

そして、話題が途切れない。昨年秋のテレビ出演から『30代はほどほど。』の生ストリーミング、紅白歌合戦初出演。今年に入ってもいきなり『光 Ray Of Hope MIX』が9ヶ国でNo.1になりこぞってメディアで取り上げられる。そして昨日発表になった来月の共同プロデュース。『人魚』のタイアップが活きてくるのはこれからだし、まだまだ『Fantome ERA』モードのヒカルは活動を続けるか。

となると「ツアーは?」と訊きたくなってくるが、いやもうそれは一大イベントなので静観しておく事にしよう。

ただ、スペシャル・ライブ・イベントを考える時期では、あるかもしれない。これだけ関わる人、ミュージシャンが増えたのだ。一度くらいは生で共演しておきたいところ。前なら「ないよ」と言い捨てているところだったが、自分の役割により自覚的になったようにみえる今のヒカルなら、フェスティバル開催まではいかなくとも、ハブになって邦楽シーンを盛り上げてやるぞ位の行動はとるかもしれない。自身のブランド力を、冷静に分析把握しているだろう。

自覚的ではあっても、自然体で自分のペースは崩さない。マイペース、と言ってしまうのは憚られるバランス感覚。それがある。

そういう話をしたくなる今の空気を作ったのは紛れもなく『Fantome』で、そう考えると実に"罠のような"作品だなと一言言いたくなる。昨年4月に2曲の新曲を出した時点ではいちばん大きなテーマは『母への想い』だった筈だ。事実、『道』など、そのものズバリの歌で幕を開けるアルバムだったが、同時に、まるでお母さんとは関係ないように思える歌も収録されていた。皮肉な事に、かどうかはわかんないが、その混在が『Fantome』の元々のテーマを"過去に追いやる"効果があった事は否め難い。

それが作品を作る、という事なのだろう。感情は移動する。ヒカルの感情は作品となって伝播し、個々によって咀嚼され消化されて昇華する。それでいいのだと思う。そこに感情があったと歌は教えてくれるのだ。生きている我々は、また新しい歌に出会う事を楽しみに今日を生きれるのだから。…嗚呼、この話明日向きだったな。まぁいいかっ。

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このニュースには驚いた。ヒカルがTHE BACK HORNと共同プロデュース作品を出すだなんてな。どうやらシングル盤のリーダートラック一曲のみのようだが、これは本当に新局面だ。

『あなたが待ってる』。THE BACK HORN25枚目のシングル盤のリーダートラック。これのプロデューサー・クレジットが、つまり、宇多田ヒカルとTHE BACK HORNの連名なのだろう。

自分が初めてTHE BACK HORNを聴いたのは2001年の事だったと思う。BAY FMのミッドナイトパワープレイ。明け方の5時前にあの鮮烈な叫び歌。また尖ったバンドが出てきたもんだと思ったものだった。多分、ヒカルが初めてAT THE DRIVE-INを聴いた時も似たようなインパクトだったのではないかと勝手に思っている。兎に角凄い切れ味だった。

今はもう尖りもとれ随分と円くなってしまったが、その分円熟味を増したともいえる。いや別にファンじゃないからよう知らんのだが。

さてさて、シングル盤の発売は2月22日の水曜日だそうだが、もう早速バンドのオフィシャル・サイトにはヒカルのコメントが掲載されている。もう既に読んだ人も多かろう。

そこに聞こえるヒカルの声をみて、些かほっとするというか拍子抜けするというか。共同プロデュースというからどんな計画だったプロジェクトなのかと思いきや、どうやらそんな格式張ったものではないらしい。要するに、気の合う仲間と新しく曲を作ったというに過ぎない。「共同プロデュース」という字面とは裏腹に、実態はずっと自然体だ。

「いちどくらい他人をプロデュースしてみてはどうか」という提案を当欄では何度も繰り返してきた。その意義についてはいちいち繰り返さないが、そういう意味では"漸く(こちらの)念願が叶った"という言い方も出来るかもしれない。

んだが、現時点で私が受け取った印象は、それとはちょっと違っていて。なんだろう、やっと"人間らしい"音楽の作り方に実際に携わるようになったんだなと。多くのミュージシャンたちが経験してきた「気の合う仲間とワイワイガヤガヤ侃々諤々で何かする」という"ノリ"が生まれた事に、何だろう、こう言うしかない―"感動を禁じ得ない"。

これこそが「人間活動の成果」ではないか。もっと言えばこれこそがミュージシャンの人間活動だ。言い切ろう。

確かに、今までも共作はあったGLAYのTAKUROともティンバーランドともポール・カーターとも曲を作っている。それらのコラボレーションはいずれも素晴らしかった。しかし、今回は特別だ。何故なら、とても普通だからだ。ヒカルはあっちゅーまに売れてしまった為、多くのミュージシャンたちが普通に経験している事を経験していない。またそういった経験が無くても出来る事が多すぎて"必要なかった"とすら言えた。

でも、だからって、こんな"楽しい事"を一度も経験しないというのも、悪くはないがほんの少しばかり味気ない。いや能書きはいい。今回ヒカルは楽しんだ。それに共同プロデュースという名がついた。ザッツ・オール&それだけ!である。

何だろう、今回ばかりは、曲の出来なんてどうでもいい。第一、ラジオから勝手に『あなたが待ってる』が流れてきたとしても、宇多田ヒカルプロデュース作品だと気付ける自信がない。バックコーラスで歌っていると言っても、くずとの共演みたいに目立っている保証もないし。でも、これでいいのである。ヒカルが普通の事をして楽しんだ。その事実がことのほか嬉しい。私が酒飲みならば今夜間違いなく祝杯をあげていた事だろう。あー赤飯炊くかな。ちょうど小豆があった筈。戻す時間が無いから食べるのは明日の朝か。そんな話はどうでもいいですね。母ちゃん赤飯炊けぇと言いたくなるような妙にふくよかな嬉しみがある。それが今の私の実感である。そうか、こういう時に嬉しみって言葉使うんだねぇ。沁々と、感じ入ってしまったよ。曲に触れるのが本当に楽しみだ。

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『忘却』に対する拒否反応は、単に慣れの問題だという解釈も可能だ。椎名林檎もまた楽曲の半分を占拠しているが、当然の事ながら拒否反応はKOHHに対するそれよりずっと小さい。皆椎名林檎の歌声を知っているからだ。元々E-girls、じゃない、EMI-Girlsとして共演経験があるし、待望されていたというのもあって歓迎ムードが支配的だった。KOHHは「誰やねんお前」からのスタートだから差がついて当然だ。

更に言えば、それだけわざわざ名前を挙げて嫌われる位になっているのは、彼のパフォーマンスが目立っているからだ。『ともだち』のOBKRがそう言われていないのは、彼の声がそんなに目立っていないから嫌うまでもないのだろう。そういう意味では、この勝負、インパクトを残したKOHHの勝ちとも言える。

それら全部を踏まえた上で言うと、このコラボレーションが成功だったか失敗だったかの判断は、今は保留しておくのが妥当なのだと思われる。要は、KOHHが無名だからいけないのだ。彼が今後有名になれば、ヒカルはKOHHを見いだした人物として株を上げる(これ以上株上げてどうすんだという話もありますが)。『忘却』はKOHHを世に出した名曲として語り継がれる。それが彼に課された"宿題"になる。

勿論、ヒカルにそこまでのつもりはないだろう。これで彼の名前も知って貰えれば、という程度。そもそもそんな事の為に作品のクォリティーが左右されるのは我慢ならないだろうし。もっと気楽な感じ且つ作品の事を思って、だ。

にしたって、大胆な事にかわりはない。元々作品中のバックコーラスまで48トラックとかを総て自分で入れる人なのだ。誰か他の人の声が入るだけでも珍しいのに、大幅に作詞を任せた曲を入れるというのが。桜流しも共作だったが、作詞は違っただろうから、違和感のダイレクトさが桁違いだ。今までのこだわりは何だったのかという言い方まで出てくるわ。

それはそれでそれが『Fantome』の特徴でもある。『EXODUS』のように独力で作り込むというよりは、広くアイデアを取り込む姿勢。その社交性が過去になかったものともいえる。もっとも、その『EXODUS』も終盤に息切れしてティンバランドからのインプットを大幅に取り入れたんだがね。

なので、いつもと違うともいつもと同じともとれる、そういう厄介に微妙なバランスに、『Fantome』はある。個々の価値観どころか、その日の気分によっても評価が変わる位の。

なのにアルバムを貫くテーマが「母への想い」という極々私的な視点なのだという事実が、更に頭の混乱に拍車をかける。余りに、様々な精神状態が関わり過ぎているようにも思える。ゆらゆらと揺れる幻のように掴めない。つくづく、『Fantome』という名付けは秀逸だったのだなと痛感せざるを得ないのだった。名は体を表す、だね。

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さてそろそろ『俺の彼女』の解説に戻ろうかなと思ったのだけど(私にとっては3日前も3ヶ月前もあまり変わらない)、もうちょい概観的な話をしてからにしようかな、っと。

『Fantome』は非常によく出来た作品で、特に『桜流し』と『真夏の通り雨』によって宇多田ヒカル史上最高の威厳と迫力を持った作品となっているが、それでも敢えて"問題作"としてこのアルバムをみてみたい。

楽曲単位で"問題作"と言いたくなるのはやはり『荒野の狼』と『忘却』だろう。特に『忘却』は、ヒカルの歌声より遥かに多くKOHHのラップともモノローグとも歌ともつかない"声"が鳴り響いて支配的で、故にどうにも拒絶反応を示すリスナーが多い。

『宇多田ヒカルのうた』でさえ、そこにヒカルの歌がないからという理由で毛嫌い…まではいかないまでも、スルーした人が大量に居る。曲は総てヒカルが書いているのに、である。ファンとしては、あの歌声あっての宇多田ヒカルという意識が強い。

『忘却』に至っては、声のみならず詞の大半までもがヒカルではない、のだ(クレジットは『written by Utada Hikaru and Chiba Yuki』となっている。KOHHの本名名義だ。)。特にゲロだの義足でもだの、ヒカルなら書きそうもない言葉が並んでいる。その異物感は過去最高である。

そもそも、ヒカルの曲に他者の声が入るのはこれが初めてではない。19年前の今日発売された『Close To You』の時点で既に男女デュエットだし、他にも『タイム・リミット』や『One Night Magic』もあった。『Blow My Whistle』もゲスト・ラップ入りだ。更に『Fantome』には他にも『ともだち』でOBKRと、『二時間だけのバカンス』で椎名林檎と歌っている。ゲストを迎えたからといって不評になるという事はないのだ。『忘却』は、過去最高に特殊なのである。

だがこの曲をヒカルが気に入っている事は疑いようがない。たった2曲しか枠がなかった『30代はほどほど。』で、新しいタイアップの決まっている『人魚』ともう一曲という時にわざわざこの『忘却』を持ってきたのだから。さしものi_さんですら「それはやりすぎ」だと思ったくらいに、思い切った選曲だった。


果たして、ここらへんをどうみるべきかというのは、実は悩ましい。総体的にみて、『忘却』とそれの『30代はほどほど。』での起用は、かなり多数のファンのニーズから離れている。しかも、ヒカルの方はそれでファンに挑んでいる風でもなく、ひたすら淡々としている。そこが、何だろう、無理矢理言ってしまえば、"不気味"である。

これでファンが離れるとかそういう事態に発展するまではいかないだろう。皆デジタル・プレイヤーで聴いているのだから、気に入らないトラックはスキップすればよい。ツイートをミュートするみたいなもんで、もう『忘却』抜きのプレイリストを作ってしまってもよい。

ただ、しかし、『忘却』においては、だからこそヒカルの歌がアルバム中最も鮮烈に響いているというのもまた事実なのだ。KOHHの声は聴きたくない、でもヒカルのサビの歌声は聴きたい、というジレンマがきっと存在する。どうせならこのあとシングルカットしてEPをリリースし、"male vocal karaoke version"と"female vocal karaole version"と"full instrumental karaoke version"の3つのカラオケ(つまり、男声抜き、女声抜き、両声抜きの3つ)を用意してその評判をきいてみたいものだ。どんな感じになるだろね。

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今日は(忘れられがちだが)、シングル盤『Close To You』の発売日だ。1998年の事だからもう19年前になる。勿論宇多田ヒカルのキャリアは同年12月9日から始まっているので今日をデビュー記念日とは言わないが、プロのソロシンガーとしてのキャリアはここから始まっていると言って差し支え無いだろう。

当然ながら私もこの時期の彼女の話は全く知らないので語る事も無い。ただ、この年の夏にCubic U名義でNHK-BSの「真夜中の王国」に出演した話は有名だろう。初期のファンが結構この番組をチェックしているのは、後年ヒカルがブレイクした時に改めて再放送されたからだ。

今考えると、カバーソングでデビューしている事実について気がとまってしまう。単純に、立ち位置の問題だろうか。1998年1月というと、まだMISIAがブレイクする前で、R&Bスタイルの日本人シンガーがミリオンレベルで勝負出来るなんてレコード会社側も思っていなかった筈である。私ゃ当時は「IN FLAMESが世界でどれだけブレイクできるか」とか全く関係無い事に興味があったので(いや今でもあんまり変わんないんだけど)、当時のシーンの事なんて全くわかんないんだけどね。

このカバーがカーペンターズの曲だというのが興味深い。98年だから既にその既成概念は成立していなかっただろうが、黒人の確立したR&Bサウンドに載せて白人の作ったメロディーと歌詞をアジア人の少女が歌ってデビューしたのだ。どこまでそのハイブリッドぶりが考慮されていたかはわからないが、今のヒカルの世界での売れ方…特に最新の『光-Ray Of Hope MIX』の売れ方を見てみると、元々国内盤が出ていたアジア圏で強いのは勿論の事、北欧のフィンランドや中東のサウジアラビア、米国をはじめとする北中南米でも上位、所によっては1位を獲得していて、もうそんな人種間の差異なんて見当たらない感じになってきている。

それを音楽の力だと強弁する気もない。実際のところはスクエア・エニックスとディズニーという超強力ブランド同士の協力あってのヒットだろう。ただ、そのどでかいブランドから強い要望が十数年にわたって途切れない事が大きい訳だ。早い話が実力である。

ヒカルは一方、後に椎名林檎嬢とのユニットで"I won't last a day without you"をカバーする。これもまたカーペンターズの曲である。どこまで意識していたかはわからないが、60年代からのPopsのスタンダードに対する理想形のひとつが、カーペンターズなのかもしれない。またそのうちカバーする事もあるんじゃないかとそう思う。

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「楽しむ」を「楽しみ」にするように、動詞を名詞化する時に語尾をイ段に変えるのは一般的な方法である。「思う」→「思い」、「おののく」→「おののき」、「返す」→「返し」、「蹴る」→「蹴り」といった具合に。これはまぁいい。

しかし、世の中には「恨み辛み問題」というのがありまして。「恨み」は「恨む」からきてるのはいいとして、じゃあ「辛み」って何?という。大抵の解説は「"恨み"に語調を合わせた」となっていて、まぁそれなら例外として仕方ないかと思っていたら、昨今、様々な語句の語尾を「〜み」として使う用法が散見されるようになってきて、例外にとどまらない流れをみせているのだ。「バブみ」とかそういうヤツな(また例が極端だなお前(笑))。

『淋しみ』はその流れの中にある訳ではない、と言っておきたい。今回はそれだけだ。

「淋しむ」という単語はちゃんと辞書に載っている。連用形は、五段活用だから「淋しみ」だ。「淋しみます」ってなかなか言わないから共感が薄いだけである。「淋しがります」だよね、現代語では。ついでに言っとくと「嬉しむ」はもっと怪しい。辞書を引くと「嬉しぶ」に飛ばされるもんね。何それpixivの商業クラスタのこと?(違います)

「楽しい」や「悲しい」は完全に市民権を得ているねぇ。「楽しむ」「楽しみ」「楽しみます」。「悲しい」「悲しみ」「悲しみます」。「楽しがります」も「悲しがります」も通用する。この差だよね。

つまりヒカルはどちらかというと古文のノリに近い感じで『淋しみ』を使ったと考えられる訳ですよ。

昨今の「恨み辛み問題」は、幾つかの用法に分類される気配があるが、本格的な研究が為されているかは私は知らない。しかし、みたところ、今まで話してきた「形容詞を一旦動詞化して名詞化」するパターンと、「〜味の転」というパターンの2つが大きな流れであるようにみえる。こちらは私が勝手に「重み問題」と呼んでるヤツだ。

例えば、「ありがたみ」や「おもしろみ」は、「有難味」や「面白味」とも書けるし、「有難み」や「面白み」とも書ける。面白いのは(笑)、この2つの書き分けを読者は「なんか微妙にニュアンスが違うような気がする」とうっすら感じる点である。ただ漢字にできるところを平仮名にしておきましたにとどまらない意味の差を感じとるのだ。

その話の続きは長くなるので思い切り省く。

「重み問題」の本丸は、しかし、実はそこではない。こちらの問題は、「なぜ、重み・高み・深みとは言うのに、軽み・低み・浅みとは言わないのか」である。

それがトラディショナルな問題設定なのだが、最近は「軽み」って使う人が出てきたような…というところもまたポイントになってきて…





…あぁっ、話広げ過ぎたっ。時間が無いので今宵はこれにて撤収&逃亡っ! 軽はずみな発言は控えるべきですねぇ〜反省っ。

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本当は前回の話は凄く雑で、「楽しみ」や「悲しみ」は「楽しむ事」や「悲しむ事」より「楽しめる事」や「悲しめる事」とする方がより適切、だとか細かい話があるのだが、取り敢えずバッサリ割愛しといた。ただでさえ話がややこしいからね。

前回は文法の話。今回は歌詞の話だ。

前述の通り、感情を実際の出来事や実感を通して語るに際しては形容詞の名詞化に動詞化を挟むのが有効な訳だ。動詞というのがそもそも「する」「なる」事なのだから、自然な話。

しかし、その形容詞として「淋しい」を選んだのが作詞家・宇多田ヒカルの妙である。感情を実際の出来事や実感と絡めて語る、という時に、「淋しい」のはどんな時なのか。

「楽しい」が「楽しみ」になる時、「悲しい」が「悲しみ」になる時。実際に楽しい事や悲しい事が起きたりこれから起こったりする。その意味でその人の「楽しみ」や「悲しみ」は目の前にある。お酒を飲んで楽しい。花瓶が割れて悲しい。そういう単純な話だ。

では、実際に淋しい事が起きたりこれから起こったりする、というのは何なのだろうか。そもそも、「淋しい」という感情は、英語でいえば「I miss you」、つまり「相手の不在を思う事」である。つまり、淋しい事とは、思う相手が居ない事、それが"実際の出来事"や"実感"と結びつけられるとは一体? 特に、「思う相手が居ない実感」とは何なのだろうか。実際にもう相手の存在を感じられないと実際に感じる事、だぞ?

ここがいちばんの『淋しみ』の妙である。日々の日常の中で、感じられないと感じる瞬間に出逢う、その時の気持ちがこの歌詞には込められている。実感の不在の実感。声でも匂いでも肌触りでもいい、何かその相手の存在を直接知れるファクターが、もうどこにも無いんだと気がついたその時の感情が『淋しみ』には込められている。

一般論で語るなら「淋しさ」で十分だろう。あの人が居なくて随分淋しさが増した、と誰しも語る事が出来る。『淋しみ』の方は寧ろ、淋しさが不意に襲ってきたその瞬間の方をこそ指す。奇妙なものだ、対象が無い事を"感じる"だなんて。しかし、だからこそ歌にする価値があるし、実感に沿っているからこそ『花束を君に』の歌詞は聴き手に響く。淡々としたメロディーの部分だが、その向こう側には大きな過酷なドラマがあるのだ。

ヒカルはそれに対する今の距離感も、隠さず歌詞に込めている。歌詞にする事で漸く距離がとれたのかもしれない。それだけ、魂を込めて言葉を紡いでいる。受け止める方も、好きなだけ深読みしてくれればいい。それを許せるだけのスケールの大きさと愛が(今のヒカルと)この歌にはあるのだから。

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そういえば年末年始にまた『花束の君に』の歌詞『淋しみ』についてのツイートを幾つか見掛けた事を思い出したので、ちょっぴりそれについて今一度書いておこう。

「淋しみ」という単語は、既述の通り動詞「淋しむ」の名詞形と考える事が出来る。この「淋しむ」という動詞が現代人には馴染みが薄い為、同時に「淋しみ」という名詞にも馴染みがないのである。

では、その「淋しみ」は、通常我々が使っている「淋しさ」と、何がどう違うのか。

普通、語尾が「い」で終わる形容詞はその「い」を「さ」に変える事で名詞にする事が出来る。

「楽しい」→「楽しさ」
「悲しい」→「悲しさ」
「嬉しい」→「嬉しさ」
「淋しい」→「淋しさ」

という具合に。しかし、これらの形容詞は、語尾の「い」を「む」に変える事で動詞化する事も出来るのだ。

「楽しい」→「楽しむ」
「悲しい」→「悲しむ」
「嬉しい」→「嬉しむ」
「淋しい」→「淋しむ」

このうち、「楽しむ」と「悲しむ」は我々も日常的に使用するが、「嬉しむ」と「淋しむ」は滅多に見掛けない。実は、現代語での形容詞の動詞化は、語尾を「む」にするより「がる」にする方がポピュラーなのだ。

「楽しい」→「楽しがる」
「悲しい」→「悲しがる」
「嬉しい」→「嬉しがる」
「淋しい」→「淋しがる」

という風に。この「がる」と「む」が、大体において同じ意味なのだとここでは理解しておく。

翻って。形容詞の名詞化というのは、かなり乱暴だが早い話が語尾に「事」をつける事だ。

「楽しい」→「楽しい事」→「楽しさ」
「悲しい」→「悲しい事」→「悲しさ」
「嬉しい」→「嬉しい事」→「嬉しさ」
「淋しい」→「淋しい事」→「淋しさ」

となる。これを、動詞化を挟んだ場合と対応させてみよう。

「楽しむ」→「楽しがる事」→「楽しみ」
「悲しむ」→「悲しがる事」→「悲しみ」
「嬉しむ」→「嬉しがる事」→「嬉しみ」
「淋しむ」→「淋しがる事」→「淋しみ」

となる。つまり、

「楽しみ」とは「楽しがる事」であり、
「悲しみ」とは「悲しがる事」であり、
「嬉しみ」とは「嬉しがる事」であり、
「淋しみ」とは「淋しがる事」である。

一方で、「淋しさ」とは「淋しい事」だ。即ち、「淋しさ」と「淋しみ」の違いは、「淋しい事」と「淋しがる事」の違いである。

ではその2つの差とは何なのか。動詞化を挟む事で話し手は、実際の体験を通して感情を語るようになる。例えば、「野球の楽しさ」について語るのは一般論でOKだ。話の説得力は別にして、話者が実際に野球に触れたり触れていたりする必要はない。しかし、「野球が楽しみ」と言えば、これは必者が実際に野球に触れる機会がある、観戦であれ参戦であれ現実に体験する事を意味している。つまり、一般論と実感論の違いである。

つまり、ヒカルが『花束を君に』において「淋しさ」よりも『淋しみ』を使った理由は、ヒカルが歌い手として「淋しい」という感情の一般論を語りたかったというよりは、実際に「淋しい」と感じた出来事や実感と結び付けて歌いたかったからに他ならない。一言でいえば、気持ちがよりリアルに伝わるだろうという意図での語の選択なのだった。

これで大体理解してうただけただろうか。しかし、これは大衆向けの解説。宇多田フリークならばここからもう一歩ヒカルの歌詞世界に踏み込んでみるべき…なので、その話の続きは又次回のお楽しみ。

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