山梨発 アドラーカウンセラー 梅さんのブログ

山梨でアドラー心理学に基づいたカウンセリングをしているブログ主の勇気づけの日々 

ブログ主よりご挨拶

2017-02-12 07:41:38 | 日々是好日
 日頃より拙ブログを訪れてくださる皆様、誠にありがとうございます。
昨年末よりブログの更新がないことについて心配される方が居られ、ここにご報告をさせていただきます。
 ブログ主 梅こと田邉裕章は昨年末より体調を崩し、現在入院療養生活を送っております。
退院後回復しましたらブログにもまた復帰いたします。
 更新を楽しみにして下さっていた皆様にはこの場をお借りしてお詫び申し上げます。
心配をお掛けして申し訳ありませんでした。
 復帰まで今しばらくお見守りくださいませ。

 田邉裕章

大失態…    傾聴21

2016-12-14 22:10:55 | 回想

山梨のアドラーカウンセラー梅です。
読むと気持ちが晴れ、自分が好きになり、勇気が湧いて来る。
そんなブログを目指します。 応援して下さいね。

 もう5年前の事になりますが、職場で大変な失態を演じてしまったことがあります。
同僚の女性にブチ切れて思い切り怒鳴り散らしてしまったのです。
その時点でわたしは既にアドラー心理学を学び始めて5年経っていました。情けなかったですね。
陰性感情を使用してしまい、結果として周囲の人間を巻き込んで職務遂行と職場での人間関係に大きな支障をこさえてしまいました。

 件の同僚女性は朝9時からの勤務で、朝一番にやって下さいと病棟で指示された作業を、わたしが出勤する午後二時まで五時間以上放置していただけでなく、私の方で気が付いて仕事の進行について尋ねるまで黙っているという事がありました。
その女性とは年度替わりで組んで仕事をするようになって一か月足らずの時期でした。
配置換えでそれまで私と組んでいた女性が他部署に去った後に来た件の女性が、一か月足らずで慣れないことも多かろうと気を使ってはいたのですが、仕事ぶりを見ていて、どうやら極力楽をしたいという人であり、自分の弱さをアピールして上司に取り入るというやり方が得意な方である事が最初の一週間ほどで分かってしまいました。
とにかくおしゃべりが好きで目の前に遂行しなければならない仕事があっても目に入らない、自分のやり方に固執してそれ以外は理解したくないという有り様で、いずれしっかり話しをしなければいけないなと感じていた矢先の事でした。
病棟の廊下で最初は普通に話しをし始めたのですが、「やり方が分からなかった」など、のらりくらり言い訳にならない意味不明な話をするのみでなく何か自分が被害者のような口ぶりに、徐々にわたしのテンションは高まって行きました。
何故ならその女性は職場では私より二年ほど先輩で、作業のやり方が分からなかったなどということはあり得ない事だったわけです。
「○○さん、こちらの言ってる事が分かりますか! 優先順位を考えて仕事して欲しいのです。朝一番でやらねばならないことを五時間も放置しないでください!」
気が付いたら大声です。 すると相手の女性はこちらが驚くほど逆上して「ああ!分かりましたよ!悪うございましたですねえ!!」とまあ逆切れもいいところなわけです。
わたしは生まれてからはじめてと思うくらい憤怒の情にかられ目の前が一瞬真っ白になりました。
そしてブチ切れて怒鳴り散らしたわけです。
「当たり前だろ!こんな事分からないのか!五時間も放置して患者さん困ってるだろ!!五時間も!!やり方が分からないとか言い訳をするな。子供みたいに! 分からなきゃ他部署の同僚にでも聴いてやれ!五時間も放置して知らないふりとか冗談じゃない!」

 まあどうにも抑えられず怒鳴り散らして、結局相手の女性は逆切れしたままで仕事の態度も考えも変えることはないどころか、後日、上司(女性)にわたしという人間の乱暴さについて泣いて訴え、相手の女性の言い分だけを一方的に聴き上げた女性の上司は一方的にか弱い女性を苛める男という目で私に注意して来るという有り様で、件の女性と仲の良い女性陣数人からも陰口を叩かれるというオマケまで付きました。

 その後、仕事ぶりを見ていた上司には、私が一方的にパワハラのような接し方をしたという疑いは晴れましたし、件の女性については以前から私と同じように評価していた方々も居て一連の経緯について大変だったねと言ってくれる人たちもいました。
その女性とは一年間一緒に仕事をしましたが、わたしを避けコミュニケーションの取りようもなく、次の年に配置換えで別の部署になりましたが、わたしへの遺恨は後を引いて、件の女性は二年後に再び私と組むという配置換えを知らされて退職してしまいました。

 逆切れするのみでなく上司に涙で取り入り、親しい同僚たちを味方につけて陰口をたたくという子供じみたやり口に、当初は私の方でも憤怒の情の収まりがつかない状態でしたが、月日が経つにつれ己の未熟に眼を向けないわけにはいかなくなり、情けないなあとしみじみ思いました。

 同じレベルだから喧嘩になるんだよな・・・なんて独り言を言ったりしましたね。

 なにがアドラー心理学を学んでいますだよ、と。 なにがカウンセラーだよ、と。

 好きになれない相手、生理的に受け付けない相手、合わない相手・・・。
その思考や感情的なこと、楽をするためなら自分を被害者に仕立て嘘をつき続ける考えられないやり口…後々考えてみると姓名は日本人でもひょっとしたら日本の方ではなかったのかも知れないとも思いました。
どのような相手であっても一緒に仕事をしなければならないなら、どうすれば目標が達成できるか、事前にしっかりコミュニケーションを取ってお互いが共通の認識を持てるよう「共通の言語」を造る手間を惜しまず、その上で仕事上の目標の一致をしっかり取り決めすべきだったなと、つくづく反省しました。

 そういう手順を踏まずに、陰性感情を使用して相手にこちらの考えを飲ませようとしたってそりゃ無駄な事ですよね。

 そこまで分かっていてそうしなかった私の怠惰であり、それは或る意味傲慢と言ってよい有り様だったかも知れません。

 件の女性が再び配置換えで私と組むことになり、それが苦痛であると上司に訴えていることを知り、わたしの方で時間帯を変えて他部署に移動してもいいですよと上司には申し出たのですが、そういった配慮をこちらが幾つもしていたことも知らずにさっさと退職してしまった相手。
私の未熟はありましたが、そのようなやり方で押し通した相手が決断した事に関して自分を責めようとは思いません。
しかし、もう少しわたしがアドラー心理学をしっかりと実践していたならと、暫くは思い返すことがありました。

 わたしは嫌われる勇気よりも、好きになれない相手、自分のやり方で押し通そうとする相手とも、目標に向け根気よくコミュニケーションを取って協力して行く勇気を持ちたい。

 そう思ったのがまだ3年前です。

 お恥ずかしい話しであり、自分の在り方に無自覚な陰性感情の使用は人の運命も変えてしまうと痛感した忘れてはいけない思い出です。

 
 次回に続きます

         山梨のアドラーカウンセラー 梅   

 


思い出す・・・     傾聴20

2016-12-03 22:38:35 | 回想

山梨のアドラーカウンセラー梅です。
読むと気持ちが晴れ、自分が好きになり、勇気が湧いて来る。
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アドラー心理学を知ってそろそろ10年経とうとしています。
しかし正直にお話ししますが、わたしはアドラー心理学に「出会った」という言い方が出来るようになったのは、まだほんの最近と感じています。
アドラーの思想、心理学の理論を受け入れるまでに私は随分時間がかかりました。
今でも何かの拍子に【ふと子供の頃の理不尽な記憶や想い】が蘇ることがあるのですが、20~10年前の私はというと、そういう想いが毎日の多くを占めていると言ってよいありさまでした。

 アドラー心理学を学んでいらっしゃる皆さんなら、そんな風に過去の記憶を思い出す【今】の在り方に問題があるとご存知ですね。

 わたしが過ぎ去った過去の彼方から、親や周囲の大人や環境の理不尽な在り方とエピソードと、そのエピソードにまつわる怒りや悲しみなどの陰性感情を甦らせていた時というのは、今現在の眼前にあるタスクに対して行き詰まりを感じていた時でした。
憤りや惨めさや無力感に染まった理不尽な過去のエピソードの記憶を呼び起こす(創り上げる)ことで、その行き詰まりは自分のせいではないと思い込み、自分の人生は自分しか創る事が出来ないのに、自分にはそんな力はないし、誰かに自分の人生を代わって貰いたいと「棚上げ」し続ける自分がいました。

 アドラー心理学の「ライフスタイル」「目的論」「認知論」「対人関係論」「自己決定性」「全体論」「共同体感覚」という概念に触れて、それが自分を変えてくれる物とは真に理解も出来ませんでした。
「なるほどお・・・そういうことかぁ。眼ウロコだなぁ。」なんて、他人事のような理解だったのです。
また、その頃独身で子供もいなかったわたしには、そういうアドラー心理学に基づいた親と子供の関係造りについても
「ううむ、これはよいなあ。俺もこういう感じで親にやってもらってればなあ…。」などと思う程度で、実はそれが自分自身を育て直し、自分の人生を創って行く基盤、対人関係の基本にもなるという理解と実感が即座には持てませんでした。
 ただ、このアドラー心理学に基づいた親子関係の講座の最後には、実際に何週間か自分の家庭で実践してその経過を記録し提出する宿題がありました。
その宿題を提出しなければ修了証がもらえないので、独身のわたしは仕方なく自分自身の育て直しを家庭(両親相手)と職場と交友で試みて、自分を見つめるもう一人の自分の視点で事細かに記録をとりました。
自分自身の育て直しの記録です。
対人関係の中で自分が日々行った、眼前の課題や目標への、建設的で有効なアプローチへのチャレンジとその結果と感想の記録でした。
自分自身と周囲の人々への勇気づけと感謝の記録でもあったように思います。
後にアドラー心理学の恩師である先生から「宿題を読んだ講師の先生が感動していたけど何を書いたの?」と声をかけていただいたことを思い出しました。

 その後、ふと子供の頃の理不尽な記憶や想いが蘇ることがあっても、その記憶を何の目的で自分は今思い出しているのだろう、その記憶その感情を自分は何に対しどう使おうとしているのだろうと考えるようになり、そう自然に考えられるようになってからは、その記憶や感情に囚われることが無くなっただけでなく
「以前のライフスタイルが顔を持たげているな…」と自分自身の対人関係での在り方と、目の前の某かの課題と目標に対し現在とっている方法が適切で有効なのかをチェックするきっかけに出来るようになって行きました。

 思想と理論と言っても、実践してはじめて腑に落ちるものなのだなと感じたように思います。

 子供の頃の傷や想いを抱えながら生きている辛さについて、軽々しく何か一般化して言うことはわたしには出来ません。

 ただ、わたしは自分自身が通って来た道から言える事としてここに書きたいこと、書けることは
自分が目的を持って色んな想いを創り出し使っているという考えは最初受け入れ難くても、過去の記憶も含めて自分の人生は自分が創っているのだと腑に落ちてしまえば、それは確かな希望を伴った真の癒しに繋がります。

 アドラー心理学と【すぐに出会えなかった】わたしのような人間だからこそ、こう書いてもいいような気がするのです。

 次回に続きます

         山梨のアドラーカウンセラー 梅  



思うこと・・・   傾聴 19

2016-11-30 22:23:25 | 日々是好日

山梨のアドラーカウンセラー梅です。
読むと気持ちが晴れ、自分が好きになり、勇気が湧いて来る。
そんなブログを目指します。 応援して下さいね。

 岸見一郎先生の『嫌われる勇気』の大ヒットによってアドラー心理学は一般の方にも名前を知られるようになりました。
山梨でも何処の書店に入ってもアドラー心理学関連の書物が何種類か平積みされ、アドラー心理学コーナーがある書店も多数見受けられます。
もう10年も前にアドラー心理学に出会いながら、勉強嫌いでふらふらとしていた私からするとこの3年ほどのアドラー心理学ブームは「色んな意味」で心から驚かされることでした。

 さて、

 昨日ネットのニュースを見ていたら、来年、新年あけて早々にフジテレビで『嫌われる勇気』がドラマ化されてスタートだそうで、しかも内容が岸見先生の『嫌われる勇気』に書かれているアドラー心理学をベースにした【刑事ミステリー】なんだそうです。
 主演はなんだか久し振りな気がする香里奈さん、当然刑事ですね。記事からちょっと抜粋します。以下

 ~「アドラー心理学」を学んで他人の目を気にせず自分自身をさらけ出して生きている「嫌われる勇気」を持つ主人公の刑事、庵堂蘭子を香里奈が、時に自己中心的な蘭子に振り回されながら「アドラー心理学」を学んで行くバディの青山年雄をNEWSの加藤シゲアキが演じます。~
だそうです。
2017年1月木曜夜10時放映開始だそうで・・・まあ、観ます。 興味がありますからね・・・。

 この記事はまだ続きがあって、こんなことも書いてありました。

~蘭子は他人の目を気にしない「アドラー女子」というキャラクター。組織になじまない一匹狼タイプで、周りの意見には耳を貸さず、常に自分が信じる道を行きます。上司や捜査本部の方針に反することもありますが、本人はそれを悪い事とは感じていません。他人からの評価や評判を一切気にせず、自己中心的だと言われてもまったくひるまない性格。~ だそうです(笑)

 まあ・・・観てみないことには何とも言えないのは当然ですが・・・少なくとも、この記事はアドラー心理学を正確に伝えているとは思えませんよね。

 なんか、ドキドキするんですよ。 

 岸見先生の著作はどれもとても深く、わたしにはしっくりくる内容で大好きなのですが、上に抜粋した箇所を読むと【嫌われる勇気】という言葉だけが取り沙汰されて独り歩きしていないか、課題の分離という「『それを続けると、誰がその人生に於いてその事の結果とその責任を負うことになるのですか?』という文脈があって出てくる考え」を何か自分だけに都合良く取り出して使用してないか、などヒヤヒヤしてしまいます。
 そして主演が香里奈さんという、あの手足の長いモデルさんにして女優さんですよ。それが一匹狼とか・・・。
さぞ恰好いい物言いで痛快な活躍を見せていただけるんでしょうが(少し米倉涼子のお医者さんの二番煎じみたいなのかな・・・)、もうハッキリ言って嫌な予感しまくりなんですよ。

 共同体感覚や目的論と言ったアドラー心理学の最重要概念はどう物語に取り入れてくれてるんでしょうね・・・。

 組織の個々人が競合的ではなく、相互尊敬、相互信頼で、日本人がゲゼルシャフトではなくゲマインシャフトとしての共同体として互いに意識を持つには、とか、刑事ミステリーであるなら、社会に所属することが叶わない犯罪者の不適切なやり方と勇気がくじかれる社会の構図ですとか、個人が矛盾した心を持つ生き物ではなく全体論として捉えるとか、本格的にアドラー心理学をベースにして現在の社会の問題まで触れてもらえたら嬉しいんですが・・・。

 話は飛ぶんですが、子育てや組織運営にアドラー心理学を取り入れるということで、もう多くの方がセミナーや研修をされ、成果を出しておられますね。

 わたしね、これこそ嫌われる勇気ということで書くんですが・・・

 この世の中で人間が幸せに生きるって、アドラー心理学【だけ】で何処まで出来るんですかね。

 私自身がアドレリアン・カウンセラーとして活動していて、それでもこの事については自分を誤魔化さずに考えないでは居られないんですよ。
そんなに、アドラー心理学で誰もかれもが例えば「軽やかに」とか「輝いて」とか「あなたらしく」なんて生きられるもんでしょうか。
それも、この、この世でです。 言っても【利益追求社会】ですよ。
年が明けるとまた年度末で決済に絡んで鬱に入る人、自殺しようとする人も増えます。
生まれ持ってハンデがあったりして、それこそアドラーがそうであったように器官劣等性の克服を生涯のテーマにせにゃならん人たちだって居て、働き口がないとかいう現状があったりするわけです。
事件で殺される方が居たり、毎日事故で誰かが亡くなって行くわけです。
残された方、大切な人を失った方々、そういう方々のお話しもカウンセラーとして私は伺うわけです。
この世で自分が生きて行くということについてどう自己決定するのか・・・そこには簡単な想いなんかないですよね。


数年前にネットビジネスで自分のダウンライン(ねずみ講で言う子ネズミ)を開拓している方々を観察する機会がありましたが、あの時のあの人々のあのノリ・・・自己実現の手立てを見つけたとばかりワッと盛り上がっていた雰囲気。
私はそれ思い出すんですよね。

 わたしが勉強嫌いだったのはライフスタイルを変えたくなかったからなんです。
アドラー心理学を真面目に学ぶならライフスタイル変わりますよ。それ面倒だったんです。正直でしょ。それこそ人にどう思われようが別にいいんで。

一つには今までのライフスタイルで何とか生きて行けてたし、何より変えるのは大変と感じてましたから。
もう一つは、アドラー心理学を学ぶって「アドラー心理学を生きる」ですよ。
つまりアドレリアンになろうってことだとすぐに分かったので、それって【回心】するんだよね・・・と二の足を踏んだんですよ。
 アドラー心理学に出会った時、わたしはプロテスタントの牧師への道を取りやめて、ある教義やらある信仰理解で生きるとか、クソくらえだってつくづく思ってた頃でもありましたしね。
私にとってアドラー心理学を学ぶという事は、それほど深く考え、選ばなきゃならないことだったんですよ。

 わたしには軽くササっとアドラー心理学に入れる方々はよく分からんのです。

今回の記事 途中から自分語りに終始してしまいましたが、このブログに遊びに来て下さる皆さんにとって「アドラー心理学」って何ですか。
アドラー心理学ブームって言われてるようですが、皆さんにとってそれはどう見えていますか。

 次回に続きます

            山梨のアドラーカウンセラー 梅
 


思い出したこと   傾聴18

2016-11-25 00:43:29 | カウンセリング

山梨のアドラーカウンセラー梅です。
読むと気持ちが晴れ、自分が好きになり、勇気が湧いて来る。
そんなブログを目指します。 応援して下さいね。

 今年もあとひと月と数日になりましたね。
不謹慎な話なのですが、毎年この時期になると一年の間に旅立たれた方々のことがふと思い出されます。
身内にも一人逝った者が居ますし、病院勤務を通じて知り合った方の中にも旅立たれた方がいらっしゃいます。

 演出家の蜷川幸雄さんも今年逝かれた方でしたね。

 テレビで蜷川さんの訃報と共に、その仕事や人間が特集される番組が幾つかあり、そのうちの一つを観たのですが、まあ激しい方だったのですねえ。
情熱溢れると言いますか、舞台演出時に怒鳴るわ物は投げるわ、いや驚きました。
一緒に番組を観てた妻と二人で、
「あんな激しい人だったんだねえ」(私)
「もし職場であんなことされるとか、あんな人居たら、わたしだったらやだよ!」(かみさん)
「ううむ…そうだよねぇ。あんなん、勇気くじきだよねぇ…。」(私)
など言い合っておりました。

 蜷川さんの逝去の報に、同じことを感じたり考えたりする方が多かったと見えて、その後蜷川さんの「そういうやり方」が勇気くじきかどうかを深く確かに考察し、ブログで分かりやすく解説した文章にして下さった方もいらっしゃいました。

 さて今回わたしが書きたいことは何なのだろうと、実は書きながら(言語化しながら)何かさぐっているような状態なのですが…どうやら蜷川さんの事を書きたいわけでも、蜷川さんのやり方が勇気づけか勇気くじきかという話しを書きたいわけでもなさそうです。

 わたしはその番組を観て妻(かみさん)と話していた時、上記した「勇気くじきだよねぇ…」という言葉を口から出しながら、同時か、「一瞬早いタイミング」で自分の内に、もし言葉にしたなら
「…いやいや、勇気づけって、人と人の間に成立することであって、くじくような言動であろうが真に勇気づけと呼べることであろうが、受け取る側がどう受け取れるか、何処を目指すとかどんな在り方とかどんな関係かとか、双方を同じ重さで見て考えなきゃならないんじゃ・・・。」というような思いが立ち上って来たのを覚えています。

 その時に言葉としてスッと(頭の中に)出て来たのは上に書いた様な長ったらしい内容ではなく【現象としての勇気づけが生まれる時、条件って・・・】という言葉だったように思います。
 
 その時、「それってアドレリアン・カウンセリングの要点、てか、そのものだよな…
いやいや、勇気づけってアドラー心理学ではそう言ってるけど、それって何だろうって考えて行ったら、どんな流派のカウンセリングであれ、【カウンセリングそのもの】じゃない…。」と思ったのを覚えています。

 書きながら、産業カウンセラーに向けて勉強していた時、それから資格を取得した後更に技法としての傾聴の質を高めるために、45分間のロールプレイを録音して全て逐語記録に書き起こすという面倒な事を何度もしたのを思い出します。

 今でも自分の部屋の棚の何処かに残っているでしょうが、レポート用紙にCO(カウンセラー)とCL(クライエント)の言葉を交互に、その息遣いから言葉の調子・抑揚まで分かる限り全部書き込み、その横にはその時何を考えてその質問をしたか、CLの言葉を聴きながらどう感じていたか、どんな見立てをそこでしていたのか、質問の意図は、発言の意図とその言葉がCLの話しの流れをどう変えて行ったか、それを予測していたか、その先どうするつもりだったか、CLはどんな思いでその発言をしたか、その言葉のあるいは沈黙の奥にどんな感情があっただろうか、それをどうCOは感じ取っていたか、どんなところで繋がった感じがしたか・・・
何故そこでCLの言葉とは違う言葉にしたのか、意図があったか、解釈投与か、なんとなくそうしたのか、その質問はそこでしなきゃならなかったか、早わかりしようとしてないか、何を感じてその言葉にしたのか・・・あそこで違う言葉を選択していたらCLはどう受け答えしただろうか、沈黙に際し二人の間にどんな繋がり感があったか、恐れがあったか、その言葉にはどんな感情が付いてきたか、言葉にして何か生まれたように感じたところは・・・
そんなようなことを覚えている事と考え付く限りのことをビッシリと書き込み、仲間とシェアしながら考えを言い合ったのを思い出しました。
最初45分の逐語記録を一つ書き起こすのに何日にも分けてトータルで8時間くらい掛かったのも思い出しました。

 CLに投げる言葉の内容は当然ですが、受け答えするその言葉の調子や抑揚、声のトーン、表情、姿勢などノンバーバルな部分がCLと一緒にカウンセリングを創って行く上で如何に大きなものであるかを実感できたのもその学びの時でした。
特に何かの技法を意識しなくても、傾聴して行く中で当然の質問をすることで、そこに勇気づけが生まれることもその時に実感した事でした。

 CO役は「○○された・・・、すると、そこは出来ているということですね。」なんて単に事実を確認しただけの応答にもかかわらず、CLが見失っていた自分を見直すことに繋がったとか、技法というような大仰なものではなくしっかり傾聴していくと流れの中で自ずと生まれて行くのも観ました。

 またCO役がCLの良いところを見つけて返してあげようとの想いから
「そう仰るけど、さっきはこう仰ったじゃないですか。 そこは出来てるご自分も認めてあげましょうよ。」と応答したらCLが憤って
「そんなこと自分でも分かってるんです。それにそういう風に言われると、出来てないところがあるって駄目なんだって言われてる気がするんです・・・。わたしは今日ここへ何言ってもいいんだと思って来たのになんか、あたし、このありのままじゃやっぱり駄目みたいに言われてる気がする。」
と言う場面も観ましたっけ…。

 カウンセリングというのはCOの在り方で一瞬にして彩りを変えてしまう繊細な生き物ですよね。

  次回に続きます


         山梨のアドラーカウンセラー 梅