宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「気を補う」

2017年01月17日 | Weblog




立って 両手を 手のひらを上にして伸ばし
前後に軽くゆする。

首や胸腰なども 前後にクネクネと動かし
軽やかな気分を発する。

地平線から昇る太陽を観じ
その太陽が大海を照らし
海鳥たちが羽ばたき 海の周囲には松や柏の古木があり
檀香の香りが広がり
仙楽や 清らかな鐘の音が聞こえるなどの
仙境であると観じる。

東より 天地や日月の精華である 紫色の気が来たり
それを摂取すると観じる。

それから 自己の背中側に 金色の光の筋があり

手のひらの上に 空気よりも軽い気の球があり
自分がその球の中にあると観じる。
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8 コメント

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詩を感じなくしても (目前の空気は吸える)
2017-01-17 11:06:17
 実際、ゆーちゅーで詩人の谷川さんを
拝見しても・・さほど詩を感じ取れない・・
もしかしたら嫌いになるかもしんないし・・・
 それと詩は別個の存在なのかもしれないし
その力を借りてアートを武器にする事だって
出来るだろうし・・寒さの中にも小春日和は
あるわけで・・・つまりケセラセラ
  ふと今盲目の歌手ホセフェルシアーノさんの
ケサラが聴きたくなったね・・もみさんリクエスト
よろしく・・・日本語で誰かが口ずさんでいる
バージョンでも可 よろしく
               以下こぴぺ 感謝
講 話    「詩(ことば)の森に分け入って」

講 師   森原 直子 氏 (詩誌「野獣」主宰)
 今回は、私が、詩という森をさ迷いつづける中で出会った作品を引きながら、ご一緒に詩の森を探索したいと思います。一口に詩といいましても、明治に起こった近代詩の流れはモダニズム運動が起こつた昭和三年「詩と詩論」(春山行夫が編集)の創刊を経て、詩人の言語感覚が変わったといわれるようです。が、近代詩の情緒的な響きの中から、一気に戦後詩、いわゆる現代詩のプールに飛び込んでしまった私は、その衝撃に戸惑ったものでした。

しかし、詩との最初の出会いは、正確に言えば詩のようなものかも知れませんが、二歳年上の姉の詩のノートをのぞき見たときでした。そこに書かれた言葉は、私が書いていた作文や日記などの言葉にはない、異質な輝きを放っていたように記憶しています。その一行たりとも、今は思い出せませんが、中学二年生私には、十分すぎるほど劇的なものでした。でも、詩の虜になったとはいえ、まだどのように書いてよいかもわかりませんでした。教科書にある島崎藤村、高村光太郎や三好達治などの詩を読んでもあまりぴんとこなかったように思います。そんなとき、ヘルマン・ヘッセの詩編に出会い書きはじめました。行分けの日記のようなものでしたが、夢中で書き、そのまま高校生まで突っ走って、高校二年の時に初めての詩集「最初の花」を編みました。これが、私の詩の森の入り口ではなかったかと思います。

 そして、二十才の時、雑誌 「詩芸術」 に投稿していた私の詩を読んでくださった山本耕一賂先生が、「野獣」 にお誘いくださいました。この出会いがなければ、私の詩の書き方ももう少し違ったものになっていたかも知れません。詩を通して、多くの作品に触れ、詩人との交友を深めるなかで、私の視野は広がってきたように思います。

 最初に引かしていただきますのは、この夏、新盆を迎えられました山本さんの作品です.「花火」 は、現実にはありえない幻想世界をユーモラスに書かれる耕一路ワールドの面目躍如といったところではないでしょうか。
 ところで、山本さんは詩の話をされる時、よく三好達治の 「蟻が 蝶の羽をひいて行く ああ ヨットのやうだ」を引用されます。辻征夫は【私の現代語入門】 の中で、三好達治について 「叙情とはひょっとしたら、硬骨の人の慟哭かもしれない」 と表現されていますが、山本さんの作品もまた、まさに静かな慟哭ではなかったかと思います。
 第一詩集『岩』に収められた 「野の石」 の中に、一貫して一本の道をひたすら貫かれた山本さんの信念を持った生きざまを見ます。

       山本耕一路 「野の石」

黒い円い野の石
野の道の石を
少年が投げた
投げられた石は
又も 野の道で 止まった
或る日
野の道の石は
浮浪者に蹴られ
たんぼに逆落ちした
それから四、五日
たんぼの手入れに来た百姓の手で
野の石は
野の道の向う側へおもいさま飛んだ
定着の出来ない 野の石 黒い円い野の石
野の石は 飛ぶことを酷使され
小鳥になった
中空に慄えている雲雀
こぶし大の一点
あれは黒い円い 野の石である

 さて、今日は、いくつか心にかかる詩を用意してきましたが、ご紹介に移る前に、私の考える詩について少し触れたいと思います。

 よく、「詩は難しいから」、とか、「どうもよく分からないのよね」、といわれます。たとえば画を観にいったとき、いろんな見方があるかと思いますが、遠くから眺めたり、近付いて覗き込んだり、その作品を理解するより、感じ取ることに私たちは神経を集中させます。詩も同じではないでしょうか。詩を感じることに重点を置いていただけるとうれしいです。理解はあとからゆっくりやってくるように思います。詩は、詩の言葉は、言葉が言葉としてスコンと立っている、そう感じる時、それが詩ではないかと思います。
 でも、詩について悩んだり迷ったりしますと、最初にお話した詩の入り口で出会った山村暮鳥の 「雲」 のことを考えます。

      山村暮鳥  「 雲 」 

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか

 「おうい雲よ」と素直に雲に呼び掛ける。素朴に雲と対峙する。これが、詩の始まりではないかと思うからです。そこに詩のこころはあるように思います。そこに近付きたいと願っています。
 後は、それぞれの詩について、簡単な鑑賞についてお話させていただきました。しかし詩は、言葉のシャワーを浴びるような気持ちで、読み手がその詩に一歩踏み込む必要があるのではないかと、考えています。そして詩は、日常のささやかな凹のようなところに、宿っているように思います。この場で、ご用意させていただきましたすべての詩について触れることはできません。最後に菅原克巳の「朝の挨拶」を揚げて、この一文を閉じさせていただきます。
 「ぼくはささやかなことが好きだ」と菅原克巳は言切ります。妻が野菜を切っている音には、野菜を洗う水の音、皿の触れ合う澄んだ音、妻の軽やかな足音なども重なりあっているだろう。「ささいな」日常は、生き生きときらきら光を帯びて、朝の清々しさを真っすぐに差しだされた私たちは、本来の朝を再認識するのではないでしょうか。今後も、一つでも多くの詩に触れていただけましたら幸いと存じます。

  「朝の挨拶」    菅原克巳 

さわやかな目覚めに
わが家に
朝陽がさしているのを見た。
それから
妻が野菜を切っている音を聞いた。
ぼくはささやかなことが好きだ。
くらしのなかで
詩が静かな不意打ちのように
やってくるというのはほんとうだ。
もうじき
風にのって
とぎれとぎれに聞こえてくる
丘の上の中学校の
いつものオルガンの挨拶でさえ……

【朗読詩】山本耕一路「花火・公園と老人・野の石」 ▽香川紘子「再会・命の日数」 ▽小池昌代「ねこぼね・馬喰という名の土地で」 ▽辻征夫「落日・桃の節句に次女に訓示」 ▽谷川俊太郎「私の家への道順の推敲・かなしみ」 ▽大岡信「地名論」 ▽菅原克巳 「朝・朝の挨拶・プラザー軒」
・・・・詩とは何か (独断と偏見にして)
2017-01-17 11:19:56
 ふと考える・・・なかなか明瞭な回答は
得られない・・どちらかと言えば漠然と
していて・・・・詩とはノスタルジー
 仙人とは何だろうと思う・・荒唐無稽
奇想天外 神出鬼没 単なる空想etc
要するに掘り下げるか掘り下げないかの
度合い・・・その差は歴然としてるんだろうケド
 唯物史観や共産主義に神は散在しない
でもロシア正教はアラジン ランプは魔法
 ふと今笑みが・・・・詩のことを門外漢の
己が考える ポエムとは そも何ぞや・・
詩を死に倒置する・・死とはなんぞや・・
 生きている限り必ずいつの日にか訪れて
くる・・・あの世と繋げるためにDeath
遭難ですよ川崎君 A地点~B地点に
 ザ ぼんち のA地点~B地点まで
   あればリクエスト
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つまり不可解
      ってことなんだべさオウ 理不尽
自省反省 (サルでも出来ない)
2017-01-17 11:32:23
 ふと反省
なぜかなぜだか・・・自省
もみさんに迷惑お掛けしているバツテン
ご寛恕あれかし
反省はサルでも出来る
ではお猿さんと一緒に
  反省・・・・・・・・・・・・・汗顔
最後に味噌汁を飲んだのはいつだったか|・)… (モッフル)
2017-01-17 16:13:46

|・)…

もみの家に 味噌はあるけれど
マーボ豆腐に使うとか
また 大陸で餃子の中に 少量の味噌を隠し味にする場合があって

もみの家でも そういう使い方をしているばい。

+++++++

お味噌汁で「許せない」具は?じゃがいもや玉ねぎなど


ダントツで
キムチ
だぞ…!
学校の現場の実情 (もみ@山いも短冊揚)
2017-01-17 16:24:22

|・)…

++++++++++++++

ここまで深刻化!
小学校高学年の学級崩壊の驚くべき実態とは?


●小学校高学年の学級崩壊。授業中にトランプ? ボール遊び?



●子どもたちは、大人たちの本音と建前を見抜いている!
今の子たちは情報社会のなかで生きているため、昔に比べて成熟度が高くなっているという。
つまり、“もっと僕たちを真っ当に扱ってほしい”という心の叫びなのだ。

「例えば、よく学校では“みんな仲良く”という正論のスローガンを掲げて指導しますね。この言葉に子どもたちはなんとなく違和感を感じているのです。
社会全体のなかで大人たちがそれを実行できず事件やトラブルを起こしていることを多くの情報によって今の子どもたちは知ってしまっている。
つまり、建前で言っているということを見抜いているのです。
それなのに、相変わらず教師は本音と建前を分けて権威と権力で押さえつける。
そうしたら、反発するのも無理ないですね。運動会などの行事のあとに学級崩壊が加速するのもそこに原因があるのです」

つまり、今の子どもたちは、正論をぶつけるだけでは通用しないし、納得させられないという。
子どもたちの言い分を聞いてやり、そこで真剣に話し合って建前との折り合いをどうつけていくかということを教えていかなければならないという。




今の子供って本当に不幸だと思う
生まれたときからネットがあってスマホがあって
日本の衰退を突きつけられて育つとか・・・



うちの子供5年生だけど、算数のドリルとか、
クラスの友達にやらせて、LINEで写真送らせて、
それ写してるけど、世の中便利になったなぁって
しみじみ思うわ。グループ機能で3,4人でシェアできるんだって。
技術は人の生活を豊かにするってことだな。



犯罪者教員による自習した方がマシな授業受ける方がどうかしてた


腐ったみかんは排除しないと全体が腐るのが現実


をじさんが反省される事なか|・) (もみ@イカリング)
2017-01-17 16:27:51

|・)…

もみは をじさんから迷惑を被ってなかばい|・)

世の中 意外な所に 意外なものがあったり、
でも そういう意外なものは
外側から見ても 全く連想もできなかったりする事が多いようばい。
知ってる 知らない (の・・・・・乖離(かいり))
2017-01-17 18:16:58
善悪 美醜に限らず相対したものを
乖離せずに融合 合一これ即ち要(かなめ)
なんじゃないの・・・・・・男女平等なんて
言いながら男尊女卑ウーマンリブ
男は敷衍されて女 女も敷衍されて男
単なる役割の分担作業 Love&ジェラシー
 更に敷衍させて押し進めて行けば自ずと
    桃源郷 桃栗三年 柿八年
       柚子は九年
          花盛り・・・らんらんらん
らんらんらんが 楽しそうだもん|・#) (もみ@茄子炒め)
2017-01-18 06:42:32

|・)…

太陽の異変に関するニュースも
最近増えているようばい。

++++++++++++



地球は「4000年間の温暖化」を終了し、
これから長い寒冷期へ。
そして、「地球の気候変動の原因は太陽活動にある」

http://indeep.jp/4000-years-highest-solar-activity-ended-and-cooling-begins/

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