福岡城西キリスト教会 説教要旨

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

説教題:みんな、仲良く

2016年09月18日 | 日記


説教箇所:マタイによる福音書 28章19節-20節


起、敬老の日を覚えて
 教会は今日が、・・敬老の日を覚えての礼拝です。そういう訳で、今日は、「敬老の日にちなんだ」メッセージを準備しました。また併せてシリーズ説教、「教会の使命」、についてもメッセージもしたいと思います。

・・・さて大変嬉しいことに、今日も、ここに、ご高齢の方々がいらっしゃって、共に礼拝を献げる恵みに与っています。・・・・本当に、皆さま方は、主日礼拝も聖書の学びと祈り会をも、全くと言っていいほどお休みになれません。ご承知の通り、神さまへの最大の奉仕は、「礼拝を献げることだ」、と言われています。ご高齢の方々はまさにその通りのことを実践してくださっているのです。・・・・キリストの教会を造ろうと努力している私達への最大の援軍であります。

 さて、ご高齢の方、と言っても私もあと数年で皆さまの仲間に入れていただきますが、・・いわばその老年期にある方々に聖書はどう言っているでしょうか。そのことを確認してみましょう。老年期のことについて書かれた聖書個所は少なくありませんが、今日は、コヘレトの言葉から見てみましょう。中でも12章1節-8節を読んで行きましょう。(森 姉)、

・・・・老年期は、コヘレトの言葉に記されているように、・・・本音をいうなら、ある意味、つらく悲しい時期であります。1節には、老年期を「苦しみの日々」、あるいは、「喜びはないという年齢」、といっています。そして3節以降には、具体的にどんな悲しみ、どんなつらさか、があるか、ということが記されています。・・それは体の器官が衰え、終りの時と向き合わされる時、として描かれているのです。・・・・・まぁ、ここで記されている老年期は、「悪しき日」であり、まことに「空しいもの」として描かれています。

 しかし、こういう悪しき日を迎えようとするものに聖書が命じるのは、「あなたの造り主を覚えよ」という命令であります。造り主を覚えるということは、自分が神によって造られた被造物であることを認識することです。それはつまり、神のよって始められた自分の命に、神によって終りがもたらされることを承認することであります。もっと、率直にいえば、神が私たちに、「時間の中での死」を与えられたということを直視するようにとの命令であります。そしてこれは全体としてみるなら、・・・・いい命令であります。

 なぜなら、それは、死だけを直視しなさい、ということではないからです。造り主なる神を覚えることにより、神とのかかわりの中で死を受け止めよ、ということが意味されているからです。6節の死の描写の後で、7節に、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神へ帰る」、と書かれている通り、・・・・死を、・・・神の元へ帰るという人格的な出来事として受け止めなさい、ということが言われているのです。このことが、・・・神を知らず死んでいく人との決定的な違いだと言う事ができましょう。

さて、コヘレトの言葉12章1節は有名な言葉です。・・生きること、死ぬことが、単なる生物学的な現象ではなく、・・・それは神の意思によって始まり、神によって終わる、という大前提が意味されているからです。すなわち、だから若いうちから、造り主を覚えて、老年期に備えることが勧められているのです。

そして仮に、今、若くないものも、今日は明日より、若い故に、・・だれでも神のこの命令を聞いたそのところで、造り主を覚え、自分の死を時間の終りとして、神と関わる人格的出来事として受け止めるよう求められているのです。


承、交わりは教会の使命
さてシリーズ説教として教会の使命を語ってまいりました。なぜでしょうか、・・・・使命を持っていない教会は間違いなく元気を失っていくからです。そういう訳で私たちは40周年記念で使命を定めました。また使命は生きる目的と言い換えてもいいと思います。(青春)・・・・そこで教会が教会であるためには、まず礼拝すること、奉仕すること、伝道すること、と確認してきました。そして教会の使命の第4番目が、交わりであります。どうして交わりが教会の使命となるのかは、今日、司式者が読んでくださったマタイによる福音書の28章、「大宣教命令」と言われる19節のみ言葉にその根拠があります。

・・・「彼らに父と子と聖霊の名によって“洗礼”(バプテスマ)を授け」・・・・・実はこの「バプテスマを授け」、というみ言葉が、交わりを示す根拠となるみ言葉なのです。確かにバプテスマそれ自身は、主の晩餐式と並ぶ教会の2大礼典と言われるものです。礼典としての重みがあるのは事実です。しかし、バプテスマは同時に、その方が教会の一員となり、私たちがその方を教会の一員として迎え入れることを意味しています。教会の一員として迎え入れる、教会の一員にされていく、・・・・そのところに交わりがあるです。今年は5月15日に竹内太志さんがバプテスマを受けられ、私たちの教会の一員なられました。・・・また、現在もバプテスマの候補者がおられます。・・・このように神さまはどんどん新しいメンバーを加えていきなさい、と私達に命じておられるのです。だれもこの事を止めることはできません。


転、交わりの二つの側面
交わり-信仰共同体-としての交わり
さて教会の一員となることで、交わりが生まれます。そこで、交わりについて、交わりがもっている2つの側面を取り上げたいと思います。まず1点目は、信仰共同体としての交わりです。何故、血縁でもないのに、・・・・○○兄とか、○○姉、とか教会で言うのか、・・・・それは、私たちが信仰共同体に属しているからです。・・・そして何故、教会が信仰共同体になるかといえば、それは私達が概ね同じことを信じている、という信仰に依ります。・・・例えば、パウロはコリント信徒の手紙一で、「最も大切なこと」、として、「イエスさまが、私たちの罪のために十字架で死んでくださった」、と言いました。・・・パウロのいうこれが、・・・わたし達の多くが共有する信仰の根幹でしょう。・・・この信仰は、・・・「神によって罪、赦された」、という事実と、・・・・・それゆえ、「神と私たちの関係は正しいものとなった」、という結果を導きます。・・すなわち、この神さまと、・・・私たちとの関係が、信仰共同体の土台となるものです。・・・・これが世にない交わりで、決定的に大事な側面です。

そしてこの信仰共同体の頭は神様でありイエスさまです。私達はその枝です。ですからブドウの枝がブドウの木に繋がっていて枝であるように、私たちも神さまと繋がってこそ私たちなのです。これも大事な点です。そしてこれを例えとして言うならば、よく言われるようにこれは十字架の縦の関係です。この十字架に於いて、神と私という関係、それは祈りを通して、また聖書のみ言葉を通して、礼拝を通して・・・・神と私という「交わり」、があるのです。・・・それ故、この縦の関係は私たち信仰者においては、・・・決定的に重要であります・・・だからこのことを信仰者の誰もが「はい。そうです」、と承認してくださるに違いありません。重要であるこの関係が弱くなると、教会が混乱します。教会が弱体化します。教会に陰口が増えます。


交わり-人間関係-脆い
第2の側面として、「私とあなた」という人間同士の関係があります。・・神様と私というのが十字架の縦の関係というなら、これは十字架の横の関係に例えられるものです。目に見える現実は、圧倒的にこの人間同士の関係、すなわち人間関係だ、と言ってもいいでしょう。・・・人間関係という言葉を、文章の頭にもってきて、言葉を続けたらどうなるでしょうか。例えば、・・人間関係は、・・・難しい。 人間関係は、・・・ややこしい。・・あるいは、人間関係は、・・・面倒くさい、などとおそらく否定的なニュアンスの言葉が多いのではないでしょうか。・・・・・・夏目漱石も小説、草枕で、人間関係の難しさ、機微について触れています。・・・、いわく、「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と。

・・・・もちろん、人間関係には、このような否定的な面、あるいは人間関係の持つ機微、そうした面があるのは否めません。しかし、一方で、人間関係には明るく、楽しい一面もあります。男と女の人間関係は、情熱的であります。友人との関係もいいものです。私も大学テニス部の仲間、職場で一緒だった友人夫妻と今に続く関係があります。・・・また、親子の人間関係にもいいものがあります。生前、憎しみや軽蔑さえしていた父を、その父が亡くなり、初めて父の生涯の全体が見えて、・・そこで、「ああ、この人の息子で良かった」、などという告白を聞くと、こちらも感動します。

・・・・・しかし、人間関係を結論的に言えばどうでしょう。・・・・人間同士の関係は脆い、といえないでしょうか。あれだけ愛し合って結婚したのに、離婚の泥仕合をする。実際、統計によれば、3組の結婚に対し1組が離婚しています。・・・またたった2人しかいない兄弟が仲違いし、わずかな遺産を巡って血を分けた兄弟が争う、・・・また、親しかった友人が今はまったく疎遠になっている、・・・・こういうケースを聞くことは珍しくないからです。また、極め付けは人間が人間を殺すことです。カインに始まる殺人のニュースは、嫌でも毎日目にします。

「私とあなた」、という関係が何故、脆いのか、・・・・それは聖書によれば、自己正当化する人間の本質に起因します。皆さん、思い出してください。創世記3章で、神さまは「取って食べるな」、と言われました。しかし、アダムはそれを食べてしまいました。神さまから、「なぜ、食べた」、と聞かれたアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から与えたので食べました」、と自己正当化しつつ、エバに責任を押し付けました。・
・・・この物語が語ること、・・・私たちの人間関係が脆い究極の原因は、「私には問題がない」、・・・・「問題があるのはあの人だ」、とする人間の罪深さ、弱さにある、ということです。そして残念なことに、この自己絶対化と他人の所為にすること、・・・・・これは色の薄さ、濃さがあるだけで、・・・・真っ白という人は誰一人いません。・・・色の多少薄い者が、色の多少濃いと思われる者に、・・・「お前は色が濃い」と言っているだけのことです。・・・真っ白なのは、イエスさましかおられません。・・・・・だから、人間関係の脆さは、人間の罪にあるとまとめることができましょう。


結、交わり-安定的な交わりを造るために-
 さぁ、それでは、私たちは、安定的な人間関係を造ることはできるでしょうか。   日本の故事に、「3本の矢」というものがあります。お隣の山口県、昔の戦国大名の毛利元就が子どもに1本の矢を渡し、「折ってみよ」と言った。すると矢は簡単に折れた。次に3本の矢を束ねて渡し、同じように「折ってみよ」、と言った。すると子どもの力では3本の矢は折れなかった。この故事は兄弟が結束することの大事さを語っていると言われます。

 類比的に語らせていただくなら、・・・それはかって私がクリスチャンになってから聞かされた話ですが、私とあなたという横の関係は今まで見て来たように大変、脆い、・・・しかし、この不安定で脆い横の関係も、・・・・この神さまとの縦の関係と結び合わさった途端、・・すなわち十字架の形になるや否や、・・・強さとなると教えられました。

 十字架は、見てもわかるように、その交点、縦と横が結ばれる所、そこが一番、強固で安定的に見えます。それは、言ってみれば、神様と私という関係と私とあなた、という関係が正に「交わる」、そのところであります。・・ここにこそ安定的な人間関係が生まれるという秘訣があるのではないでしょうか。

では、神さまと私、私とあなた、それが十字架として交わる、そのところでは何が起こるのでしょうか。そこは、例えるなら、砂漠の交易路にあるオアシスのように、神さまの慈しみと私達の人間関係が交差する所だと言えましょう。そこで起きるであろう2つのことを申し上げたいと思います。

1つは、私たちは自己を絶対化しないようになるでしょう。聞く耳の無い、「自分は絶対、正しい」、とするあり方は、人間関係をしばしば壊してしまいます。主イエスは、自己を絶対化する人を巧みな例え話で戒められました。いわく、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」、「 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:3-4)・・・自己を絶対化しなくなれば、「自分の目の中に、太い大きな丸太があるのに気付き、・・あなたの目の中にあるごみを取らせてください」、ということに大きな躊躇がでてくる。・・つまり、自分も自分の中ある間違いに気づき、・・・その気付きが、人の誤りを指摘することに躊躇させるのです。・・・それでも、その謙虚な姿勢からでる誤りの指摘は、謙虚であるが故に、相手の心にもっとも鋭い刃となって突き刺さるに違いありません。・・・自己を絶対化しないようになることは、結果として自分自身が生き、私たち達の人間関係も生きるようになっていくのだと思います。

2つ目は、私たちの人間関係は清くなり、栄えるようになるでしょう。・・・・神さまと私たちの出会う所、・・・・それは祈りの家であります。祈りの家は、「神は愛である」という神さまの住われる所でもあります。・・神さまは私達に互いに愛し合うように、と教えてくださいました。・・・神さまの愛とは、「感情として好きになる」ことではありません。愛は、「好きになった時、私たちが自然に行うようなことを、・・・それを意識して行うことです。好きでもない人に、「こうしたら喜ばれるだろ」、ということを意識して、あるいは決意して行う、ここに愛があります。祈りの家では・・・わたしたちは、「人の悪口を言わない」、「人の陰口をいわない」、・・とそうさせられていくのです。・・互いに愛し合うという具体的な小さい行為は、この「悪口を言わない」、「陰口を言わない」、ということであります。・・・神さまの愛と私たちの祈りが交差するこの所で、・・わたしたちは愛なる者へと変えられていくだと思います。ですから私達の信仰共同体は、・・・・清められ、更に栄えていくようになるでしょう。

私達の信仰共同体がこうして清められ、更に栄えるようになる時、わたしたちは隣人との交わりにも一層目を開かれ、ますます主の御用に励むものとされていくに違いありません。

今日の説教をお聞きになり、「自己絶対化をしないぞ」と決意された方、小さなことですが、「人の悪口・陰口を言わない」、と決意されたから、心の中でもいいです。・・手を上げてくださいますか?
 

お祈りしましょう。
憐れみ深い天の神様、今日は敬老の日を迎えての、またあなたが私達に下さっている使命について、考えることができてありがとうございます。・・・ご高齢の方々は教会の宝です。神さまありがとうございます。そしてまた神さまとの交わり、私達人間同士の交わり、この二つが強く結びあわされる交わりについて考えてきました。交わりは信仰生活の土台でもあります。それゆえ、交わりの清くなること、栄えることを祈りつづけます。私達の交わりを祝福してください。
この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります。    アーメン。

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