岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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北上川の水のひびきを詠う・斎藤茂吉の短歌

2011年04月19日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・うねりつつ水のひびきの聞こえくる北上川を見おろすわれは・

「石泉」所収(中尊寺行)。1931年(昭和6年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」156ページ。

 茂吉の自註がある。

「兄の葬儀を済ませて、それから、鳴子、中尊寺、石巻、松島、塩釜、仙台に旅して帰った。・・・中尊寺、北上川もはじめての旅だから、これも感動が深かった。私はキタカミガハといふ音に久しいあひだ憧れてゐたが、今度その心を満たすことが出来た。」(作歌四十年」)

 佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」では扱われていない。

 塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉・百首」では、この作品に直接触れていないものの、旅の背景を次のように述べる。

「芭蕉は松島から平泉に廻り、後に尿前(しとまへ)の関、尾花沢の順に巡った。・・・茂吉の旅は芭蕉の逆をたどってゐる。鳴子にさしかかる前にも、彼は< 奥の細道 >を回想する。」

 茂吉の憧れが北上川だけでなく「みちのく」にあったのは確かだろう。茂吉は東北生まれだが山形県であり、陸奥国ではなく出羽国に近い。幼いころ病気になると母に手を引かれて山を越え、仙台の病院に行ったという。おそらくそれら一切をはらんだ憧れだったのだろう。

 芭蕉のことが意識されているが、この道は能因法師・西行・芭蕉・正岡子規と俳句・短歌といった短詩形文学にはゆかりが深い。まして中尊寺のある平泉は、北上川の支流・衣川の南に位置し、歴史的には「蝦夷(えみし)」の地の外側、奥州藤原氏の陸奥国一円の単一支配の象徴だった。まさに「兵(つはもの)どもが夢の跡」の地である。

 上の句の「うねりつつ水のひびきの聞こえ来る」の「うねり」は実景であるとともに、そういった「歴史のうねり」をも感じさせる。「北上川」も詩歌にたびたび登場するように、独特の情緒を持つ。その情緒が「きたかみがは」の音からもうかがえる。

 交通がいまほど便利でなかった昭和初年の茂吉にとっては、貴重な体験だったに違いない。ちなみに北上川流域は江戸時代初期までは、農業・畜産を中心とする生産の中心地域だった。







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