・クレソンの青も落葉も池のうち水の音せぬ水源池にて・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。
佐太郎の自註から。
「(鱒を詠った)翌日、きのこを探ったりして山中に遊んだが、そのとき一つの水源地を見た。湧き出た水が池のように音なくたたえているが、クレソン(水芥子)が茂りクレソンのない部分には落葉が散りしいていて、よく見なければ水源だと気づかないほどであった。『クレソンの青も落葉も池のうち』はそういう水源池をえがきえたように思う。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
佐太郎本人は書いてないが、「クレソン」というカタカナ語と、「水源池」という漢語、それに「水の音せぬ」という表現が冷たさ、硬質感、透明感を出している。
まさに「和語も漢語も洋語も打って一丸となって詩になっていればよいのである」とする佐太郎の持論の結晶のような作品だ。
それともうひとつ。主観がどこにも直接は表現されていない。「虚語」はあるが、「虚と実」の「虚」はない。所謂「虚と実の出入り」がないのである。
これを「客観写生」と世間では言うが、それが出来ること、事実を提示するだけの叙景歌がきっちり詠めるところに佐太郎の歌の表現領域の広さがある。
奥日光には水源池が多い。本当に音がしないのだ。ある水源池で「アメンボ」が水面を滑っていると思ったら、そこが湧水地点で驚いたことがある。底の砂の動きがせわしなかった。
奥日光の中禅寺湖のうしろには、日光白根山(前白根・奥白根・隠れ白根)の山々が聳えている。その稜線を越えると群馬県側になる。つまり奥日光は栃木県で最も標高の高いところだから水源池が多く、ほかに山や川、湖、湿原などがあり、叙景歌の題材にはこと欠かない。