岩田亨の短歌工房 -短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎-

短歌、日本語、斎藤茂吉、佐藤佐太郎について考える

斎藤茂吉:白桃の歌の評価をめぐって

2011年02月24日 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり・

 「白桃」所収。1933年(昭和8年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」175ページ。

 読み方:「白桃・しろもも」本来は岡山県地方でとれる「白桃・はくとう」という品種の桃。

 僕の第1印象は、水分をたっぷり含んだ美味そうな桃が眼の前に浮かんでくる秀歌というものだが、違う評価もあるようだ。そのことを少し考えてみたいと思う。

 先ずは茂吉による自註。

「この白桃といふのは、岡山あたりの名産白桃(はくとう)のことだが、シロモモと大和言葉にくだいて見た。ただの瑣末行為だが、かうして歌になってみると、何か抒情詩的な暗指があって棄てがたいやうにおもふ。」(「作歌40年」)

「私の作に< ただひとつ惜しみて置きし白桃ゆたけきを吾は食ひをはりけり >といふ一首があるのに因んで本集の名とした。」(「白桃・後記」)

 「作歌40年」の控え目ないいかたとは裏腹に自信作だったようである。

 さてその評価。

「このゆたかな声調は一体どこからくるのだろう。・・・そこにあるひたむきな姿を見なければなるまい。この< ただひとつ惜しみて置きし白桃 >にもそういう、貴重なものを惜しむような思いが感じとられよう。・・・< ゆたけき白桃 >というのでなく、< 白桃のゆたけきを吾は >という倒置した表現に強調があり、感動がある。いかにも豊麗な白桃の写象である。結句< 食ひをはりけり >にも、食い終わった口腹の満足感というだけでなく、精神の充足を揺曳しているようだ。」(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)

「こういう口腹の楽しみはこれも生の一部であるが、あまりなまなましくてはよくない。ただ< ゆたけき >といったのが抒情詩としての力量であり、暗示的な味わいはこれにもとづいている。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)

 それに対し異論もある。

 例えば塚本邦雄。上の句・「ゆたけき」・結句については「特徴のある佳品」「俄に格別の光を放つ」「これ以上考えられぬ効果」と評価しつつ、

「大和言葉にくだくのも時と場合によりけりであらう。・・・< 白桃 >は銘柄である。林檎における< 紅玉 >を< べにだま >などと読み変へることは許されない。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路まで・百首」)という。

 だがこれは塚本邦雄自身が言うように、「表面が白に近い桃」として鑑賞すればすむことである。茂吉の自註がなければ問題にもならなかっただろう。こういうことはままありうる。「作歌40年」を読んだ知識が鑑賞の邪魔をしていると僕は思う。

 そのほか大仰だ、古臭い、「白桃のゆたけき」はわざとらしい、などと言う批判もある。しかし、まず作品の制作年代を考える必要がある。1933年(昭和8年)の作である。表現が古風なのは当然。現代にそれをそのまま、あてはめられないのが当然だ。原作の語感の時代的古さをもって作品自体を否定するのでは、古典化した近代短歌の鑑賞ができないことになる。

 また「白桃のゆたけき」は厚みのある表現で、現代でも通じるものだと僕は思う。こういうことを全て斥けるのは適当でないと思う。

 「桃一個食べるのに何と大袈裟な」という批判もあるが、茂吉はそういう人だったのだ。たとえそれが桃一つあっても「一生懸命」食べる。それが一生懸命生きている人間の姿でもあろう。まあ、それが長所でもあり短所でもあるのだが、

「その人の長所は、ときには短所にもなる」

という言葉があるが、人間とはそういうものだろう。「桃一個でもひたむきに食べる」。それが人間茂吉の魅力であり、欠点でもあったのだ。

 その欠点が重大なことにつながるのだが、それは後年のことである。

 ちなみに岡井隆がこの歌をどう読んでいるかを、僕はまだ知らない。


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